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『泉御櫛怪奇譚』第一話

第一話『御招キ櫛猫 招カレ子猫』
原案:解通易堂
著:紫煙

――巡る時の中で、縁日と祭りは混同して思われがちですが、こと令和の世では『仏様と縁のある日に、神仏をまつるお祭りをする』くらいの知識があれば、事足りると思います。
だって、ほら……祭りの日は、不思議な縁が結ばれると思いませんか?
例えば、そう……出店に並ばれた雑貨を巡る、こんな話など如何でしょう……?――


 今年もネットニュースでは、過去最高気温を更新したと言う記事がページのトップを陣取っている。あまりに暑すぎて、蝉の鳴き声なのか耳鳴りなのか時々分からなくなるのは、貴方も経験がないだろうか。
 夜は幾分か涼むだろうと思いきや、昨今は更にアスファルトの面積が大きくなっているため、中々体感温度が下がらない。なんともままならない世の中である。
 そんな熱帯夜に行われたお盆祭り。友人と共に訪れていたOLの美希は、出店の端にある飲食スペースで缶酒を煽っていた。
「っくはーーー! やっぱりお祭りには缶ビールだよねぇ!!」
「ちょっと美希! そんなにビールとチューハイ飲んだら潰れちゃうよ」
「だぁいじょうぶ。あんたより私の方がお酒強いんだから」
 友人の心配も無視して、既に四本目の缶酒に口をつけている。上機嫌に見える美希だが、彼女を見た友人は肩肘をついてため息をつく。
「はぁ……普段そんなペースで飲まない美希が、祭りに来て自棄酒するくらいなんだから、よっぽど今の仕事ヤバいんだね」
「ホンットそれ! なんか最近細かいミス多くて先輩に怒られること増えてるんだよね!
それは私のせいだから仕方ないんだけどさ!! それよりも上司のセクハラがエスカレートしてて超うざいし、お盆休みは4日しか取れなかったし、もう最悪!!」
「はいはい、どーどー」
 友人は荒んだ美希をなだめようと、自分の缶酒も差し出した。二本の酒を交互に飲む美希は、更に愚痴を吐くかと思いきや、缶のラベルを睨みつけて言葉を濁す。
「それに……最近は……」
 最近は何かの視線を感じたり、誰もいない所で音がしたりする。とは、酒の勢いでもこぼすことができなかった。美希にとって気のせい程度の違和感でしかなく、下手に話を広げられても酒が回った思考では収集がつけられないと悟ったからだ。
「最近……何?」
「……なんでもない。新人の子の面倒も任されてるから、余計に自分の作業が散漫になってるのかも。お盆休み明けが地獄確定なのホント憂鬱だよ~!!」
 美希は仕事の鬱憤で誤魔化して、空っぽの缶を傾けた。最後の一滴が唇を伝い、ほろ苦い風味が口内に広がる。
「美希って昔から苦労性だもんね。整体には行けてる?」
「全然。だから肩こりも酷くなってるよ。ほら」
