泉御櫛怪奇譚 第十三話
『八重紅葉荘暗闇事件(後編)』
◆
――さて、前回の物語を振り返ってみましょう。
県境の山荘旅館『八重紅葉荘』交通の便が悪く、前日まで雨が続いていた為『逃げ口の無い一軒家』と言っても過言ではありません。この地で殺人未遂事件が起こりました。
〇被害者は『斎川 昇平(サイカワ・ショウヘイ)』様。28歳。結婚前祝いに友人と旅行にいらっしゃいました。温厚で聖人君主。友人の不祥事を自分の事の様に謝罪する程、情が深い男性です。とても誰かに恨まれるような性格ではございませんが、人柄故、本人の気付かない所で敵を作っている可能性がございます。
電気の点いていない部屋で何者かによって後頭部を殴打され、割れた窓ガラスの破片にまみれて倒れておられました。
〇目撃者の『高橋 大輝(タカハシ・ダイキ)』様。28歳。昇平様とは幼馴染で、心優しい完璧主義者。昇平様の為に此度の旅行を計画したのも彼です。視野が広く、状況判断が素早いお方で、被害者の怪我を大事にせずに済みました。余りにも華麗な対応に、些か出来過ぎた雰囲気がございます。また、昇平様のご婚約者と何か関係がおありの様子ですが、本人はその件について、あまり喋りたくはないようです。
〇目撃者のもう一人『轟 玄(トドロキ・ゲン)』様。29歳。他のお二人よりも年上ですが、大学を留年したため、彼らと同じ年に大学を卒業されました。軟派で自由奔放。ですが、誰よりもフレンドリーで細やかな気配りが出来る性格です。昇平様が被害にあわれた際、真っ先に警察と救急車を呼び、付近を探索しましたが、足跡や凶器が『本当に外にあった物か』は定かではありません。
〇そして、要の第一発見者『宮内 真帆絽(ミヤウチ・マホロ)』様と『マリ』様。真帆絽様は24歳。マリ様は5歳程でしょうか。マリ様はお言葉を喋る事が出来ません。真帆絽様は暗闇で犯人の『顔』は見ていませんが、荒い布地の様な、ゴワゴワした片手によって顔を掴まれております。真帆絽様は「腕はニンゲンっぽかったが、手は獣か妖怪の様に大きかった」と供述しております。
大輝様と玄様は『部外者の犯行』を前提に、この事件を捜査しているようですが、ただ一人、真帆絽様だけは違う考えをお持ちのようです。
――ところで、貴方には真犯人が誰か分かりましたか?――
◆
この事件が起こっている『現在』から約20年前。マホロにまだ物心がついていない頃。
家が隣同士だった少年たちは、真反対の家庭環境で育っていた。
「あーそーぼー‼」
まだインターホンが押せない程小さかった少年は、毎日隣の家の玄関前で叫んでいた。その度に、隣の家の母親は少年が聞こえる音量で彼を叱っていた。大人の大声に慣れていない少年が肩をすくめて立ち去ろうかと躊躇していると、溌溂とした友人の声が響いてきたのだ。
「イヤだ! おれはしんゆーだから、ぜったいにあそぶ!」
言葉と共に玄関から飛び出してきた友人は、目を丸くして立ち呆けている少年を見つけると、その手を掴んで一目散に走った。
「ねぇ……おかーさん、いいの?」
「良いんだ! おれはあそびたいからあそぶ! だってしんゆーだから!」
早生まれでまだ友人より発育が遅い少年には、彼の背中は大きくて、頼もしい。
「しんゆーは、うらぎらないの?」
「うん! しんゆーは、ぜったいにうらぎらないんだ」
「じゃあ、ぼくもぜったい、うらぎらない!」
少年が初めて『親友』の言葉の意味を知るのは、もう少し成長してからの事である。
◆
時は現代に戻り、時間は20時10分。
「それに、マホロ様には……唯一信頼できる方が、いらっしゃいます……犯行当時、気を失われていた……ショウヘイ様です。これを持って、彼の元へ……戻ってください」
そう言ってイズミが手渡したのは、手の平サイズの櫛だった。
「……櫛?」
(燻した木の香りの正体は、櫛だったんだ……この香り、イズミさん以外の人からも感じた気がするんだけど……)
スマホの時計アプリで確認したマホロは、意を決してマリと共に立ち上がる。
「私……行きます。怖いけど……マリと歩くのは、まだ、楽しいって思えるから……」
マホロはマリを立たせると、彼女の足が歩行に支障が無いか念入りに確かめる。マリが「また歩く?」と言わんばかりに足踏みをしているのを確認して、安心して自分も立ち上がった。
「では、後程……」
(のち、ほど?)
108号室の扉を開け、マホロとマリが真っ直ぐ進もうとした瞬間。目の前に『あの気配』が広がった。獣のような、化け物のような。人じゃない『憎悪の気配』
「……っ‼」
マホロが咄嗟にマリを庇おうと体を屈めた刹那、聞き覚えのある重低音が聞こえた。
「おおっと、やっぱ自分の部屋にいたのか。マホロちゃん。ダイキに戻れって言われて来てみたら、118号室にはマホロちゃん達が居ないし、ちょっと焦ったよ」
彼女達の前に立っていたのは、彼女の身長より高い位置から声を発するゲンだった。途端に凍り付くような気配が消えて、マホロはホッと息を吐く。
(さっきの嫌な予感は何だったんだろう? でも、ゲンさんとダイキさんが居るならもう大丈夫)
「マホロちゃん、どうしてこっちに居たの? 外危なくなかった?」
「廊下は、大丈夫でした。向かいの部屋ですし、直ぐだったので……マリのご飯とお着換えをしなきゃと思って、一時的に戻りました。黙って移動してすみません」
「いやいや、謝らなくて良いよ。マリちゃんのご飯大事だもんね」
ゲンが後ろに控えたマリを見ようと視線を部屋の奥に移動させると、見知った顔を見つけてヒラヒラと手を振る。
「あれ? イズミさんも居る!」
「ええ、この度は……どうも」
部屋の中のイズミもゲンと顔見知りのようで、特に驚く様子も無くふわりと微笑んで会釈した。
「あの、お二人はお知合いなんですか⁉」
驚くマホロに、ゲンは少し気まずそうに「あー……」と何を言うか考えると、わざわざマホロの視線迄屈んで声を顰めて耳打ちしてきた。
「いや……これ他の二人には内緒なんだけどさ。実は訳あってイズミさんから櫛を買ったんだ……ホントに訳あって」
「そ、そうなんですね……?」
上手く察することが出来ないマホロを、ゲンが「まあまあ」と曖昧にして無理矢理118号室にマホロとマリを引っ張っていく。
(あれ? 向かいの部屋って、こんなに遠かったっけ……何かから避けてくれてるのかな?)
