泉御櫛怪奇譚 第十二話
第十二話『紫陽花櫛 継がれる想い』
原案:解通易堂
著:紫煙
言語監修:柚子餅様/柚子餅お母様
――貴方は、美術館や博物館で『今は無き技術や芸術』を観たことがありますか?
いかなる作品や物語であれど、それを覚え、伝え続ける後継者が居なければ、歴史の渦に飲まれて沈んでしまいます。
では、その後継者は誰がどの様にして担うのでしょうか……?
今回は、そんな未来へ残す担い手としての選択を迫られた、一人の少女の物語――
◆
曇天の下を、白粉を塗った華やかな舞妓達が歩いて行く。観光客用タクシーの運転手が言うには、お化粧をしていない女性の中にも舞妓が紛れているらしい。
『芸妓』と呼ばれる彼女等が行き交う花街のとある置屋で、一香は仏頂面で踊りの稽古をしていた。まだ幼い面立ちの彼女だが、一度も切ったことのない髪を割れしのぶに結んで、天とめだけでまとめてあるそのいで立ちは、舞妓そのものだ。
(……他のお稽古している姉さん方は、こんないちいち髪まとめたりしないじゃん。なんで私だけ?)
一香は眉間に皺を寄せながら、三味線を奏でるチセをちらりと見た。チセは『地方(じかた)』と呼ばれる芸妓で、花街の中では一番の古株だ。チセは一香の視線に気付くと、三味線の手を止めて少女を睨み返す。
「アンタ、能面付けて踊ってるんやあらしまへんなぁ? 愛想笑いだけでもしときよし」
「舞妓でもないのに、なんでこんな格好して練習しなきゃいけないの?」
「一香。いい加減京言葉を遣いなはれ!」
一香の祖母でもあるチセは『紫乃松』という芸名で、巷では楽器を使わせたら右に出る者は居ないと噂の、有名な芸妓だ。チセが直々に舞の稽古をつけるのは珍しく、別の部屋にいる芸妓や見習い達が代わるがわる障子の隙間から様子を見てくる。それが羨望だろうが嫉妬だろうが好奇心だろうが、一香はその視線が大嫌いだった。
「ほな、もう一回」
「……はい」
一香はその後も散々注意を受けながらなんとか稽古を終えると、勢い良く結っていた髪を解いた。天とめを畳に投げ捨てると、一緒に引きちぎられた髪も共にはらりと落ちる。
「一香! 髪は丁寧に扱いなはれ! アンタはいつも……っ!」
チセが長々と叱り続ける中、一香はその声を聞き流しながらホッと解放された様な表情になった。
(やっと『一香』に戻れた……本当は髪も切りたいんだけどな)
呆ける一香を見て重たい溜息を吐いたチセは、投げ捨てた天とめを拾い上げて最後にこう言い捨てた。
「……アンタは芸妓にならなあきまへん。アンタが決めたことなんどすから」
チセの口癖に、一香は唇を噛み締めて畳を睨みつける。しかし、真っ向から抗えないのには理由があった。
◆
三人兄弟の末っ子で産まれた一香は、御厨家で唯一の女の子だった。親戚の子ども達は皆男の子ばかりで、その中で5歳まで育った一香は、突然母親を亡くした。交通事故だった。
葬式会場がモノクロの世界に見えた一香は、父の松雄や兄達と悲しみに暮れる中、京都からやってきた祖母が父親に話したことを、今でもハッキリと覚えている。
泣きはらした顔で松雄を探していると、障子の向こうからボソボソと話し声が聞こえた。障子に近づくに連れてはっきりと松雄だと分かる声は、どろりと重たく暗い雰囲気を纏わせている。思わず障子を開ける手を止めた一香は、代わりに隙間から部屋の様子を覗き込んだ。中には松雄とチセが、今まで見たこともない怖い顔で向かい合っていた。
「松雄。うちの為に、お見合いしてくりゃーらへんか。京の舞妓ちゃんに良いお人がやはるんどす」
「な……!? それって、母さんの仕事の為に再婚しろ……ってことですか?」
一香は『お見合い』がなんの事だか分からなかったが、会話の中で『新しい母親を決める』という内容を認識した途端、反射的に体が動いた。
「イヤだ‼」
「一香!? どこから……というか、聞いていたのか‼」
驚く松雄に縋りつきながら、一香は泣きじゃくって言葉を繰り返す。
「イヤ‼ 新しいお母さんなんかイヤ‼ おとうさん‼ イヤ‼」
「一香……」
松雄も再婚は考えていなかった。幼少期から常に母親の言いなりになっていた彼は、初めてチセに頭を下げてお見合いの話を拒否した。
「母さん……許してください。そのお見合い、私には受けられません」
「松雄!? なんでやの……」
「一香だけじゃありません。私も、妻は彼女だけだと決めております。どうか、お見合いを取りやめてください」
一香を優しく抱きしめて、そのまま深く頭を下げる。チセは渋い顔をしたが、その後も松雄と会話を交わしてようやく承諾すると、キッと一香を睨みつけて言い放った。
「ええどす。その代わり、一香が年頃になったらうちの置屋に入れます。よろしおすなぁ?」
