『泉御櫛怪奇譚』第七話
第七話『焦がし猫たちの夜』
原案:ととやす堂
著:紫煙
――これまで、様々な『怪』が宿る櫛をご紹介して参りましたが、物語の外では、今でも数多くの櫛が様々なお客様とご縁を結んでおります。
特に『焦がし猫櫛』は、既に百を超える数のご縁に恵まれており……おや?
どうやら今宵も、その『焦がし猫』たちが、なにやら夜会を始めるようですよ……。
◆
おれは猫である。どこで産まれたかは覚えていない。そんな感じで始まる『しようせつ』とか言うヤツがニンゲンの間では有名らしいが、おれにゃあ関係ない。
おれは野良猫だが、ちゃあんと『ミスタ』って名前もあるし、飯にも困っていない。お日様がニンゲンの鉄の森で見えなくなる位置まで沈むと、おれは『解通易堂』って名前の住処まで行ってにゃあにゃあと鳴く。すると、四角い塊に乗ったオスのニンゲンがやって来て、飯を用意してくれるんだ。
「よお、ミスタ。ちょっと待ってろよ」
「にゃーん」
ニンゲンの名前は『カズトシ』こいつは大きくてごつい手でおれの頭を撫でると、我が物顔で住処に入って行く。ここはカズトシの住処じゃないのに、変なヤツだ。
毛づくろいをしながら待っていると『レディ』も住処の前に姿を現した。レディはメスの三毛猫で、もうじき仔を産む。この時期のメス猫は何をしても威嚇してくるから、挨拶で匂いを嗅ぐのも今はダメだ。
[ミスタ。アンタも今日、夜会に来るのかぁい?]
おれが毛づくろいをしていると、レディが、お腹をぐでんと横にして鼻をふみふみ鳴らしながら聞いてきた。
今日は『怪猫夜会がある。『怪猫』が何かと言うのは、行った時に話すとして。
[応。今日はそろそろ『新入り』が来るんじゃにゃいかって聞いた。顔だけ見に行こうと思っている]
[あら、そうなの。じゃあアタシも行こうかぁにゃ]
[身重の身体で怪異に会うのは、余り推奨しないが]
[アタシャ毎日ここでブラッシングしてもらっているんだよ、そこら辺の猫と比べにゃぁいでおくれ]
レディはそう言って、シャーと威嚇してきた。これだからこの時期のメスは嫌いだ。雑談をしていると、解通易堂から、カズトシともう一人、この住処の宿主が出てきた。
「おや……レディも、いらっしゃっていたのですね……こんばんは」
「ぶしゃー!」
レディは雑に宿主へ挨拶すると、ぼて腹を持ち上げて、文字通り猫なで声でカズトシの足に絡みついて行く。
「ぶにゃ~ん。なーぅ」
「おう。お前も来ていたのか。ご苦労さん」
「ぶろろろろろろろ……」
「……にぅ」
因みに、今レディはカズトシに[そろそろアタシを飼い猫にしてくれる気はないか?]的なことを言って、おれが[……猫かぶりめ]と言っているのだが、いちいち直訳するのも面倒臭い。以後はおれが聞こえている言語で物語を進めようと思う。
◆
野良猫には贅沢な晩飯をたいらげて。
ニンゲンと怪異が混ざり合う丑三つ時。解通易堂から少し離れた場所にある無人神社で、夜な夜な猫たちが集まっている。その数はざっと見ても数十匹はいて、自由気ままに各々の時間を過ごしている。
[うにゃぁ~! 最近、ご主人が縮毛矯正ってヤツに挑戦したんだ!]
[にゃんだってー!? そりゃあ梳かし甲斐があるにゃあ]
[ウチの奥様は、一度も髪を染めたことが無くて、とっても綺麗な髪をしているのよ!]
[にゃんだってー‼ それは羨ましい!!]
[……相変わらず、よく分からないことで盛り上がる夜会だな……]
聞いて分かるように、この夜会に集まる猫たちは、櫛に焦がしつけられた『怪猫』である。中にはおれのような本物の野良猫もいるが、今日はおれとレディしか来ていないようだ。レディにはどの猫も同じに見えるらしいから、この『見分け』の能力は、おれだけのものらしい。
[ニンゲンだったら、こう言う状況のことを『アウェー』って言うんだろうな]
[アタシらにゃあ関係ない言葉だぁね]
レディは特に気にするでもなく、神社のベンチの下で腹を労わるでもなく横になった。レディの仔たちはきっと、産まれる前から逞しくなっていることだろう。
[おん? ミスタじゃねえか!]