疑問を残しながら118号室に戻ったマホロは、マリと部屋の端に座らせてもらいながらゲンと部屋の状況を確認した。
「ショウヘイ……は、まだ意識が戻ってないな……マジでなんも無いと良いけど」
「そうですね……あの、そう言えば……」
マホロはマリの怪我した足を優しく撫でながら、ゲンに問いかけた。
「ゲンさん、あの……イズミさんと、えっと……お知り合ったのは何時頃でしたか?」
「んー……夜の19時過ぎ……だったと思う。ダイキ達が泊まる 隣の部屋にイズミさんが居て、そこでちょろっと話して……」
「私がフロントでチェックインしていた時間帯ですね」
時系列順に、誰が何処に居たかを整理していく。今、マホロ達に出来る事と言ったら、それぐらいだった。
「その時、ショウヘイさんとダイキさんは何処に行っていたんですか?」
「確か、ダイキが風呂に入りたがっていたから、大浴場に言ってたんだよな? だから、隣から物音が聞こえた時は結構ビビった『なんで誰も居ない筈なのに音がするんだ!?』って」
「えっ? イズミさんの部屋って120号室でしたよね。隣だと、スタッフルームと119号室じゃないんですか?」
「ああ、マホロちゃんは教えて貰ったことない? 4と9は縁起が悪いから、この旅館は徹底して4号室と9号室が無いんだよ。最近のホテルとかだとそう言うのも無くなったけどね」
「き、気付かなかったです……結構頻繁に旅行で着ているのに……」
(でも、じゃあ……私があの大きな手に掴まれてる時、ゲンさんは隣の部屋でイズミさんと一緒に居たんだ。やっぱり、外部の犯行……? 盗もうとした犯人と、偶然鉢合わせしたショウヘイさんが殴られて、私が入って、捕まって、犯人が窓から逃げたからダイキさんとゲンさんが……あれ?)
マホロの胸がぞわりと震える。
「あの……なんでショウヘイさんはお部屋に居たんでしょうか?」
「そう言えば、そうだな……?」
ゲンも違和感に気付いたのか、マホロの気付かない所で不思議そうに部屋を見渡している。マホロは考え込むように下を向いて指を顎に当てる。
(今、私……怖い事考えようとしてる。もし、犯人がショウヘイさんの知り合いだったら、呼び出して、殴って、大切な物を盗んじゃうような人が居たとしたら……もしそれが、その人が『まだこの部屋に居たとしたら』!?)
「うっく……!」
「わ、大丈夫?」
ふらつくマホロを、ゲンとマリが慌てて支える。壁にもたれかかるように姿勢を直してもらい、過呼吸気味にならない様に自分で喉を抑える。
「ありがとうございます。ゲンさん……マリも、私は大丈夫」
(ダメだ。私が倒れちゃったらマリが……それに、どうあれショウヘイさんが目覚めない内は、ゲンさんにもダイキさんにも言わないようにしよう)
確信が持てないたらればを生唾と一緒に飲み込んで、マホロは冷静になろうと深呼吸した。その時、
「く……っ!」
吐息の様な声が、部屋の片隅で聞こえた。マホロとゲンが同時に反応し声のする方を向くと、今まで意識を失っていたショウヘイの体が僅かに動いている。
マホロのスマホが20時20分を伝えてきた。
◆
イズミはマホロたちを見送った後、彼はどこか楽しそうな笑みを浮かべて廊下を歩いていた。20時以降は娯楽施設が一切ないこの旅館を闊歩するものは少ない。しかも、事前に野獣が出没したと注意があれば、命知らずか命に興味が無い者しか先ず外に出ないだろう。
「ふふ、それか……この一夜を、牛耳っている『主催者』か……」
イズミは廊下に零れ落ちているガラスを、器用に爪だけで救い上げて広げたハンカチに集めている。
マリが途中で立ち止まってしまったのは、この廊下のガラスが原因とみられる。イズミがガラスを追って受付の方まで移動すると、突然、後ろから誰かが イズミに声をかけてきた。
「あの、何しているんですか?」
イズミは振り返ることなく足元のガラスを拾い上げ、なんでもないと言わんばかりに微笑んだ。
「いえ、私の『知り合い』 が……このガラスで、怪我をして……しまったので、見える物だけでも……拾おうと……」
「ダメですよ。館内放送聞きましたか? 猛獣が外に居るかもしれないので、部屋にいてくださいと」
「ええ、お聞きしました……『本日は、災難でしたね』」
先程拾ったガラスをちらりと声の主に見せると、ヒュッと息をのむ音が聞こえる。
「ガラスには、一定の方向から衝撃が与えられた刹那……元に戻ろうと、僅かな破片が戻って来る……反動作用が、あるそうです……恐らく、何かを窓ガラスに投げつけた際……反動で迫ってきたガラスが、衣服に付着していたんでしょう……」
「な、なにが言いたい!?」
ようやく振り返ったイズミの微笑みが不気味に見えたのか、対面する人が一歩後ろへ下がる。咄嗟に片方の腕を隠したのは、何か意味があるのだろうか。
「私は、櫛の店『解通易堂』で働く者です……本日は、とある依頼人のお願いで……この旅館まで出張に、参りました」