「……っ! 医者を目指せと将来の選択肢を閉ざされた私と、同じ運命を一香に背負わせる気ですか」
「へぇ? うちは松雄が将来、安定して暮らせる様に『母親として』育てただけどす。嫌なら拒めばよかったんどす。来週お顔合わせの場を設けますさかい、準備を……」
「……っ‼」
息をのむ松雄に、一香は咄嗟に父親から離れ、チセの元に駆け寄った。
「いいよ! おばあちゃんの所いく‼ だから、新しいお母さんは要らないぃ……」
大粒の涙を流して懇願する一香に、チセの口角がゆるりと上がった。
「そうかぁ、一香はばぁばと同じ道を歩んでくれはるのん?」
「うん。それで良いんでしょ? ねえ、おとうさ……」
「……っ!」
「え? おとうさん……?」
その時の絶望に満ちた父親の表情は、一香のトラウマとなった。
◆
あれから時は経ち。中学校を卒業した一香は、当時とは違う感情と葛藤していた。都心で『普通の女の子』として育ってしまった彼女には、松雄と違って無数の選択肢が未来にあることを知ってしまったのだ。
本当は次男の様に高校へ進学して、中学から続けていた部活も始めたい。長男の様に大学を目指して勉強もしたい。
しかし、松雄とチセとの約束を今更取りやめにすることなど、中学生上がりの一香には出来ない。勿論プライドの高い祖母が一香を手放すはずもなく、4月からチセが通う花街の置屋で仕込みを始めて今日に至るのだった。
(なんであの時、おばあちゃんと一緒の道へ進むって言っちゃったんだろう……)
二人の兄の影響で、テレビゲームやスポーツが好きだった一香は、まるで変ってしまった環境にストレスを感じながら、歯を食いしばって従う事しか出来なかった。
(あの時、父さんの再婚を拒否しなかったら、私も友達みたいに普通の女の子として試験勉強したり、高校に入学して、彼氏とか作ったり出来たのかな……でも、そうしたら代わりの……お母さんの違う、私の妹が同じ目にあっていたのかな?)
「……それも、嫌だな……」
一香の頭では結論を出すことが出来ないまま、翌日も舞と琴の稽古が始まる。
「一香。何度教えたら覚えるんどす? 同じ所もう一回やってみなはい」
「……2ヶ月経っても琴の一節も出来ないんじゃ、私に舞妓なんて無理どす」
弱音を吐く一香に向かって、チセは淡々と言い返す。
「一香。京言葉がなってしまへん。お琴の前に、もう一度言葉遣い教えなあきまへんか?」
「言葉だって……姉さんに何回教わっても覚えられへん……私に舞妓なんて無理や!」
琴爪を指から外して部屋を出ようとする一香に、チセは呪いの様な言葉を吐き捨てた。
「なりたくてもなれんもんはいくらでもある。でも芸妓は今から仕込まれたら絶対になれるさかい、なりなはい」
「……っ!」
幼少から会う度に言われ続けているこの言葉に、一香は今更言葉を返さずに睨みつけた。蜘蛛の子を散らすように気配が無くなった障子を乱暴に開けて、逃げるように稽古場から飛び出す。一香の心に寄り添ってくれる人は、ここの置屋には一人も居ない。女ばかりがいる置屋に戻ると、次は『姉さん』と呼ばれる先輩の手伝いが始まる。一香がお世話になっている置屋には見習いの子も少ない為、気持ちの切り替えも出来ないまま一日が終わっていく。
一向に慣れない京言葉や舞の稽古、なんでも出来るが趣味が合わない姉さんの手伝いで、一香の心は日を重ねる毎に擦り切れていった。
◆
雨が続くある日、ようやく覚えた舞を披露した一香に、チセは三味線を止めて冷たく言った。
「なんどすか、その千鳥足は? そんなん舞やあらしまへん」
「なっ……!? 姉さんからも教えてもろて、やっとここまで踊れるようになったのに‼」
「相変わらず、汚い京言葉どすなぁ……アンタがやっているのは、ただ振り通りに手足を動かしただけどす」
「……っ!? だったら、もう……」
扇を畳の上に叩きつけて、チセに結ってもらった割れしのぶを無理矢理解く。ブチブチと髪が抜ける音がして、足元にたくさんの髪の毛が落ちた。
「アンタ! 髪は丁寧に扱いなはれとあれ程っ……‼」
「うるさい‼ もう辞める。帰る‼」
天とめを足で蹴飛ばして、立ち塞ごうとしたチセを押し倒す。
「一香! 戻りなはい、一香‼」
「嫌だ! 家に帰るんだっ! お母さんがいたあの家にっ‼」
(もう嫌だ。花街なんて嫌いだ‼ やりたくない舞妓になるくらいなら、家に帰って、高校受験して、転校して……っ‼)
稽古場の外へ出た一香の顔に、大粒の雨が容赦なく叩きつけられる。水分を含んだ髪が顔や服に張り付いたが、そんなことなどどうでも良かった。
「一香ちゃん! 戻って来んさい」
「一香! どこ行くんや!?」
懸命に走るが、雨音に紛れて追いかけてくる大人たちの音が聞こえる。
(このままじゃ連れ戻される……どこかに隠れないと!)