ため息を吐くおれに向かって、背中が灰色でお腹側が白色の毛の雄猫が声をかけてきた。こいつの名は『ハチワレ』気さくでどの猫にも声をかけてくる。櫛猫の中じゃ、ちょっと珍しいヤツで、なんと、櫛に焦がしつけられる前の、生前の記憶が残っている唯一の櫛猫だ。
[オレは、ずっと可愛がってくれた飼い主が、死後も一緒にいられますようにって櫛屋に頼んで焦がしつけられた櫛猫なんだぜぃ! これがホントの『唯一無二』ってヤツなんだぜぃ‼]
と、夜会の度に自慢している。
[ふむふむ。晩飯帰りの匂いがするぜ。今日も豪華なモンをたらふく喰ったんだな]
[櫛猫と違って、おれたちは飯を喰わなきゃ生きていけないんだ。豪華じゃにゃくても、腹いっぱいまで喰うさ]
[お前も、死んだら櫛猫になれると良いにゃぁ。櫛猫は過ごしやすいぜぃ! 腹は減らねえし、ご主人と一緒にいられるし、なにより腹が減らねえ!]
[……おれは、今のおれが往生出来れば、それ以上はいらないさ]
ハチワレのボケには突っ込まないで、おれは神社の中でも、一際賑やかな集団の中心にいる茶色と橙の縞模様の猫に向かって歩いた。屋根のある部分は時折誰かが手入れをしているのか、埃ひとつない綺麗な空間が広がっている。
[今日もボクのご主人様はお美しい髪でいらっしゃった……あんな素敵な髪を維持し続けるなんて、ボクのご主人様は凄いお方なんです!]
[よっ! シマの話はいつも気持ちが良いくらいご主人愛で溢れているにゃぁ!]
[今日のご主人自慢もシマが一等賞かにゃあ!?]
[ふふん! それに、ボクのご主人様はとても櫛を丁寧に使ってくださるし、毎日お洒落をして出かける可愛らしい最高の女性なんだ! ボクよりも幸福な櫛猫がいるはずがありません!]
『シマ』と呼ばれた雄猫は、うっとりしながらご主人様を紹介している。補足しておくと、ここで櫛猫たちが言っている『ご主人』は、櫛の持ち主のことである。おれやレディは野良猫だから、当然『ご主人』なんて者は居ない。
[シマ、事実を述べるのは結構だが、お前のご主人はもう御年80歳じゃなかったか? 櫛の手入れをしているのは息子の嫁だろう]
[失礼ですねミスタ。ボクのご主人様はまだ75歳です! それに、家族がボクを大事にしてくれるなら、それはご主人様に大切にされていると同義じゃありませんか?]
[そうだそうだー!]
[アタチの所なんか、家族全員の髪を梳かしてもらえるのよ! 光栄なことだわ!]
[そうだそうだー‼]
外野の櫛猫たちが、一斉にシマの味方をする。嗚呼、これが『アウェー』か。
声をかけたことに後悔していると、ハチワレがおれとシマの周りをクルクルしながら会話に入ってきた。
[だがシマよ。おめえさん自身の毛並みがパサパサじゃねえか。櫛に油を注してもらえないと、オレたちの体はそうなるんだ]
[そ、れは……]
今まで得意げだったシマが初めて口ごもった。確かに、ハチワレとシマを比べると、野良猫と飼い猫くらいに毛並みに差があった。いや、最近の野良猫はニンゲンの手によって定期的に綺麗になっているのだが、その話は端っこに置いといて。
[オレの体を見てみろ。生前と変わらないこの艶やかさ! 毎月黒髪の綺麗なご主人がちゃあんと油で手入れをしているから、オレもサラ艶な櫛猫になれるんだぜぃ]
[くぁー! 椿油の香りがたまんねー‼]
[ハチワレの旦那の所は、櫛屋から卸した油にゃんだよにゃぁ~!]
ハチワレの毛並みをくむくむと嗅いだ櫛猫たちが、途端にゴロゴロと喉を鳴らし始める。その様子を見たレディが、信じられないといった様子で鼻を鳴らした。
[ふん。アタシは油よりも、マタタビやエノコログサの方が気持ちいいと思うけどね]
[……おれは、ノーコメントだ]
本音はマタタビも解通易堂の櫛の香りも同じくらい大好きだが、話の主役は櫛猫たちだから、主張する必要もにゃい。
[ボクのご主人だって、きちんと手入れをしてくださいますよ! 今日はたまたまお手入れ前なだけです!]