「な、なんですか、突然……」
「いえ……私は『警察』でも『探偵』でもない……ただの『部外者』です、と……自己紹介した、までです」
イズミの目にも明らかな動揺が伺える。イズミは自分の足元にあったガラスの欠片を拾い上げると、ひらりと服をたなびかせて踵を返した。
「廊下から続いていたガラスはこれで全部のようです。では、私はこれで……『お外に気を付けてください』」
「……っ!」
焦った男はイズミの背を確認すると、慌てて靴を取り出して、夜闇に消えていった。
◆
マホロのスマホが20時20分を伝えた丁度その時、ショウヘイが意識を取り戻した。
「ショウヘイ! おい、気付いたのか!? オレが分かるか?」
真っ先に飛び出したゲンが、ショウヘイの傍に寄る。マホロはぐっと身体に力を入れると、マリと一緒に、ガラスに注意しながら近づいた。
「んん……だ、ダイ……ちゃん?」
「違う、オレだ! ゲンだよ」
「げん……?」
ショウヘイはまだ思考が朧気で、ゲンの声に上手く反応出来ていない。マホロはマリと一緒にゆっくりとゲンの隣に座ると、ショウヘイの手を掴んで声をかけてみた。
「ショウヘイさん? あの、大丈夫ですか?」
「キミ……は……っ!? キミは、昼間の‼」
ボーッとしていたショウヘイが、マホロを思い出そうとしてようやく意識をハッキリと取り戻す。途端に上体を起こしたショウヘイは、マホロとゲンの手を振りほどいて声を荒げた。
「っ! ダイちゃん、ダイちゃんは!?」
「落ち着け。頭殴られてんだぞお前」
取り乱したショウヘイをゲンが抑える。ショウヘイは振り上げた手を元に戻すと、そこにあったマホロの手を反射的に握り返した。ショウヘイの手が震えているのを感じて、マホロも精一杯握り返す。
「大丈夫です、ショウヘイさん。ダイキさんはゲンさんと一緒に……」
そこまで言って、ふとダイキが居ないことに気付く。
(あれ? そう言えば、さっきからダイキさんの声がしない!?)
「あの、ゲンさん、さっき『ダイキさんに戻る様に言われたから来た』って言いましたよね?」
「ん? ああ、そうだよ。スマホで呼ばれたから……そういや、ダイキは何処だ?」
「分からないです……てっきり、ゲンさんが知っていると勘違いしてて……」
ダイキが部屋に居ない事態に一番愕然としているのはショウヘイだ。震えが声にまで伝染し、か細い悲鳴が聞こえる。
「あぁ……ダメだ、ダイちゃん……探さないと……」
「ダイキさんがどうしたんですか? もしかして、犯人に狙われているんですか⁉」
前のめりに問いかけるマホロに、ショウヘイは一瞬躊躇った。しかし、マリが怪我をしているのを見て決心がついたのか、重たい口がゆっくりと開いた。
「実は……僕を殴ってきたのは、ダイちゃんなんだ……なんで殴られたのかまでは、分からないんだけど……部屋に入った途端、ダイちゃんの顔と僕に向かってくる片手が見えて、それで……」
ショウヘイの内容を聞きながら、ゲンとマホロの表情が徐々に暗くなっていく。
「そんな……アイツが……ダイキがショウヘイを殴ったのか!?」
「でも、どうしてですか? 犯人は外部犯の可能性が高いって、実際、ゲンさんが証拠を見つけて……あっ!」
(そもそも、私みたいな素人でさえ分かる証拠を、本気で盗もうとしている犯人が残すの? やっぱり、ショウヘイさんが言ったのが真実だとしたら……)
マホロは分かってしまった。口では否定したかったが、言葉を選べば選ぶ程、真犯人がダイキであることを認めてしまうことに。
「はんに……ダイキさんは、本当は、外へ逃げるはずだったんです……でも、逃げられなかった……『私とマリが居たから』灰皿を投げて逃げるふりをした」
「うん……だから、ダイちゃんは本物の証拠をまだ持ってる……アレを捨てられたらダメだ。取り返しがつかなくなるから、助けてあげなきゃ」
「たす……え?」
ダイキを心配するショウヘイの意図が掴めないゲンは、力づくでショウヘイの肩を掴んで床に押し戻すと、声を荒げて反論した。
「お前まだ正気じゃねえのか!? 自分の口でダイキが犯人なんだって宣言したんだぞ‼ 今直ぐとっ捕まえて、明日の朝警察に突き出せばいいだろ? お前はそれだけの事をされたんだぞ!?」
「そうだけど、でもっ……ダイちゃんは親友だからっ」
「でもじゃねえよ‼ 親友は普通人の頭殴ったりしねえんだよ」
「そうかも知れないけど、僕にはダイちゃんが罪人には見えない。何か訳があるのかも」
「訳が無きゃ人殴ったり物盗んだりしねえよ‼ お前、もちっと寝て頭冷やせ!」
言い争いを始めてしまった二人を止める術を持たないマホロは、あわあわと手を彷徨わせながら言葉を探す。
「あの、あのあのっ……私もゲンさんの意見に賛成なのですが、えっと……」
(でも、なんでショウヘイさんはこんなにもダイキさんを庇おうとしているの?)