雨に濡れながら視界の悪い景色を見渡す。雨と泥で汚れた街並みは、葬式の時に感じたモノクロの世界に少し似ていた。
「……っ!?」
悪寒が一香の全身を駆け巡る。一度思い込んでしまうと、モノクロの建物や空間が自分を拒絶している錯覚に陥り、彼女を追い詰めていく。
何回目かも分からない十字路を曲がった瞬間、視界の端に一か所だけ色鮮やかに見える場所を発見する。
(っ! あ、あそこに隠れよう‼)
深く考えている余裕は微塵もなかった。咄嗟に彩りの空間に飛び込んで身を隠すと、大人たちの声はやがて遠くに消え、雨音だけが一香の耳を刺激するだけになった。
冷えた体を擦りながらゆっくりと顔を上げると、可憐な花が大振りな花の様にまとまって色鮮やかに咲き誇っている光景が視界いっぱいに広がる。
「……わぁ……っ!」
彼女が隠れたのは、少し背の高い紫陽花畑だった。雨露が反射してキラキラと輝く花達を見て、一香の記憶が少しだけ蘇る。
(そう言えば……お母さんが生きていた頃は、家に紫陽花の花が飾ってあったんだっけ? お葬式の後に、私が「お母さんが居ないのにずっと居るみたいで嫌だ」って言って捨てちゃったのだけ覚えてた……お母さんが生きていた頃の記憶の方が朧げなの、嫌だな……)
一香の濡れた頬を、温かい涙が伝う。再び俯いて体を丸めると、絞り出すように声を溢した。
「……お母さん。私、もうこんな生活したくないよ……お母さんに会いたいよ……」
嗚咽と冷えで体が震える。涙だけが妙に温かくて、止めることが出来ない。
ふと、耳元で聞こえていた雨音が消えた。滴り落ちていた冷たい雨が突然止み、涙だけが顔を濡らす。
「おや……? これはまた、可愛らしい紫陽花ですね」
「!?」
びくりと肩を震わせて顔を上げると、真っ赤な番傘をさした妖艶な姿の人が立っていた。置屋や花街では見たことが無い人だ。眼鏡はかけておらず、柄襟に落ち着いた色の着物を纏っており、背中の半分くらいまで伸びた髪は緩くひとまとめに結わえてある。
「あっ……!?」
(え? 凄く綺麗な人……別の花街の芸妓さん? お化粧していないから地方の人かな?)
混乱する一香に向かってその人は微笑みを絶やさずにゆっくりと大きな体を屈めると、服が濡れる事も気にせずに番傘で彼女を包んだ。
「お使いの序に、寄ってみた紫陽花畑で……これ程可憐な花に、出会えたのは……幸運でした」
少女の想像とは真逆の、穏やかな低い声が言葉を紡ぐ。
「あっ! えっと……‼」
(お、男の人だったんだ……間違えちゃった)
恥ずかしくなって俯く一香に、男は番傘を少女に傾けてさらに表情を緩めた。毎日眉間に皺を寄せて怒るチセや、置屋でたまに見る無表情な大人たちとは全く違う雰囲気に、一香の体から力が抜ける。男はゆったりとした動きで考える素振りをすると、そっと一香に向かって手を伸ばした。
「……ですが、根が土から離れてしまっては……仲間の花と、共に寄り添うのも難しいでしょう……よろしければ、私がお世話になっている店で……しばし暖を、取りに来ませんか?」
「……お店?」
「ええ……ここから、そう遠くない……小物売りの店で、ございます」
「……だ、誰にも、見つからない……ですか……?」
震える声で一香が問いかけると、男は自分の羽織を脱いで彼女に被せる。
「紫陽花には、足がありませんよね? 私は手折れた紫陽花を、助けようとしているだけなので……私が店まで、お運びしましょう……」
「……っ」
再び差し出された手を恐る恐る取った一香は、根っこから引き抜かれるように紫陽花畑から飛び出した。男は一香に番傘を頼み、両手で優しく彼女を抱き上げて紫陽花畑を離れる。
被せられた羽織からは木とハッカの様な香りが広がっていて、不思議と一香の心が落ち着いていった。
一香が男と向かったのは、彼女が置屋に来てから何度も前を通ったことのある老舗の雑貨屋だった。中まで観たことが無かった少女は、物珍しそうに店内を見渡す。
(お店の中って、こんな風になっていたんだ。中学の友達と行った雑貨屋さんはもっと夢可愛い感じだったけど、こういうレトロなのも良いな……)
男は直ぐに少女にタオルと温かい飲み物を用意して、一香をカウンター前へ案内してきた。
「こちらを、どうぞ……先程は、貴方を紫陽花だと……比喩しましたが、流石に……そのままではお身体に、障りましょう」
「おおきに……」
(あったかい……タオルも、柔軟剤かな? いい匂いがする……この飲み物は、レモネード? 甘くてホッとする味)
一息ついた一香は、店の外を気にしながらも、初めて自分から男に話しかけた。
「あの、旦那さんは、このお店の人なんどすか?」