 重たい肩に手をやって、おじさん臭く腕を回すと、友人が美希の肩を確かめるように揉んだ。
「うっわ硬っ! 二十代の肩じゃないよこれ」
「ヤバいよねぇ。この調子じゃあ、三十歳になるまでに四十肩になりそう」
 自棄になってわざと肩を伸ばしてみせると、その勢いですっと立ち上がる。
「あーやだやだ! 休みくらいパーッと飲んで忘れよう!!」
「まだ飲むの? もう買ったヤツ全部飲んじゃったじゃん」
「んっふふー。祭りにはいくらでもお酒があるのだぁ!」
 美希は軽い千鳥足になりながら、出店に向かって歩きだした。
「あ、美希、スマホと財布!」
「ああ、ごめんごめん。カバンごとちょーうだい」
 だるんと伸ばした腕にカバンをかけてもらい、再び出店に向かおうとする美希に、友人は少し心配そうな表情を向けた。
「美希、歩ける? 私が買いに行こうか?」
「大丈夫だって。席取りよろしく!」
 友人の顔を流し見して、人混みの中に足を踏み入れる。とは言え、殆どの人間は打ち上げ花火を見るため、最初の頃よりはだいぶ歩きやすくなっていた。
 それでも、賑やかな出店通りとアルコールの力で、自然と蛇行になり鼻歌がこぼれる。
(そう言えば、縁日そのものが久しぶりな気がする……人が多い満員電車は苦手だけど、お祭りの人混みだけは何故か平気なんだよね)
 美希は歩きながら、屋台や露店に目を配る。昔ながらのチョコバナナやかき氷は勿論、SNS映えを狙ったハットグや奇抜な色のソフトクリームなども並んでいる。
「あ……」
 ふと、綿あめの屋台を見つけて、美希は無意識に声を出した。実際に気になったのは綿あめその物ではなく、袋にプリントされた猫のイラストだった。
 昨日の朝の記憶が、じんわりと蘇ってくる。
(そう言えば、通勤途中に捨てられていた仔猫……ちゃんと良い人に拾われていったかな)
 出社時間があるからと、しっかりとダンボールの中を確認したわけではないが、猫の首には大きめの鈴が下げられており、音で誰かに気づいてもらえるように工夫がされていた。
 捨てる側の人間をフォローするつもりはないが、きっと、たくさん悩んで決断したんだろう。
(帰り道は疲れちゃって、ダンボールを確認するの忘れちゃったけど、思い出したら色々気になってきちゃったな……餓死とか、鳥につつかれて死んじゃっていたらどうしよう。うーん……それはそれで、確認するの嫌だな……でも、まだ生きているなら、今日の帰りに確認してみる?)
 美希が無意識に思考を巡らせていると、ダンボールを引っ掻く爪の音が聞こえてきそうで、慌てて首を振った。
(いやいや、止めよう。拾うって決めた訳じゃないし、今の仕事環境じゃ、ちゃんと面倒見切れる自信もないし)
「それより、お酒よ、お酒。ついでに唐揚げも買ってー……」
 三軒向こうの飲み物屋台まで大股で歩こうとした、その時だった。