三竦みの間に入ったのはマリだった。マホロの左側からぬっと体を前に出して、ショウヘイを掴むゲンの腕をぐりぐりと頭で押し退けようとする。
マリに免じて仕方なくゲンが離れると、ショウヘイはゆっくりと上体を起こして「ありがとう」とマリを撫でると、真っ直ぐゲンを見上げて説得し直した。
「ダイちゃんが本当に傷付けるつもりで僕を殴ったのなら、然るべき所で罪を償ってほしい……でも、本心じゃないのなら、僕が許してあげたいんだ」
「つったってよぉ……お前、結婚指輪盗られてるんだぞ? 値段も気持ちの価値もバカ高いヤツ奪われて、頭まで殴られて、そもそもその行動にムカつかねえのかよ」
「うん……同じことを、ダイちゃんがゲンにやってたら、僕も同じくらい怒ってたかも……でも、殴られる直前のダイちゃんの顔が、忘れられなくて……」
「顔……?」
(ショウヘイさんが記憶に残って、しかも自分が被害にあっているのに許したくなるって、一体どんな顔をしていたんだろう)
マホロは昼の喫茶店で声をかけてきたダイキを思い出す。実際に危害を加えたのは本人では無いのに、不注意だったと謝罪して汚れた足を優しく拭いてくれた彼の手と、顔を鷲掴みにしてきた猟奇的な手がマホロの中で噛み合わない。
それだけではない。事件直後直ぐに優しい声で駆けつけてくれたダイキが、本当に親友を裏切る様な犯罪を企んでいたのかとは到底思えない。
「確かに……もし、話し合える余地があるのなら、私もダイキさんの本心を知りたいです」
「マホロちゃんまで? 待って待って、今のダイキが正気だとは思えないよ。ショウヘイに絆されないで」
「いえ、今でもゲンさんの意見には賛成なんです。でも、例えばどうしても犯行に及ばざるを得なかった理由があって、ダイキさんが誰にも打ち明けられずに後悔していたとしたら……」
「ぐっ! うーん……分かんねえ……オレには分かんねえよ」
マホロの前で頭を抱えるゲンに、ショウヘイは優しく手を伸ばして肩を撫でる。
「ゲン……僕からも頼むよ……君は許さなくて良い。ここではゲンの意見が一番真っ当だからね……でも、だからこそ、ダイちゃんは僕が許してあげなきゃいけないんだ」
「こうして、被害者であるショウヘイさんが一番心配しているんです。警察が来るまでの間、一回だけ話を聞いてみるのはどうでしょうか? 話し合えないって判断したら、ゲンさんがダイキさんを拘束して、一晩見張れば良いんです」
二人から頼み込まれ、マリにじっと見つめられたゲンは、渋々折れて彼に肩を貸した。ショウヘイが「ありがとう」と声をかけると、ゲンは無言で彼を抱え上げる。
「分かったよ……んで、どこから探す? ショウヘイがこんなだから、そんなウロウロ出来ないよ?」
「そうですね。先ずは場所をある程度予測しないと……」
マホロもマリと一緒に立ち上がると、自分の持っている知識を空き集めて再び思考に没頭する。
(証拠を持ったダイキさんが向かうとしたらどこだろう……観光スポットから証拠を投げ捨てるのは……少し前からスマホやカメラを落とす人が増えていて、定期的に探索されるようになってるし、そもそも足場が悪くて自分が落ちる可能性の方が高い。それ以外だと、どこかに隠すか棄てるしか……)
「棄てる……処分……! この旅館で棄てられる場所はあそこしかない!」
「ぅおっと!」
マホロが突然声をあげたせいで、ゲンとショウヘイが一歩後ろに下がった。
「マホロさん、何か分かったんですか?」
「私に、場所の心当たりがあるんです。もし、その場所に本当にダイキさんがいたら私がスマホで場所を教えますので、そこに向かってください」
そう言ってゲンと連絡先を交換すると、マホロはマリが居る方を向いて深呼吸をした。
「ふぅ……よし、マリ、行こう!」
「……ン!」
マリは機嫌が良い時の声を出すと、先陣を切って部屋を飛び出した。
◆
マホロは物心ついた頃から、毎年この旅館に通っている。社会見学の一環で、旅館の女将に館内内部を教えて貰ったこともあるくらいだ。人気のない真っ暗な深夜の外でも 、旅館の敷地内だったら目を閉じていても歩くことは簡単だった。
スマホは20時30分を主張して来る。マホロは画面と何度も向かい合いながら見つけた時のメッセージをメモしておくと、改めて顔を上げた。
(お願い……どうか、私の想像が当たっていますように!)