(あ、緊張して、つい京言葉が出ちゃった。嫌々覚えてたし、お姉さんやおばあちゃんに散々注意されてたから気付かなかったけど、結構体に染みついていたんだな)
自分の言葉に一香が一番驚いていると、男は自分の湯飲みからお茶を一口飲んで、快く質問に答える。
「いえ、私は別の店の者で……解通易堂の、泉と申します……本日は、こちらの店長の……代理でここに居る……者です」
「泉さん……私は一香です。じゃなくて! えっと……おばあちゃ……紫乃松の孫の、一香と申します」
まだ訛りが拙い一香に、泉は安心するように笑顔を向ける。
「ふふ……京言葉は、勉強中で……いらっしゃいますか? 当店には、若い舞妓さんや……立方さんが、良くいらっしゃるんですよ……一香様は、芸名で……ございますか?」
「いえ……一香は本名どす」
「それでは、まだ芸名を貰っていない……置屋の見習いさん、なのですね」
「……っ!」
一香の顔がサッと青ざめる。追いかけてきた足音が聞こえた気がして、振り返って店の外を確認するが、雨は容赦なく降り注ぎ、歩く者もいない。穏やかな店内の中で、彼女だけが殺伐とした空気を纏っている。誰の目から見ても、ただならない事情があると分かる程度だ。
一香は意図的に標準語を意識して息を吸うと、喉に引っかかる言葉を押し出すように話した。
「あの……実は、稽古場から逃げて来ちゃって……あの、あの……見つかったら絶対連れ戻される……のが、こわい……っ!」
渡されたタオルを固く握りしめて、寒くもないのに体が震えている。すると、泉はそっと店を出て【商い中】だった立札を【仕度中】にしてきた。
一香は泉の行動が理解出来ずに、涙目のまま不安気に顔を上げる。
「な、んで……お店閉めちゃったんですか?」
「……櫛は……」
「くし?」
泉から唐突に出てきた単語に、一香は一瞬だけ恐怖を忘れて首を傾げる。泉はカウンターの奥から違う羽織を取り出して、ふわりと肩に引っかけると、にこやかに言葉を紡いだ。
「櫛は、本来水や湿気に弱く……この季節になると、どうしても歯が……歪んで、しまったり……カビが生えて、しまったり……お客様にお披露目する前に、使えなくなってしまう……櫛が、ごく稀に……ございます」
「……くし、が、え?」
(この人の喋り方、なんか京言葉よりも独特の間があって、ちゃんと聞かないと何が言いたいのか聞き取れない)
涙が零れ落ちるよりも気になる事が出来てしまい、一香はすんと鼻をすすって聞くことに集中した。泉は彼女の感情の変化に気付いたのか、改めて簡潔に言葉をまとめた。
「私は、櫛達の確認をして参りますので……一香様はどうぞ、ごゆっくり……休まれてください」
「あ、はい……」
(話し方は変わらないけど、分かりやすいように言い直してくれた。優しい人なんだ)
関心する一香に、泉はあくまでもこちらの都合だと言い残して、ゆるりと櫛の商品棚へ移動していった。会話する相手が居なくなった一香は、改めて陳列されている商品を眺める。
古風だがどれも華やかで可憐な柄の雑貨は、まるでお屋敷や舞台で活躍する芸妓のようだった。惹かれるようにカウンターを離れて簪や髪飾り、活版印刷のレターセット等を順番に手に取っていく。
(……舞妓さんや芸妓さんが、ここに通う理由が分かる気がする。クレットとかプチプラショップみたいにキラキラしてるわけじゃないけど、一つ一つちょっとずつ違ってレトロ可愛い……)
そのまま泉の後を追う様に櫛の棚へ向かうと、今まで見てきた雑貨とは打って変わり、高級感溢れる景色が広がっていた。浮き彫りされた木櫛は一つ一つフィルムで梱包されており、泉が言っていた『湿気対策』なのか、レイアウトに紛れて乾燥剤の様な物も置かれてある。
(乾燥剤ってどこの櫛コーナーにも置いてあるのかな、それともこのお店だけかな? 別のお店で櫛コーナー見つけたら探してみよう……それにしても、本当に綺麗な櫛ばかりだ)
何気なく手近にあった櫛を一つ取って見る。片面だけに椿の様な大振りの花が大胆に彫られてあり、よく見ようと顔に近づけると仄かにくすんだ木の香りがした。
「わ……‼ ここの花びらが重なってる部分、どうやって彫ったの? これは……あ、彫り方がなんか違う?」
一香の表情がパッと明るくなり、次々とビニール越しに櫛を触っていく。指で擦って凹凸を確かめたり、同じ柄の櫛を並べて見比べたり、気が付けば隣に泉が居る事にも気づかずに櫛のコーナーに齧りついていた。
(凄い……ずっと見てられるなこれ。こっちの柄は柳、これは紫陽花……あ、花簪と一緒だ。季節毎の植物をモチーフにした簪を身に着けることで、邪気を払う……だっけ?)