シマがピンク色の肉球で床をパシパシと叩く。それでもからかうハチワレに向かってプンスコしていると、神社の鳥居から一匹の真っ白なメス猫が現れた。
首には何もつけていないが、おれにはあれが『櫛猫』だと判別できた。
[新入りだ! こいつも焦がし猫だ]
[最近あった櫛の宮市で買われていった、梨櫛のコだにゃ!]
シマの周りに集っていた櫛猫たちが、一斉に白猫の元に移動していく。シマもハチワレも例外なく新入りに興味津々で、そういう所は、何と言うか。
[……言いえて妙だけど、猫らしいよな]
おれは最後尾で独り言を言うと、のんびりと群れの中に入って行く。
[ご……ごきげんよう。わたくし、焦がし梨櫛のマシロと申しますわ]
『マシロ』と名乗った白猫は、おずおすと群れの匂いを嗅いで、ホッと息を吐いた。
[良かった。皆さん櫛猫なのですね]
[よう、おじょうちゃん。オレはハチワレ。そこで寝ているレディと、一番端っこのミスタ以外は、みーんなお前の同類さ。よろしく!]
[よろしくにゃぁ~]
ハチワレの言葉に合わせて、櫛猫たちが声を揃えてマシロに挨拶をする。我先にと他の櫛猫をかき分けようとして、猫たちの顔がプニプニ肉球の跡まみれになっていく。
[ワッチらは全員で一つの梨櫛に焦がしつけられた化け猫さ!]
[私たちも梨櫛のネコーズよ。よろしくね]
『怪猫』の中には、おれたち野良猫に似たヤツもいれば、ニンゲンの様に布を纏った櫛猫もいる。
[僕たちは梨櫛ではないけれど、夜会にはこの仔と良く来るんです]
[この二猫は別の櫛に描かれた化け猫で、絶賛遠距離恋愛中なんだにゃぁ~]
今じゃニンゲンでも珍しい『着物』を着た怪猫の番いが、マシロに挨拶をしている。マシロは[あら、良くお似合いで]などと褒めながら、集まった猫達に向かってもう一度深く頭を下げた。
[そうなのですね。皆さん、よろしくお願いいたしますわ]
[よろしくにゃあにゃあ!]
友好的な夜会にマシロはようやく緊張を解くと、直ぐに櫛猫たちの自慢話について行く程馴染んでいった。
[……この順応性だけは、櫛猫ならではだよな~]
[そうだにゃ~。オレも最初は混乱したぜぇ]
呆然とするおれの隣で、ハチワレだけが同意してくれた。
◆
新入り猫に興味がなくなった猫たちは、今度は櫛に使われている油について熱く談義している。
[やっぱり、櫛の手入れには椿油が一番だにゃ~‼]
[いやいや、杏油も捨てがたいにゃ~! ぼくの毛並みを見とくれよ。櫛にちゃんと油が馴染んでいる証拠だぜ!]
[海向こうの油もオススメよ! アーモンドとかカレンデュラなんかは、ご主人様の髪を一層綺麗にする効果があるの!]
[かれんでらってなに? カステラの材料?]
[イマドキの流行はゆず油よ! ウチのご主人はさっぱりした香りが大好きなの!]
[……おれは、柑橘系の匂いは目がシパシパするから気に入らにゃい……]
おれは時々独り言の様に反応しながら、尻尾をゆっくりと揺らして自慢話を聞いている。ふと視野を広げると、先程まで話の中心にいたマシロが、集団の隅で少し複雑そうな顔をしているのに気付いた。
[……マシロ。お前もオススメの油があるなら、後輩だからって遠慮しないで、言ってくればいい]
[あ、えっと……貴方がミスタ?]
[そうだ。櫛猫も、生きている猫とそうじゃないのが見分けられないのか?]
[そうですね。わたくしの所は、飼い猫も野良猫も居ない住宅街なので、こんなに沢山の猫を見ること自体が初めてなんですの]
[成程。参考になる]
おれは、一本だけ真っ白な前足で毛づくろいをしながら、なんとなくマシロが喋りだすのを待った。すると、おれたちに気付いたシマとハチワレが寄って来る。
[おや、ナンパですか?]