――ちりん。


「……え!?」
 捨て猫の鈴の音が聞こえた気がして、反射的に振り返る。音のした方へ視線を動かすと、数ある出店に挟まれて小さな夜店があることに気づいた。
「ぽつん」という音がしっくりくるその簡素な佇まいでは、賑やかな人々の目に触れることは少ないのだろう。現に美希も、
(あれ? 通りの屋台は全部見たはずだけど、こんなお店あったかな?)
 と、首をかしげる程だった。
 ふわふわした脳で、特に理由も見つけられずに夜店の前に足を向けると、その夜店は小さい机に真っ赤な布が敷かれており、丁寧に並べられた櫛が置いてあった。
(櫛屋さん? 雑貨屋は他にもあったけど、櫛専門の出店を見るのは初めてかも)
 櫛には趣のある絵が焼印されていて、しかも、同じ絵柄が一つもないことに驚く。
「わあ、どの櫛もお洒落で可愛いです……ね……っ!?」
 美希が顔を上げると、目を見張るような美しい人がそこにいた。
 出店の明かりを上品に反射する黒髪が、首元で緩く結わえられ、恐らく腰のあたりまで流れている。浮世離れした服と丸眼鏡の奥には、猫の様なつり目が微笑んでいた。
「あっ、えっと……」
「ふふ……やっと……私を見て、くれましたね」
 屋台に近づくまで、櫛しか見えていなかったことに気づき慌てる美希に対し、店主と思わしき麗人は特段気にしている様子はない。
「すみませ……私、櫛に夢中になってて」
「いえ……この店の主役は、櫛……なので」
「……っ!」
 少し低めの落ち着いた声が、店主の薄い唇から溢れた。芸能人かモデルだと言っても納得してしまう彼に言葉を失っていると、声は更に言葉を紡ぐ。
「お洒落で可愛い。ですか……可愛らしい貴方から、ご高評いただけて……櫛たちも、この祭りに出品した甲斐が……あります」
「ひゃ……は、いっ!?」
 店主の声に触れた耳が熱い。圧倒され逃げるように櫛に視線を戻すが、心臓はまだ早鐘を打っていた。
「わ、私は可愛いとかじゃないですよ。もう二十代も折り返しのおばさんですし、アパレルで働いている友人の方がよっぽど……」
「可憐さは……年齢や職業で決まるものでは、ありませんよ?」
「え、ええっと……その、ありがとうございます」
 美希は尻すぼみになる声で店主の言葉を受け取ると、熱い顔をこすって冷静になろうとした。話をそらそうと思考を巡らせて、ふと、彼の言葉に引っかかる。店主の言葉遣いは独特で、どこか、日本語を確かめるようにも感じられる。
(なんだろう……? 息継ぎの仕方が違うのかな? もしかしたら、日本人じゃないのかも?)
「あの……店長さんは、地元の方なんですか?」
「いえ。私は……しがない櫛屋の、そうですね……ここでは『泉』と、呼ばれています……」
「い、いずみさん、ですか」
「ええ……ひとまずは」
(そういうのが聞きたかった訳じゃなかったんだけど……まあいっか。泉って、苗字かな? 名前かな?)
 そんなことを考えながら櫛に目をやると、既視感のある猫の絵柄と目が合った。
「あ! この猫……」
 ずっと気になっている、あの捨て猫に似ていた。なぜこうも捨て猫を彷彿とするものに出会うのか不思議に思った美希は、櫛を指さして店主に聞いた。
「あの、触ってもいいですか?」
「ええ……どうぞ。好きなものを……お手に、取ってください」
 にこやかに笑う店主の表情に心拍数を上げながら、慌てて櫛を手に取って食い入るように眺める。
 不意に肩が重くなった気がして、空いた手で肩を揉む。そんな美希に気づいたのか、店主の囁く声が彼女の耳をくすぐった。
「おや……?良くないモノに、懐かれましたか……」
「え? なんて……ひゃぁ!!!!」
 言葉が聞き取れず、美希が声につられて見上げると、視界いっぱいに店主の顔が見える。
「これは……そう、ですね……肩が重くて、仕方ないでしょう」
「な、んでっ!?」
 なんで分かったのか問う前に、驚く程近い距離に美希が息を呑む。
 店主は微笑みを絶やさずに、ついと手を伸ばした。誰かに触れられることに慣れていない美希は、あまりにも突然な行動に固まってしまう。
(ひゃぁ~! 至近距離のイケメンって、それだけで緊張するんだ……じゃなくてっ!! 無理無理! 息が出来ないよっ!!)