ふと、櫛の柄から舞妓の姉さん達が絢爛豪華に花街を闊歩する様子をイメージした一香は、まだ湿った髪や服を身に着けた自分自身と比べて一層後ろめたくなった。
「ずぶ濡れの私じゃ、きっと歯も形もぐちゃぐちゃな櫛で、この棚には並べないね……そもそも私は、櫛が作れる木にすらなれない……か」
「……果たして、そうでしょうか?」
「ぅわあっ!? い、泉しゃん、いはったんどぅグッ……っ‼」
頭上からふわりと聞こえた泉の声に、一香はびくりとしゃがんで顔を上げた。余りにも驚いて舌を噛んだ彼女を面白そうに眺めながら、泉は口元を袖で隠して話を続ける。
「残念ながら、解通易堂では……受け付けては、おりませんが……曲がってしまったり、折れてしまったり……そういった、櫛でも……再び使えるように出来る、職人も……僅かですが、存在します」
「そっ……そうなんれすね」
「ええ……この彫櫛の柄も、技術を『継いだ者』がいたからこそ……こうして、店頭に並べる事が……出来るのです」
泉の視線が、ついと店の奥に向けられる。つられて一香も立ち上がり、泉の視線を追うと、一際厳重な箱に飾られた櫛が目に入った。
無意識に足が動く。レイアウトの一部として飾られてあるそれは、意外にも店頭に並べられた櫛の柄と大差は無い、ありきたりな紫陽花の彫櫛だった。
しかし、先程櫛を食い入るように観察した一香だからこそ、他の櫛とは一線を画す精密さに溜息が零れた。櫛の中心にどっしりと彫られたハイドランジア。左右対称に細かく彫られたガクアジサイ。名前は分からなくても、一目で花の種類が違うと分かる彫りの拘りは一朝一夕では身に付かない雰囲気を纏っている。
「わぁ……これ……!」
(なんて言ったら良いか分からないけど、なんか……職人さんが何度も何度も同じものを作ったからこそ出せる『質』みたいな? 厳しい練習を乗り越えた、舞妓の姉さん達を見ているみたい)
一香の目には、色の無い櫛の柄が、何故か彩り溢れる紫陽花畑の花と同じ様に色鮮やかに見えた。
「これ、なんで色が付いていないのに青や紫の花に見えるんですか? あ、こっちの角度から見たらピンクっぽくも見える! へぇ~……」
ケース越しである事をもどかしく感じているのか、思わず食い入るように色んな角度から櫛を眺めて見とれる一香に、泉は櫛の説明をつらつらと始める。
「この櫛は、とある彫師が……『まだ現役だった頃』に作った、紫陽花櫛です……今は、機械の技術が発達して……繊細な柄を量産することも出来ます、が……昔は彫師がその役を、担っておりました」
「彫師?」
「ええ……最高の一点物しか作らない画家や、芸術家が名を馳せる中……人々の生活の一部として、気軽に使える物をたくさん作り……人知れず世に、出し続ける……そんな職人が、存在していたのです。尊敬に、値しますね」
「職人……え、でも、していた……ってことは、これは売り物じゃないんですか?」
「はい。残念ながら、その彫師は引退してしまいました……」
泉は一香と共に飾られた彫櫛を見つめると、昔話を読み聞かせる様に話し始めた。
◆
少しだけ昔の話。今日の様に、解通易堂とは別の雑貨屋へ代行していた『泉』の、ここでは『青年』にしましょう。その青年の元に、小柄で可愛らしい婦人が、如何にも重たそうな大きい段ボールを持って訪れてきました。
「いらっしゃいませ……業者の方で、ございますか?」
「はぁい。あら? 店長さんは?」
青年が店長不在の理由を説明すると、婦人は快活とした表情で箱を置いて、彼を疑うこともせず、納品書を渡してきました。
「あらぁ、そうなの! まあ良いわ。これ、受領印とお代金、くださいな」
「はい。かしこまりました……おや、こちらは……?」
商品名の『彫櫛』に反応した青年は、ついと箱を開けて中身を確認しました。そこに並べられていたのは、微細な違いはあれども量産された同じ柄の彫櫛だったのです。
「これは……見事な技術、ですね……。とても華やかで、繊細な……!」
「そう? ウチの人、いつも同じ物ばっか作ってて、地味なおじさんなんだけど」