祈るような気持ちで旅館の出入り口から外へ出ると、マリが突然しゃがみこんだ。
「おっと! マリ、どうしたの? やっぱり傷が痛むの?」
マホロも同じ様にしゃがんで手を付けると、土に人工的な凹凸を感じる。マリの反応から、探し人の足跡だと察したマホロは、意を決してマリの頭を撫でた。
「この足跡を追おう。私達なら出来るよ」
マホロの言葉にマリも納得したのか、時折足跡を確かめる様に地面を確認しながら歩き始めた。進むにつれて鼓動が早くなる。嫌な汗が喉を伝う。
旅館の裏手へと回った刹那、生ぬるい人の気配に全身の肌が泡立った。
「――っ‼ だ、誰か、いますか?」
力を振り絞って出した声に、気配が即座に反応した。
「……っく」
咄嗟に何かを言おうとして、慌てて口を噤んだ息が聞こえる。マホロは片手で既に下書きしておいたメッセージをゲンに送信しながら、マリに習って一歩ずつ近づく。
「だっ、黙ってても、分かります。私、耳が良いんです」
震える声を誤魔化すことも出来ずに、物言わぬ気配に問いかける。
「ここは、この旅館の焼却炉がある場所です……毎朝、旅館で分別された可燃ごみだけを燃やす場所を、どうして知っているんですか?」
「……」
気配は一瞬だけ動揺したものの、呼吸は努めて平静を保とうとしている。感情が読み取れない暗闇に向かって、マホロはマリを引き留めて必死で声を絞り出した。
「なんで、部屋が明るくなる前に真っ直ぐショウヘイさんの元に駆け付けられたんですか?」
気配は一言も言葉を返してこない、しかし、マリが匂いを確認しないだけで、そこに立つ人物が『顔見知り』であることは明らかだ。
「どうして『私が何かによって頭をぶつけている』ことを心配してくれたんですか? ゲンさんが俯いた私の顔の血に気付いたのは『貴方が私の顔を気にしていた』からじゃないですか……」
(どうしよう。声の震えが止まらない……でも、聞き続けなきゃ! 二人が来るまで、時間を稼がないと)
「なっ、なんで私に『自分が盗まれたのは財布だけ』と嘘を吐いたんですか……答えてください、ダイキさん」
「黙れ」
突然、声が目の前から聞こえてきた。マホロは咄嗟に身を庇おうと腕を前に出すが、筋張った指が特徴の手によって片手の自由を奪われる。
「きゃっ‼」
残る手はマリに繋がれている為、実質これ以上彼女に抗う術がない。
「痛っ……なんで……」
「それ以上俺に質問するな! 『何も見えていない』障がい者の分際で‼」
ダイキの冷たく鋭い言葉が突き刺さる。実際、ダイキの視界からは旅館内の灯りが反射して、マホロとマリがハッキリと視認できる位置に立っている。焼却炉に入れようと可燃ごみ袋の近くに置かれた新品の靴と軍手、そして、盗まれたショウヘイの指輪等は、旅館で購入できる風呂用品を一式まとめる為の袋に入っているようで、袋が歪な形をしている。
マホロには何も見えていない。見えていないが、辿り着いてしまったのだ。
「お前と違って、俺は完璧じゃなきゃいけないんだ! 完璧な体、完璧なキャリア、誰もが羨むような人生を歩かなきゃいけないんだ! なのに、なんで……なんで俺よりもあんなヤツが先に結婚しなきゃいけないんだ……」
最後の言葉はマホロに向けられたものでは無かった。
「……たった、たったそれだけの理由で、親友を殴りつけられるんですか?」
マホロは昼間のショウヘイの声を思い出し、大粒の涙を見えない目に溜め込んだ。
「親友? 自分より頭も容量も悪いお人好しを……『俺が秀でている事実の尺度』程度の理由で隣に立つことを許した存在を『親友』と呼ぶのか?」
「なっ……‼」
想像以上の冷たい言葉に、マホロが絶句する。
(なんで……どうやって育ったらそんな考え方が出来るの? 何がダイキさんをそこまで歪ませたの?)
捕まれた腕が熱い。部屋で襲われた、獣の様な恐怖は感じないが、信じられない感情で涙が止まらない。
「……っ! あんなに大切そうな声で誰かを『親友』だと言ってくれる人、私、出会ったことありません‼ ショウヘイさんに対する情は無いんですか? 幼馴染でしたよねっ!?」
マホロは一番言いたくない切り札を言葉にしてしまった。感情論が通じる相手だとは思っていないし、そもそも、この方法で説得するには、マホロがあまりに部外者過ぎる。
しかし、ダイキの声が初めて揺れた。今まで冷酷に突き返されていた言葉に、初めて『感情』が乗ってきたのだ。
「情ならあったさ! 殴る予定なんか無かった‼ 結婚指輪だけ盗んで、結婚する前にショウヘイと彼女の仲に少しでも亀裂が入れば、それだけで良かった……」
尻すぼみになっていくダイキの声からは、後悔と懺悔の念を感じる。マホロはホッと肩の力を抜くと、緩んだダイキの手をゆっくりと握り返した。
「やっと……やっと本音を伝えてくれましたね」
「……っく、なんで……本音と建て前がお前に分かるんだ」
この時は互いに気付いていなかったが、表情だけで取り繕って生きてきたダイキにとって、声で感情が読み取れるマホロは弱点でしかない。
「クソ……なんで……完璧だったのに……お前さえ入ってこなければ……俺の計画は完璧だったのに」
遂に膝をついたダイキに習って、マホロも顔を合わせようとしゃがみ込む。後ろからはマリの息遣いが聞こえる。彼女の存在が、マホロを奮い立たせる唯一の希望だった。
「今なら……今ならまだ、間に合うと思います。ショウヘイさんはゲンさんに会いたがっています」
「……」
「あ、謝って済む事かどうかは分かりませんが……」
「……そうかもな……」