 しかし、店主は直接肌には触れずに、美希の髪をひと束だけすくって、指で優しく撫でるだけだった。
「綺麗な髪……ですね」
「か、髪!?」
「良かったら……梳いてみては、いかがですか……?」
 店主はゆったりとした手つきで美希の手を取ると、そこに握られた櫛を見て微笑んだ。
「この子も……貴方の髪を梳きたがっている、ようですし……お試しに、いかがです?」
「な!! たたた試すくらいなら、これ買います! 私っ! 買わせてください!!」
 美希は慌てて机の上に置かれた値段を確認して、財布を取り出そうとカバンを開いた。
 軽くパニックになりながら財布を探すと、カバンの中でスマホのランプが点滅しているのが目に入った。
 着信相手の名前を確認し、友人を飲食スペースに置いて来てしまっていることを思い出す。
「あ!! 私、友人を待たせているんでした。すみません」
「おや……それは、引き止めてしまって……申し訳ありません」
 店主は少しだけ驚いた顔をすると、また直ぐにいつもの表情に戻って、美希からお金を受け取った。
「お買い上げ、ありがとうございます……また縁がありましたら、ご贔屓に……」
「こちらこそ! ちょっと、友人にも教えたいと思うので、また戻って来ますね!」
 お会計を済ませた美希は、財布と櫛を雑にカバンの中に入れて、代わりに点滅しているスマホを取り出す。
(す、すごい体験しちゃった……これは直ぐに伝えないと!!)
 足早に出店の通りを抜けて飲食スペースに行くと、心配そうな顔の友人が待っていた。
「美希遅い! どっかで飲み潰れて動けなくなってるんじゃないかと思った!」
「ごめん。気になるお店見つけちゃって、ちょっと買い物してた」
「もぉ~……」
 友人は既に新しいつまみを買って待ってくれていた。美希は次いで、缶酒を買い忘れたことを思い出し、重ねて何度も謝った。
「あっ!! ごめん。本当にごめん! お酒も買ってなかった……」
「嘘でしょ!? 酒好きが酒買い忘れるなんて、どんだけ凄い店だったの?」
「それがさ!」
 美希は櫛の出店と店主の美麗ぶりを伝えようと、興奮気味にカバンの中から櫛を取り出した。
「わ。なんか良さげな櫛じゃん」
「そーなの! しかもさ、店番してた人がめっちゃイケメンでね」
「イケメンに釣られたのか……」
「いや、イケメンっていうか……綺麗系? アジア系の顔立ちなんだけど、民族衣装っぽい服着てて、細い丸眼鏡してて……うーん、芸能人で言ったら誰似かなぁ……」
 説明しながら、写真を撮っておけば良かったと後悔する。友人は話半分で聞きながら、櫛の精巧な造りに感動していた。
「しっかし……これ結構ガチな櫛じゃない? ……伝統工芸的な?」
「そうなの? そこら辺は分かんないけど、出張屋台? みたいな感じだったから、櫛も見かけよりずっと安かったよ。ちょっと一緒に行かない?」
「ええ、私櫛は足りてるんだけど……」
「ちょっとだけ、せめて店長さんに会ってよ。ホントにビックリするほど綺麗だったんだから!」
 乗り切れない友人を半ば強引に引っ張り、二人は再び出店の通りを歩き出す。美希は三軒向こうに飲み物の屋台を見つけて、周辺の出店をぐるりと見渡した。
「確かこの辺で……あ、あれ?」
 場所を間違えたと思い、少し進みながら探すも、櫛の店はどこにもなかった。
「あれ? 確かにお店があったのに……?」
「う~ん、屋台を閉めるにはまだ早い時間帯だと思うけど」
「だよね? ちょっと、一回屋台の端まで行っていい?」
「しょうがないなあ。いいよ。付き合う」
 気の良い友人に感謝しつつ、二人で左右の出店を確認しながら歩き続ける。
 飲食スペースとは真反対の端まで歩ききった二人の顔は、道行く人々とは真逆の表情をしていた。
「み、美希……お店、無かったね」
「う、ん……」
「しかも、閉店したお店も、一軒も無かったよね」
「……うん」
 どんなに探しても、櫛の出店どころか『それ』があった痕跡すらどこにもなかったのだ。強ばった表情のまま、美希は呆然と握り締めていた櫛を見つめる。
「私……どこでこれを買ったの……?」
 鳥肌が全身に広がる。二人は『櫛屋さんは見つけそびれた』ということにして、足早に祭りを後にした。