「……旦那様が、これをお作りに……?」
目を見張る彼に、婦人は手書きで領収書を作成しながら、まるで今日の天気について雑談するかの様に旦那様の紹介を始めてきました。
「ウチの人、とっても無口で不愛想で、しかもすぅ~~~っごく気まぐれな人なのよねぇ。出来る事と言えば、コピー機みたいに決まった柄を木製品に彫る事しかなくて……」
「それは、それは……とても素晴らしい技術では、ございませんか」
「とぉんでもない! 機嫌が良い時は仕事も順調なんだけどね、少しでもスランプになったり、御依頼主さんと喧嘩でもした日にゃあ、柄でウチの人の感情が分かっちゃうくらい彫りがブレブレになっちゃうんだから」
婦人はそう言うと、段ボールの中から櫛を2枚取り出して青年の前に差し出します。意図が分からずに見つめる彼に、婦人は背伸びを繰り返しながら説明してくれました。
「こっちが、依頼された次の日に作った櫛で、こっちが、途中で挫折して『オレはもうダメだぁ! オレの人生お終いだぁ!』って言いながら作った櫛。ね、全然違うでしょぉ?」
「ほう……ふふ、確かに……一つ一つだと、大差ない様に見えますが……奥様にご説明されてから、拝見しますと……全く別物に見えますね」
「でっしょぉ! だもんだから、どんどん取引先が減って行っちゃってね。快く受けてくれる所なんて、ここの店長さんくらいよ!」
彼女は最後にもう一度背伸びをしてカウンターの上に領収書を置くと、梅雨明けの晴れ間の様な笑顔で青年に手を振りました。
「じゃあ、ここの店長さんによろしくねぇ。えらい別嬪さんが彫櫛の事褒めてたよって、ウチの人にも伝えておくから」
「あ……あの、もし……」
咄嗟に婦人を止めた青年は、自分の店でも櫛を扱っている事を説明すると、彼女伝手に彫師との縁を結んだのでした。
◆
泉が話を終えると、一香はほうと溜息を吐いて紫陽花の櫛を見つめ直した。
「じゃあ、この紫陽花櫛も、彫師さんがいくつも作って、色んな人が買っていた……って、ことですか?」
「はい。ですから、もしかしたら……この花街で暮らしていたら、同じ櫛に出会えるかもしれません……」
「わぁ……‼」
実際に紫陽花櫛を使う自分を想像して、一香の表情が初めて緩んだ。胸を躍らせている少女に対して、泉は笑顔のまま表情を曇らせる。
「……ですが、奥様のおっしゃる通り……職人だった旦那様は櫛の柄の様に繊細な、御心を持った方だったので……直ぐに体を患ってしまい、はたりと連絡が付かなくなって……しまいました」
「え、でも、そう言う職人さんって、お弟子さんとか、継ぐ子みたいな人とかいなかったんですか?」
(おばあちゃんが、無理矢理私を舞妓にしようとしているみたいに……)
ようやく櫛から目を離して泉の方を振り返る一香に、泉は愁いを込めた微笑みを返した。
「残念ながら……彼は後を継ぐ者を作らずに、自らの代で……その技術を絶たせて、しまいました……奥様が言うには、弟子を立候補した者も……居たようなのですが……」
「え、立候補が居たのに、断っちゃったんですか⁉」
「ええ……詳しい事情は、私にも……分かりません」
「……」
一香はもう一度ケースの中の彫櫛と店頭に並べられた櫛を見比べる。
(もし、彫師さんの技術が残っていたら、この紫陽花櫛はあそこの店頭に並べられていたかもしれない。機会があれば、私も買えたのかもしれない……芸妓と同じだ。舞も、お琴も……誰かがその技術を継がないと、結局身近に残らなくなっちゃう)
――アンタ! 髪は丁寧に扱いなはれとあれ程っ……‼――
――うるさい‼ もう辞める。帰る‼――
――一香! 戻りなはい、一香‼――
(おばあちゃん……稽古には厳しい人だけど、辞めるって言った時、本気で悲しそうな顔していたな……おばあちゃんや他の芸妓さん達が、伝手やネットを駆使して舞妓さん見習いを募集しているのも、舞や楽器の文化を継がせようとしているから……?)
一香はもう一度自分の胸に手を当てて、ゆっくりと深呼吸した。
(もう一度、今の私がしたいこと、出来る事って、なんだろう……?)