ダイキのどこか確信めいた声に、マホロは一瞬気を緩めてしまった。マリだけが現状を理解していて、座っていた足に力がこもる。
「ここで、お前の意識もなくなれば、俺が犯人だと確信しているヤツはショウだけになる……ゲンなんて、なんとでも言いくるめれば……証拠の隠滅に付き合ってくれるようなチョロいヤツだし。お前さえ……居なくなれば……‼」
ダイキはブツブツと小声で言い訳を考えながら、両手をゆっくりとマホロの首に向かって伸ばす。マホロからしたら、突然喉に手が食い込んだ衝撃で、一瞬呼吸が止まった。
「カハッ……‼」
(ダイキさん!? 何を考えて……)
マホロの首をダイキの手が覆いつくす。白くて細いマホロの肌が、ダイキの力で赤く変色しそうになった刹那。
「ワン! ワンワン‼」
マリが初めて声を張り上げ、ダイキに飛び掛かった。
「うわっ!」
マホロの首から手が離れ、ダイキがマリの下敷きになる。唸り声を上げるマリに向かって、マホロは咳をしながら懸命に叫んだ。
「やめて、やめて『マリー』! 貴方は『盲導犬』だから、人を傷つけるようなことしちゃダメ!」
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――物語の途中ですが、先ず、一度目を閉じてみてください。眼球を裏返すイメージをしてから、タオルか何かで両目を覆ってみると、何が見えるでしょうか。暗くは無くとも、目の前に何があるのか、何が動き、何が書いてあるのか、まるで理解が出来ないでしょう。
真帆絽様は、この世に生を受けた瞬間から、この世界を見て育ちました。何も無い暗闇の世界。
盲目の人間と生活を共にするように訓練された『盲導犬』それがマリー様です。
マリー様は真帆絽様の『目』となって世界を歩く。言葉を喋らずとも、ハーネスを通して心を通わせることが出来る存在なのです――
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マホロは喉の痛みに耐えながら、辛うじてまだ繋がったリードを必死で引っ張り、マリーを全身で抱きしめる。どこか傷付けられてないか、マリの体を確認するが、ガラス傷の包帯が緩くなっている程度で、マリ―自身も苦しんだりしている様子は無い。
「マリー……ああ、良かった」
一先ずマリーの安否を確認してから、慌てて両手を地面に擦り付け、ダイキの所在を探す。もし、マリーが人間を傷付ける様な行いをしてしまった場合、その理由がなんであれ、マリーは盲導犬でいられなくなる。マホロは最悪の事態を想像して身震いすると、大声でダイキに問いかけた。
「ダイキさん、大丈夫ですか? 怪我とか……マリーに傷付けられてはいませんか?」
「うるさい! クソ、暴れたりしないって言ってたじゃないか‼」
思いの他近い距離でダイキが返事をした。怪我がなさそうなダイキの声を聞いて、マホロがホッと一息つく。しかし、気が立ってる人間と対峙したことのない彼女にとって、行動が読めないダイキの行動は恐怖でしかなかった。
(どうすれば、どうすれば人って冷静になれるの? 私だってパニックになってるのに、この状況をどうやって……)
マホロが息を呑んだその時。
「――っ!?」
ひゅっと言う息の音の直後、ダイキの呼吸が止まった。彼の視線の先には、マリーの声に気付いたゲンとショウヘイが、彼等の光景を見て絶句していたのだ。
「い、いつから……」
ようやく息を吐いたダイキから発せられた声が、恐怖で震えている。マホロはマリに気を取られていた為、誰が来たのか、どの様な状況なのか把握できていない。
「ゲンさん? ゲンさん達が来たんですか?」
「……ち、ちがう、これは……」
マホロの問いを無視して、ダイキの声は余りにも怯えている。すると、さっきまで唸っていたマリーが、首をぐんと伸ばしてダイキに近づいた。マホロもマリの鼻先を伝ってダイキを見つけると、震える手を咄嗟に掴んだ。
「だ、大丈夫です。ダイキさん、話を……さっきの話をしましょう?」
「あ、ああ……」
ダイキの声は絶望に満ち溢れていて、最早これ以上言葉が発せられるのか分からない。なんとかして説得しようとしたマホロの後ろから、ゲンの声が聞こえた。
「ダイキ……今のマジか?」
「ちが、ちがう……あぁ……そんな、そんな目で見るな……」
取り乱すダイキが逃げない様に、マホロは握った手に更に力を込める。ゲンはショウヘイに肩を貸しながらゆっくりとダイキに近づくと、苦悶に満ちた声を吐き掛けた。
「ショウヘイの目が覚めた時……お前に殴られたって聞いて信じられなかった……」
ゲンの肩を離れてゆっくりとマホロの隣に座ったショウヘイも、声こそ落ち着いてはいたが、悲しみと苦しい感情が綯い交ぜになった言葉が絞り出された。
「僕も、悪い夢を見たんじゃないかって、ずっと思ってた……」
◆
ダイキには、誰にも知られたくない人格があった。幼少期から父親の評価ばかりが彼の人生の基準であり、いつしかダイキ自身も、父親と同じ様に完璧な人生を歩む為には手段を択ばない大人へ育っていた。
昔から素直でダイキの言うことを聞くショウヘイは、承認欲求を満たす道具となり、大学で一浪したゲンは、自分との比較対象として丁度良い存在だった。
こうして、ダイキは歪んだ『友情』と言う存在を侍らせ、勤め先でも着々とキャリアを積み上げてきた。後は母親程度の女性を適当に見繕って、父親に「遅い」と言われる前に結婚するだけ。