――ちりん。

遠くの方で、鈴の音が鳴る。


 家に帰った美希は、シャワーを浴びて酔いを覚ますと、ドライヤーの音の中で思考を巡らせていた。
(私は確かに、あの店で櫛を買ったんだ。店長さん……そう! 『泉さん』のことも覚えてる)
 温風に弄ばれた髪が、乾くたびに癖になり、ゆるりと絡み合っていく。
(ん~~……。深酒していたとはいえ、あれだけしっかりと話して、歩いた距離も覚えていたのに、見つからないなんてことあるかな~?)
 安物のブラシで髪を梳かすと、案の定、毛玉が邪魔をして途中で止まる。つんっとした痛みで考えることを止めた美希は、カバンの中の櫛に再び目をやった。
「……櫛は、本物だもんね?」
 幻想や怪奇現象という言葉がちらつく頭に言い聞かせるように、わざと声に出して櫛を取る。
 恐る恐る髪を梳くと、プラスチックのブラシと違い、毛玉が驚く程綺麗に解けた。梳く度にスモーキーな香りが鼻をくすぐって、不思議と気持ちが安らぐのを感じる。
(燻してあるのかな? おばあちゃんの家で嗅いだことある匂いみたいで、私は落ち着くな)
 心なしか鏡越しの髪も艶やかに見えた気がして、普段よりしっかりと自分の髪を確かめる。
(これも櫛の効果? 髪もしっとりしてくる……なんだろう、椿油だっけ? それが使われているのかも)

 ひと房だけ摘んでみると、感触からふと店主の仕草と言葉が記憶をよぎった。
―綺麗な髪……ですね……―
(綺麗な髪。なんて、元彼にも言われたことなかったな……ちゃんと手入れすれば、もう少しハリツヤ出るかも?)
「……って! なに浮かれてるんだろ、私!!」
 お世辞かもしれない褒め言葉を素直に喜んでしまった恥ずかしさで、顔が熱くなっていくのが分かる。照れ隠しに鏡から視線を離して、握り締めた櫛の柄をもう一度確認した。
 櫛の中にいる猫は、無邪気に遊んでいるようにも、必死でこちらに近づこうとしているようにも見える。捨てられたあの仔猫は、今もダンボールを引っ掻いているのだろうか。
 絵柄を見るたびに思い出すくらいに仔猫の存在が大きくなっていることに気づいた美希は、もう一度櫛の香りを深く吸い込んで、決意したように鼻を鳴らした。
「うん……ウジウジ考えるだけじゃ、ダメだよね!」
(今から行ってみて、もしまだ誰にも拾われてなかったら、私が育てよう)
 美希は櫛を洗面所の引き出しに仕舞い、直ぐに仔猫を迎える準備を始める。
 洗面所から部屋に戻ってクローゼットを開けると、目に付いた大きめのバックを取り出し、他にも必要そうな物が無いか探る。
(タオルは何枚か持って行って……あ、後でこの時間帯でも開いている動物病院が無いか調べないと)
 クローゼットは開けたまま、片手でスマホの画面を滑らせて仔猫の保護の仕方を調べていると、何かが落ちる音が聞こえた。
「……?」
 振り返ると、音の原因は部屋になかった。洗面所の方へ向かうと、先ほど片付けたはずの櫛が床に落ちている。
「え? なんで……」
(もしかして、ポルターガイストってヤツ? やだやだ! 幽霊とか妖怪とか、そういうの苦手なのに!)
 嫌な想像に、重くなった肩に手を置く。今度は、先ほどまで美希しかいなかった部屋の方で重たい音がした。だんだんと恐怖を胸に宿しながら部屋を覗くと、開けっ放しだったクローゼットが、何故か閉まっていた。
「きゃっ!!」
 美希は遂に声を上げ、スマホを握り締めながら部屋をぐるりと見渡した。明白な怪奇現象を目の当たりにしたのは初めてで、しかし、それよりも恐ろしい想像が頭から離れない。
「だ、誰か、いるんですか……?」
 震える声で誰もいない空間に声をかける。しかし、美希の声には何も反応しなかった。
(どうしよう……クローゼットの中にまだ取り出したいのがあるんだけど……開けるのが怖い)
 怪奇現象にすっかり怖くなってしまった美希は、今日出かけるのを断念して、部屋の電気を全てつけたままにしてベッドに逃げた。
 緊張した指でどうにかスマホをタップして、友人の番号に電話をかける。電話越しの友人の声はいつも通りで、美希は落ち着くまで通話を続けていた。