置屋で修業をしている見習いが年々少なくなっているというチセの言葉や、実際、人手が足らなくて忙しい毎日を送っていることを振り返る。
(私は、お母さんが好きだった家の紫陽花を、自分勝手な理由で捨てちゃった。あの思い出はもう曖昧で、もしかしたら忘れちゃうかもしれない。また、自分勝手な理由で芸妓から逃げるのは……なんか……嫌だ)
不思議と、逃げる前の生活が我慢できるような気がして、一香は再び泉を見上げた。
「あの……今日は、ありがとうございました。タオルも、お茶も、お話も……お陰様で、少し落ち着きました」
一香は深く頭を下げて、彼に置屋へ帰る事を決める。
「おばあちゃ……祖母に怒られるのは、怖いし嫌だけど……この櫛を見たら、また頑張れるような気がします。また逃げ出したくなったら、ここで櫛を見に来ても良いですか?」
「ええ……私は店の代理ですが、いつでも……この櫛が、歓迎してくれますよ……」
「ありが……おおきに、泉さん」
一香はもう一度泉に一礼をして恥ずかしそうに笑うと、自分の足で店を出た。
「あ……」
いつの間にか雨はもう上がり、見上げた空は底抜けに青かった。まだ手足が少し震えている。一香は体に力を入れてなんとか震えを止めると、大股で帰路に着いた。途中で、身を隠していた紫陽花畑とすれ違う。寄せ合った花は雨露が乱反射して、一層宝石の様に煌めいていた。
(いっぱい怒られて、許してもらえたら……私の部屋にも紫陽花を飾ろう。それで、もし……もしまた泉さんに会えたら……その時の私は、どんな櫛が欲しいって言うんだろう?)
少しだけワクワクしている自分に気付いて、一香の足は徐々に早くなり、遂には駆け足になっていた。
◆
――あれから、時は10年程過ぎて――
今日も解通易堂の帳場では、眼鏡をかけた泉が、異国情緒あふれる装いで店内を見渡している。出入口の外は生憎の雨だが、人が入ると不思議と傘や靴が直ぐに乾くから、配達の仕事が非番で手伝いに来ている和寿は何とも奇妙な感覚で店内の雑務をこなしている。
「和寿、倉庫に……今並んでいる櫛の、在庫が無いか……確かめてきて、くださいますか?」
「……おう」
帳場の奥へ進んで、裏口扉の直ぐ横にある階段を上っていく。外観では一階建てに見える解通易堂だが、実は看板の裏空間が二階になっており、櫛の在庫や泉の衣装が乱雑に詰め込まれている。
稀に和寿がそこに埋もれて寝泊まりしている時もある様だが、それはまた別の話。
和寿が段ボールの中から在庫を取って店内に戻ると、一通りの客が買い物を終えた後の静けさが店内に広がっていた。
「ありがとう、ございます……丁度良いので、店内の掃除も、お願いしますね」
「チッ、俺使いが荒ぇヤツ」
和寿が品出しをして、出入り口の床を掃除しようと店の扉を開けたその時、雨の中で、赤い番傘がゆらりと近づいてきた。
「……っしゃーせ」
和寿が小声で挨拶をすると、番傘も控えめに会釈を返す。閉じた傘を外の傘立てに立て掛けて雨音と共に解通易堂へ入ってきたのは、華やかなで美しい紫陽花の着物と、摘まみ細工の花飾りを身に着けた女性だった。
「いらっしゃいませ、ようこそ……解通易堂の……」
「嗚呼……ようやっとお会い出来ました。泉はん」
女性は泉の方を見るや、嬉しそうに微笑んで近づく。リピーターが滅多に来ない解通易堂で、泉を目当てに辿り着いた客が現れたことに、和寿が珍しそうに外から覗き込んでいる。
女性は帳場に居た泉を穏やかに見つめて、ほうと微笑んだ。
「泉はんは、どっこも変わりないどすなぁ」
「もしかして……一香様でございますか? ご無沙汰しております。その言葉遣いは……成程」
「はい……うち、舞妓になって5年目を迎えましたんどす」
幼さが残っていたずぶ濡れの少女の面影はどこにも無く、貫禄すら感じる彼女の立ち姿に、泉は眼鏡を外して微笑んだ。
「その紫陽花の花飾りは、お着物に合わせて……いらっしゃるんですね。舞妓は、季節や月毎に……邪気払いや、季節の行事を祝う意味を込めて……自身を彩る文化がある、と……聞き及んで、おります」
「今は舞妓姿やあらしまへんけど、無意識に季節の花を選んでしまうんどす……ふふ……『一香』やったら、今のうちを信じられへん目で見はるんやろねえ」
「そうでした……もう貴女には、名前が……」
「へぇ、あれから精進しまして、祖母の……お母さんの後を継ぐ事になったんどす……今は『紫麻』と名をもろて、まだまだお稽古に励んどりますが……そうそう、あれから不思議なご縁があったんどす」