[おん? どうした、おじょうちゃん? ミスタにいじめられたか?]
[……なんで二猫もいてどっちも状況判断を間違えるんだ? マシロの話を聞いてるだけにゃんだが]
[冗談だよ。唸るなって]
思わず「フーッ!」と唸ると、ハチワレが謝罪を込めて頭の毛を舐めて整えてくれた。櫛猫たちに舐められると、櫛で梳かした様に毛がサラサラになるから、悪い気はしにゃい。
[……あの]
黙っていたマシロが、ようやく口を開いた。
[わたくし、実は、ご主人様に買われて一ヵ月……一度も髪を梳かしたことがないんですの]
[櫛を買ったのに、一度も使われない?]
どの猫よりも先に聞き返したのは、シマだった。
[じゃあ、マシロは何のために買われたんですか?]
[それが、私のご主人様は……わたくしや、他の高価な櫛をガラスケースに入れて、ニコニコと眺めてくださるんですの]
[ガラスケースから毎日取り出しているんですか?]
[いいえ、シマさん。わたくしたちは、ガラスケースで飾られているのがお役目なんですの。わたくしのご主人様は、櫛を使わない方なのですわ]
[へぇ。何と言うか、そりゃあ変なニンゲンだな]
ハチワレも目をまん丸にして言葉を溢すが、ニンゲンの中には、同じものを沢山集めたり、そこら辺にいるカラスみたいに、ギラギラしたものを手に入れる事に喜びを感じるヤツが、確かにいる。おれは、何軒もの櫛の店を渡り歩いて、どの店でも必ず来る客がいることを知っていた。
[もしかして、マシロのご主人は眼鏡も沢山持っていないか? あとは、ニンゲンがよく腕に巻き付けてる硬いヤツとか]
[‼ はい、集めていますわ! ミスタ、どうして私のご主人様が分かったんですの?]
[色んな櫛屋で良く会うんだ。おれは野良猫だが、櫛屋は好きだ。猫が嫌いなニンゲンの所以外は、毎日色んな櫛屋の前にいて、櫛や手で頭を撫でてもらうんだ]
[うにゃー! なんだそれ、羨ましいっ! オレも久々に身体を撫で繰り回されたいぜぇ~]
ハチワレが体を床にゴロゴロと擦り付けている。それを白い毛の方の前足でぷにっと踏みつけて無視したおれは、マシロに向かってご主人について説明する。
[もし、おれの知ってるニンゲンがマシロのご主人なら、そいつはどの店にも必ず来る客人で、毎日違う眼鏡をしてくるんだ。いつも体に嫌なモノをくっ付けているから、おれはあいつが来ると直ぐに立ち去るようにしている]
[ミスタの言う『嫌なモノ』とは、ボクたちがいつもご主人様から梳き落としている『穢れ』ですね]
シマがおれの言葉を借りて補足を入れてくれる。『穢れ』はニンゲンが大好きで、特に髪に絡みついて蠢いている気持ち悪いヤツだ。あれだけドロドロでベトベトしていそうなのに、殆どのニンゲンは見ることが出来ないらしく、そのままにしている事が多い。全くもって理解出来にゃい。
マシロはおれとシマの話を聞くと、毛を逆立てて話に喰いついてきた。
[そう、そうなんです! ご主人様は毎日穢れを溜めて帰って来るので、今使っている静電気除去ブラシだけでは梳き落としきれないんですの! でも、わたくしよりも崇高な猫神様があしらわれた櫛ですら、毎日ガラスの向こうから眺めてくださるばかりで……]
[そう言うニンゲンは、綺麗で貴重なモノ程使わないヤツが多い。マシロのご主人は、毎回店で一番珍しい櫛を買って帰る程の目利きなはずだが……使っていないのであれば、あれだけの嫌なモノを溜め込むのも頷ける]
[うう……わたくし、なんとかしてさしあげたくて、勇気を出して、櫛から出てきましたの。どうか、お知恵をお借り出来ないかしら?]