 まどろみの中目を覚ました美希は、咄嗟にスマホの画面を確認した。
「嘘!! 私、うっかり寝ちゃった!?」
 時間は丑三つ時、かろうじて営業している動物病院へ向かうには、目測でギリギリ間に合うか分からない。
急いで大きめのカバンにタオルを詰めて、早速に捨て猫の元へ向かった。
しかし、どんなに走っても、道は果てしなく続き、なかなか仔猫のいる場所にはたどり着けない。
「どうして? ここを真っ直ぐ行けば着くはずなのに……」
 スマホの時間を確認しながら、焦る気持ちが足に伝わる。もつれそうになりながら必死で走っていると、ふと、どこかから声が聞こえた。
『……この道は、ダメ……』
「え?」
 聞き覚えのあるような、全く知らないような声。美希は立ち止まって辺りを見渡すが、声の主は見つからない。声は反響しているようで、四方八方から聞こえる。
『ダメ……この道は……来ないで……』
「だ、誰? 何がダメなの!?」
 美希はぐるぐるとせわしなく声のする方を探しながら、精一杯叫んだ。
「教えて! どうしてダメなの? あなたは誰?」
『……暗い……で待ってる……待ってるから』
「待って! どこで待ってるの? 行けばあなたに会えるの?」
 美希の質問も虚しく、声は徐々に遠くなっていく。それと同時に道さえも消えていき、あっという間に美希の視界は真っ白になった。
「何これ……どうなってるの!?」
 必死で目の前の『白』を振り払おうとする美希の前に、何故か家に置いてきたはずの櫛が現れる。
「櫛? なんでこんな所に?」
 櫛の中の猫がぬるりと飛び出して。真っ白な世界を悠々と歩き始める。美希は見失わないように目を凝らしながら、その猫の後を追いかけた。

――ちりん。

遠くなる意識の中で、また鈴の音が鳴る。


――翌朝。
 先ほどの体験が全て夢の中だと気づくまでに時間がかかった。ベッドの中で目が覚めた美希は、スマホの通話画面がいつの間にか切れていたことを確認し、飛び跳ねるように起き上がった。
「わっ!? かっる!!」
 予想以上に軽やかに起きられたことに、うっかり声が溢れてしまった。咄嗟に手で肩を抑えると、目が覚める程軽くなっていることに驚いた。
 部屋を見渡すと、昨日準備しかけていたバッグと開きっぱなしのクローゼット。顔を洗うために洗面所に行くと、引き出しにはあの櫛が丁寧に仕舞われていた。
(あれ? もしかして、櫛で梳かした後、直ぐに寝落ちしちゃったのかな? どこからが夢だったんだろう……?)
 首をかしげてぐるりと部屋全体を見渡すが、あの不快な視線も、ポルターガイストが起こるような気配も感じない。
 テレビを付けると、朝の番組が普段より物々しい雰囲気で流れていた。どうやら昨晩、美希が向かおうとしていた時間帯に大規模な交通事故が起きていたらしい。凄惨な現場が映像として流れていたが、テロップには幸いにも軽傷者だけで済んだことが報じられている。
(良かった……昨日の夜、あのまま家を飛び出していたら、私も巻き込まれていたかもしれない)
 運の良さにホッとしつつも、映像の端でグシャグシャに潰れたダンボールを見つけ、再び不安が胸に広がる。
(嘘!? もしかして、あの子は巻き込まれちゃったの?)
 美希は慌ててテレビを消すと、カバンを抱えて玄関を飛び出した。
 普段は十分程かかる道のりを、息を切らしながら駆け抜ける。
 昨日夢で見た道。現実の事故現場には、既にブルーシートで具体的な被害が見られないように隠されていた。
(本当に、運が良かっただけなのかな? あの夢は予知夢みたいなものだったのかも? ……ううん。それよりも、今は猫だ!)
 美希はどこか予言めいた『何か』を感じずにはいられないまま、頭を振って気持ちを切り替えた。あの鈴の音がしないか耳を澄ませながら、なるべく低い目線で仔猫を探す。
「猫ちゃーん? 猫ちゃんやーい」
(ううう……どうか、まだ生きていますように……事故に巻き込まれたり、餓死しちゃったりしていませんように……!)
 死体を見つける可能性に押しつぶされそうになりながら、ダンボールのあった近くをくまなく探索する。すると、道路の脇に壊れた鈴が落ちていた。
「……っ!!」
 最悪の予想が、一瞬だけ頭を過る。
(そうだ、さっきの事故現場! まだ作業員さんがいるはずだから、仔猫のことを聞いてみよう……もし……もし死んじゃっていたとしても、ちゃんと受け入れなきゃ!)
 美希は意を決して立ち上がると、事故現場の方に踵を返そうとした。その時だった。