彼女は、和柄の鞄からひとつの櫛を取り出すと、帳場の上にそっと置いた。以前二人で見た、ケースの中に飾られた紫陽花の彫り櫛。舞妓としてデビューした年に、一香がチセから譲り受けたものだった。
「実は、お母さんとうちの母は、どちらも紫陽花が好きやったんどす。母に贈る筈どした櫛を、うちにくれはったんどすが……それがまぁ、あのお店で泉はんが教えてくれはった櫛とそっくりどしたん」
「それは、それは……とても素敵なめぐり逢い、でしたね」
「いつか、絶対に泉はんに見せたげなと思てまして、稽古の傍らで色んな雑貨屋や櫛屋を巡りましたんどすえ。あの時、まだ幼かったうちに、あない真剣に彫師はんの説明してくれはらへんかったら、うちは今、舞妓として暮らせておりませなんだ……」
帳場の奥の台所のような空間へ紫麻を案内する。彼女は今、舞と琴の他に三味線と笛を習っているという。
チセは紫麻が舞妓としてデビューした年に亡くなり、今は別の姉さんの下で仕事と稽古に励んでいるという。相変わらず姉さん達から厳しい言葉を言われ続けているが、この櫛を見ては気を取り直して稽古場へ向かうのが日課らしい。
「今日は、泉はんに櫛を一本見繕ってもらいたいんどすけど、うちの名に因んだ麻の葉柄の櫛はありますやろか?」
「ええ。ご用意いたしますので、少々……お待ちください」
泉が店内の方に顔を出すと、直ぐに和寿が姿を現した。のしのしと二階に上がって行ったかと思うと、彼の掌には小さすぎる程の櫛を大切そうにテーブルへ運んできた。片面彫りで幅が10センチ程の木櫛には、麻の葉模様と共に、鶯と梅が精巧に表現されている。
さっさと店内へ戻ってしまった和寿に代わり、泉が紫麻に説明を始めた。
「こちら……贈答用として、広く使われているデザインですが……在庫が少なくなって、まいりましたので……店頭には、並べておりませんでした……これも何かの縁だと、思いませんか?」
いつかの雨の日、店頭に並べられていない櫛を眺めて会話をした思い出に、紫麻の視界が涙で潤んだ。あの頃の様に泣くまいと目を閉じて堪えると、泉に向かって恥ずかしそうに笑った。
「あら。泉はん、うちがこの櫛を妹に贈ろうとしていた事、気付いてはりましたん?」
「いえ……ただ、様々な想いを『受け継いできた』紫麻様なら、きっとそうするのかと思いまして……」
「ふふふ……ほんまに、変わらへんお人どすなぁ……」
紫麻は、買った櫛と持ってきた彫櫛をケースに入れ、濡れないようにバッグに仕舞うと、再び店内を通って出口へと向かって行く。乾いた赤い番傘をさして店を出る直前で、紫麻は振り返って泉に晴れやかな笑顔を向けてきた。
「おおきに、泉はん」
「いえ、いえ……ご利用、誠にありがとう……ございました」
こうして雨の中へ姿を消すまでの一部始終を見ていた和寿が、紫麻が去った後を睨みつけながら泉に問う。睨みつけている。とは形容したが、本人にそのつもりは全くない。
「旦那ぁ、あの紫陽花の彫櫛、うちにも一本無かったか?」
「おや? 和寿に特定の櫛を見せた覚えは、無いと記憶しているのですが……」
「やぁ、旦那の部屋ぁ片付けている時に見た筈だ。確か……」
そう言って、台所の奥の襖を開けると、四畳半程の和室が姿を現した。今は綺麗に整頓されている部屋に大股で上がり込んだ和寿は、そこに置かれた大きい桐箪笥を引っ張り出す。
「確かここに……おら、あんじゃねえか」
彼が取り出した櫛は、紫麻が持っていた櫛、つまりは、あの雑貨屋に展示されている紫陽花櫛と全く同じものだった。
眼鏡をかけ直した泉が、感心した素振りで和寿を見つめる。
「ええ……それは確かに、同じ職人が彫った櫛です。ですが……彼は自身の体調が、彫りの出来栄えに……現れてしまう程、仕事と身体が……一体になっているような、お方だったんです」
「おん? おお、仕事人間ってことか」
「ええ……ですから、同じ模様の櫛でも……並べて見ると、明らかに『違う』出来栄えで……こちらは、体を患ってしまった……職人として、最後の年に作られた物で……彼が『彫師』として生きた証として、私が個人的に買いつけた櫛……なのですよ」
「ああ、だからここに仕舞ってあんのか……」
納得した和寿は、今度は丁寧に箪笥を元に戻して、再び地味な店内掃除に戻って行った。
泉も帳場へ戻ると、紫麻が見えなくなった店の外を嬉しそうに眺めた。雨はまだ降り続けているが、もう少ししたら晴れ間が見られるだろう。そうしたら、きっと店を出て行った彼女は空を見上げ、少女の様に目を輝かせて、煌めく紫陽花を探すに違いない。
――だって、彼女は今でも、紫陽花が大好きなのだから。――
【完】