しかし、目を付けていた女性は、長年同期だったダイキよりも、友人として紹介したショウヘイと恋に落ちてしまった。人生で最大の誤算。そして何より、自分より下だと思っていた男に横取りされた屈辱で、ダイキが我慢していたこれまでの負の感情がごぽりと溢れてしまった。
――こうなったら、ショウヘイの人生にキズをつけてやる……結婚式を不審に延期にする程度で良い。親父に『お前はこうはなるな』って言わせる程度の……――
こうして、ダイキの計画が始まった。高校生くらいから書き溜めていた『人生プランと事実確認ノート』と書かれた日記を読み返し、その中からショウヘイが一緒に行ってくれそうな場所を洗い出し、序でにゲンも誘える場所を絞って決めたのが『八重紅葉荘独身旅行計画』だった。
ショウヘイにはわざと当日に指輪を買わなければならない日程を選び、時間にルーズなゲンには集合時間を早めに伝える。ゲンは単独行動が目立つ為、彼を口実に三人がバラバラになる事は容易だ。
旅館に着く前に、荷物を持ったまま観光スポットで写真を撮る。元々ダイキ以外は手荷物が少ない二人はゲンが他の観光客、主に女性を追って姿を消した頃合いを見てダイキもショウヘイの元を離れ、荷物から新しい靴を取り出すと、観光スポットから真っ直ぐ旅館まで向かい『外部犯』用の足跡を残す。序でに歩ける範囲で旅館の外観とホームページの地図を照らし合わせて、焼却炉迄の経路を目測、外部犯用の逃走経路迄走ったりもした。
チェックインの時間までに三人で集合し、ゲンを放置してショウヘイと部屋で雑談をしながら、さり気なく大浴場へ誘う。ゲンが117号室に居ないことを確認しつつ、大浴場の更衣室まで入ってから「忘れ物をした。先に風呂に入っててくれ」とショウヘイに伝え、ゲンの視線だけ注意しながら部屋に戻ると、荷物の中にあった靴と軍手を使用して自分の財布とショウヘイの結婚指輪を盗み出し、窓を開けて外へ逃げたふりをする。ここまでの手筈は完璧だった。
「ダイちゃん? 探し物は見つかった?」
部屋に入ってきたのは、更衣室で服を脱ぐところまで確認した筈のショウヘイだった。
――なんでショウが――
――顔を見られた――
――俺の計画が終わる――
――ショウにだけは、見られたくなかった――
瞬きの間に様々な感情が溢れ出てきたダイキは、反射的に手元にあったガラスの灰皿を使い、ショウヘイに向かって大きく振りかぶった。
鈍い音と共に、ショウヘイの体が右側に飛ぶ。心臓の音がうるさくて、呼吸が乱れる。緊張で灰皿を持つ方の手が固まり、自分の手で引き剥がそうとしても外れない。
「ふふ、急がなくても大丈夫だよ……」
「っ!?」
完璧だと思っていた計画が、音を立てて崩れていく。ダイキは顔を見られる前に声のする方へ手を伸ばすと、目が見えないマホロの顔を鷲掴みにしていた。
――俺は一体、何をしているんだ……?――
軌道修正は出来たと思っていた。重たい灰皿を窓に投げつけたお陰で、駆け付けたゲンも、マホロも、外部犯の犯行だと思い込んでくれている。灰皿を投げた時に反動で飛び散ってきたガラスが刺さった物理的な痛みが、徐々にダイキを冷静にさせた。ゲンと交互に部屋を出ながら、マホロにはまるで二人が行く先々で顔を合わせ、共に行動しているように錯覚させ、一人になったタイミングで、犯人用の靴を使って焼却炉まで向かう。盗んだ物、使った証拠品全てを焼却炉の中に入れてしまえば『外部犯による完全犯罪』が完了する。そう信じていた。
「……あ」
ゲンとショウヘイの視線から避けたダイキの視線の先には、自分の靴を履いた自分の足が見えた。マリーは真っ直ぐダイキの臭いを追って、焼却炉にマホロ達を導いたのだ。
◆
ゲンとショウヘイの声を確認して、マホロがショウヘイの方を振り返る。
「あの、えっと……」
(ダイキさんの行いは決して許される事じゃない。でも、このまま彼を悪人と決めつけて良いのかな……私には、昼間優しくしてくれたダイキさんも、今こうして怯えているダイキさんも本物だと思う。どうすればいいんだろう)
グルグルと思考を巡らせるマホロを置いて、一番最初に結末を決めたのは、意外にもショウヘイからだった。マホロが握っている手の上からダイキの手を掴んだショウヘイは、ダイキにしか見えない角度でへにゃりと笑った。
「ダイちゃん。もし、ダイちゃんが僕を殴った事を後悔していて、本当に謝りたいって思っているなら……僕はダイちゃんを許すよ」
「なっ!?」
ショウヘイから予想もしていなかった言葉を受けて、ダイキが驚愕する。
「何年ダイちゃんと一緒にいると思ってんの? テストで100点取らないと怒ってくるダイちゃんのお父さんのことも、僕とは友達止めなさいって言ってくるダイちゃんのお母さんのことも知ってる。なのにダイちゃんは『ショウは親友だから裏切らない』って、僕と公園で遊んでくれたよね?」
「……そんなの、いくつの頃の話だよ……」
項垂れるダイキに向かって、ショウヘイは変わらず穏やかな笑顔を向けてくる。
(ショウヘイさん、声を聞く感じ、笑いながら喋ってる? ダイキさんは……ダイキさんは今、どんな顔で私たちを見ているんだろう?)
状況把握が他の人より少ないマホロだけが、ゲンやショウヘイ、ダイキが要る筈の方を見ながらオロオロとしている。ショウヘイとダイキに挟まれた自分の手は緊迫した状況に似合わない程優しい温もりを帯びていて、不思議と恥ずかしい気持ちも湧いて来る。
(お、男の人の手って、やっぱり大きいな……じゃなくて! 私、この手の間に挟まってて良いの!?)