――ちりん。

「えっ!?」
 鳴るはずのない鈴の音が聞こえた気がして、反射的に美希の動きが止まった。視線だけで壊れた鈴をもう一度見て、続いて少しだけ穴の空いた側溝が目に留まる。
『……暗い……で待ってる……待ってるから』
「暗い……暗い場所! 溝の中!!」
 夢の中の声に導かれるように推理した美希は、事故現場に行こうとしていた体を無理やり戻して側溝の穴を覗き込んだ。
「猫ちゃん? そこにいるの?」
「……みゃーん」
 声がした。確かに生きている猫の声だ。
 美希は長く深い息をつくと、嬉しさで震える手を、そっと穴に差し込んだ。
「怖くないよ。あなたをお迎えに来たの。一緒に帰ろう?」
「みぅ。みゅーん」
 仔猫は確かめるように美希の指先に鼻を付けると、直ぐに手の平に頭を擦りつけてきた。美希は慎重に仔猫を掬い上げて、側溝から優しく取り出す。
 やっと見ることができた仔猫の顔は、櫛の絵柄の猫とは似ても似つかぬほど汚く、顔もドロドロで目と鼻が判別できなかった。
「もう大丈夫。私が、新しい家族になってあげるから!」
 美希が指で顔を拭っても、仔猫は嫌がらなかった。人懐っこいのか、タオルで拭いてあげると直ぐに喉をゴロゴロ鳴らし、気持ちよさそうにしている。
「……もしかして、キミが昨日の夜、私を止めてくれたのかな? ……なんてね」
 スマホの時刻は、既に全ての動物病院が営業する時間を指していた。
 病院に連れて行き、ついでに仔猫のための首輪を買いに行く。
「思い切って、次の週末まで有給取っちゃお!」
「みゃう?」
「それに、あなたの名前も決めなきゃねー。今は名札の代わりにコレ、着けててね」
 美希は選んだ首輪を早速仔猫の細い首にあてがう。その首輪には、新しい鈴がきらりと太陽を反射していた。

――ちりん。

 軽やかな鈴の音は、確かに仔猫の首から聞こえる。美希は満足そうに笑うと、軽くなった肩をぐるぐる回しながら、楽しそうに帰路に着くのだった――


 古びた店内には、丁寧に磨かれ、飾られた櫛が並んでいる。芳香剤の香りに混ざって、少しツンとした香りが鼻を突く。何とも形容しがたい刺激に、目を瞬かせる者もいるかもしれない。
 店の常連は気まぐれな野良猫。帳場にいるのは、目を見張るような美しい男性。彼が纏う浮世離れした服装は、この店を一層風変わりな印象へ誘ってゆく。
「その後……彼女の人生が好転していったのは、偶然なのか……何かの縁、なのか……ですか?」
 櫛屋ののれんを立てかけているのは、硬派な顔立ちの寡黙な男。こちらと目を合わせても、軽い会釈をするだけで、黙々と店の作業をする。そんな男を、まるで居ない存在か、または身内のように当たり前な存在のように横目で流して、店主は意味深に微笑んだ。
「ふふ……さあ? 私は……ただのしがない、櫛屋なので……。ですが……ですが、もし、これを何かの『縁』と取るのなら」
 店主の眼鏡越しの視線は、真っ直ぐこちらを見ている。
「【貴方】も……いかがです? この櫛をひとつ、手に取ってみては……」

【完】


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