慌てているマホロの事など気にも留めずに、ショウヘイは泣きそうな顔で笑いながら説得を続ける。
「いくつの頃でも構わないよ。僕はその時に決めたんだ『ダイちゃんが困ってる時、もしくは誰かを傷付けた時、誰がダイちゃんを責めても、僕は一回だけ許そう』って」
「……ふっ、う……っ‼」
ダイキの息に近い声と共に、マホロの手首に、冷たい雫が落ちた。それが彼の涙だと気付くまでそう時間はかからなかったが、年上の男の人が泣いた時の対応など経験したことも無い為、宇宙を背負った猫の様に固まってしまう。
「お前、馬鹿……馬鹿過ぎるだろう……だから俺みたいなのに利用されるんだ」
「うん。僕、馬鹿だからさ。たった一回殴られて、大事な物盗られても、それ以上に優しくしてくれたダイちゃんの事、嫌いになれないんだよ」
ショウヘイはゆっくりとダイキの頭を抱えると、自分の肩に引き寄せた。
「ダイちゃん……ダイちゃんは僕のこと、許せない? 殴り殺したくなるくらい、好きだった女の子を奪った俺が憎い?」
「ちが、ちがう……違う違う! 憎いんじゃない。ただ……羨ましかった……お前だけいっつも明るくて、お前の周りにだけ人がいっぱいいて……どんなに頑張っても認められない俺と違って、なんでも褒められるお前が……ただ、羨ましくて」
ダイキの体が、咽び泣く度に震える。マホロも恐る恐る彼の肩を撫でたが、抵抗はされなかった。
「うん。たまにダイキが機嫌悪そうに僕を見てるの、実はちょっと気付いていたよ。ダイキが僕の婚約者や、ゲンや、マホロさんとマリちゃんを傷付けなくて良かったよ……僕だったから許せるんだ」
「……ん……ごめん……」
絞り出すようにダイキが謝る。ショウヘイに聞こえたかは分からないが、マホロには確かに聞き取れた。
「謝れたじゃないですか。もう大丈夫ですよ。謝って済まない部分は、皆で考えましょう、ね?」
マホロの手がするりと離れ、恐る恐るダイキの頬に触れる。彼は一瞬びくりと肩を震わせたが、涙まみれの顔をされるがままにショウヘイの肩から離れてマホロの方を向いた。恐らく抵抗する程の気力も無かったのだろう。
ポケットからハンカチを取り出して、ダイキの涙を拭ってあげる。すると、今まで分からなかったダイキの輪郭や顔のパーツが手の平から『見る』ことが出来た。
(お父さんより薄い唇、右端のぷつんとしたのはホクロかな? 鼻が少し高い、睫毛の長い目……あ、髪がこんなにクシャクシャになってたんだ。焦って、急いで、この人もギリギリだったんだな。後で梳かしてあげよう)
「良かった……やっとダイキさんのお顔が『見れ』ました。もう私、ダイキさんの事怖くないです」
マホロのスマホから21時の音声が鳴り響く。旅館の食堂以外の灯りが全て消される時間だ。
ダイキやショウヘイ、ゲンの視界から光が消えていく。大浴場の外に位置する焼却炉付近が、徐々に本当の『暗闇』へと染まっていった。
◆
中秋の名月が過ぎてから初めての新月を迎える頃。泉から呼び出された和寿は、解通易堂の裏手、玄関にあたる扉を開けて絶句した。
「これぁ……」
昼間は取引先や客を招き、夜は泉と和寿が夕食を共にするテーブル席に、ベロベロに酔っ払った褐色肌の男が突っ伏している。和寿が泉に問いかけようにも、何から聞けば良いのか分からない程情報が多く、続きの言葉が見つからない。
「んでェ、あの時オレァ大輝の顔面に一発ぶちかましてェ、漢らしくチャラにしたんすよォ‼」
褐色の男はここに来る前に催事に出席していた様子で、足元に引き出物の袋が置いてある。
「それは、それは……玄様も中々、懐が広い御方……なのですね」
泉も珍しく興が乗っているのか、和寿が持って来ていたビールを勝手に拝借し、玄の自棄酒に楽しそうに付き合っている。
「しかもォ、アイツあの後どうなったと思いますゥ? オレの結婚式の時にィ、真帆絽ちゃんと一緒に出席してきてェ、付き合ってるって言ってきたんすよォ!? 信じられますゥ?」
「ふふ……人の感情とは、本当に……面白い、ものですね」
「面白くないですよォ‼ しかも今日‼ アイツがシレッと真帆絽ちゃんと結婚して……昇平がめっちゃ嬉しそうに泣いててぇ、オレなんて、オレなんて! いじゅみさんの櫛が無きゃ、今の嫁さん口説き落とせなかったくらい苦労したのに‼ 聞いてます!?」
「ええ、ふふふ……聞いていますよ」
その後も、和寿のビールを勝手に開けて一気飲みしながら、玄は和寿が来たことにも気づかずに惚気に対する愚痴を綴っていく。
「大輝、毎日真帆絽ちゃんに髪梳かして貰ってるんですって。んで、マリーちゃんの『普通のお散歩係』を進んでやってて……オレなんて、もう嫁さんに毎日お弁当お願いしないと作ってもらえないのにィ……いや、良いんですけどねェ!? 嫁さん毎日楽しそうに『分かった』って言ってくれるからァ‼」
「おい、旦那、こりゃあ一体どう言う状況だ。説明しろ」
ようやく言葉を絞り出した和寿にようやく気付いた振りをして、泉はにこやかに彼を手招きした。
「和寿、こちら……昔櫛を、お買い求め……いただいた、玄様です。表通りに、タクシーが来ていたでしょう? お供して、さしあげてください……」
「じゃなくて、それ、俺のビールは?」
「ええ、はい……ご馳走様でした」
「っ……だぁ‼ 結局これかよ。おら、そこの酔いどれのお前!」
泉の潔い悪気の無さに、和寿はそれ以上の口論を諦めて、玄の肩を担いだ。
「お前、飲み過ぎだ。タクシー乗るぞ」
「んあぁ!? オレァ、まだまだ飲み足りねえぞ!」
「嫁さんが待ってるんだろ? 帰ってやれよ」
和寿に担がれながら、玄は千鳥足で玄関に向かう。
二人が居なくなった空間で、泉は珍しく楽しそうにビールをグラスに注ぎながら、仲睦まじい新婚夫婦を想像して乾杯した。
「ふふ……本当に、人間とは……悲しみや絶望を乗り越えて、幸せを見つけ出すことが出来る……摩訶不思議で、面白い……ですね」
――もし貴方も、貴方自身を気付つけた相手を一度だけ許せる心を持っていたら、今後の人生が変わるのかも知れませんね――
【完】