なんとかご主人助けてあげたいと思うマシロに、おれたちは小さな頭を傾げながら考えた。ゴロゴロしていたハチワレも、おれが踏みつけた跡を残しながら起き上がり、一緒に無い知恵を絞り出してくれる。
しかし、丑三つ時が終わる匂いが外からやって来て、櫛猫たちが次々と消えていった。『怪異』が現界出来る時間は、個人差があれど限られている。最古参のシマやハチワレでさえ、一晩中外に出られることは不可能だ。
[今日はお開きだ。皆、明日の夜会までに、何か良い案がないか探してきてくれ]
おれが解散を提案すると、ハチワレとシマが同時に頷いた。
[おうさ! おじょうちゃんの頼みとあっちゃあ、放って置けねえしな]
[そう言って……ハチワレはどの猫でも同じように首を突っ込むじゃないですか]
最後まで言い合う声が風と共に消え去ると、今度はマシロが頭を下げて消えていった。
先程までどんちゃん騒ぎだった神社が、一瞬でおれとレディだけになる。
[おや、終わったのかい? それじゃあアタシは、ここで一寝入りしてこうかぁにゃ]
ベンチの下から神社の中に移動してきたレディは、身体を横にして耳をピコピコと動かすと、その場でイビキをかき始めた。確かに、下手にどこかへ移動するより、ここの方が安全で寒くはない。
おれは、レディを神社に残すと、いつもの道を辿って、解通易堂へ戻って行った。
◆
朝の匂いがしてくる。薄ら明るくなった解通易堂の住処の前でにゃあにゃあ鳴いていると、今日は住処の中からカズトシが出てきた。四角い塊は外に無かったが、カズトシがいることは臭いで分かっていた。
「よおミスタ。ちょっと待ってろ」
大きな手でひと撫で。これが、おれたちが会った時の挨拶だ。待ってろとは言われたが、おれは住処に足を踏み入れて、宿主の臭いを探る。
カズトシがご飯を用意する間、おれは隣の和室で櫛の手入れをしているイズミに声をかけた。
[イズミ、話がある]
「おや……おはようございます、ミスタ……この時間にいらっしゃるなんて、珍しい……ですね」
イズミは櫛を箱に仕舞うと、おれが中に入っても良いように座布団と爪とぎ用のおもちゃを用意してくれた。おれは賢い野良猫だから、勝手に宿主の縄張りを荒らすような野蛮な真似はしない。
座布団へ近づくおれに、イズミは当たり前の様に触ろうと手を伸ばしてきた。普段は別に気にしにゃいが、今日は触られる気分じゃにゃい。
[触るにゃ、ニンゲン]
おれは「ぶにゃ」っと言ってイズミの手に猫パンチする。大抵の猫はこれで怯むはずなのに、イズミや他のニンゲンは、何故か口角を更に釣り上げるから不思議だ。
「ふふ……本日も、強くて逞しい肉球……ご馳走様です」
[御託は良い。さっさと座らせろ]
「はい……して、本日は……どのようなご用件、ですか……?」
座布団の座り心地をふみふみしながら確認しているおれに、イズミは再び、ふわりと口角を上げて聞いてくる。ニンゲンの顔はおれたちよりも良く動くから、口角が上がっただけで、違うニンゲンみたいに見えるんだ。
[怪猫夜会で、マシロと言う焦がし梨櫛のメス猫に遇った。ご主人は収集家で、マシロの櫛を一度も使わずに飾ってあるらしい]
「ほう……櫛を買ったのに、使わないお客様……ですか」
[使われなくなった櫛猫が、また使われるようになった話は聞いたことあるけど、ハナっから使われない櫛猫が、使われるようになった話は聞かない。知恵をくれ]
イズミとおれは、どこか似ている。どこがどの様に似ているかと聞かれると『匂い』としか答えられないし、それに、なぜイズミにおれの言ってることが通じるのかは、おれも知らにゃい。
「実は……コレクションを、目的として……櫛をご購入したお客様は、数多くいらっしゃるんです……しかし、使われていない櫛から……櫛猫様が現界する事は、非常に稀……ですね」
[稀……珍しいのか?]
「ええ……櫛猫様は、本来……付喪神のように、長い年月を経て……愛用された櫛から現れる、精霊のような……存在なのです」
[ふむふむ。本来ならば、大切にされているとは言え、使われていないマシロがいること自体、異質なのか]
「そうですね……ご縁があれば、私もマシロ様と……お話しをてみたいものです」
[イズミの感想は要らにゃい。マシロのご主人が櫛を使う様になるには、どうしたらいい?]
「ふむ……そう、ですね……」
イズミが口元に前足の指をあてて考えていると、カズトシが餌皿と黒いお盆を持ってやって来た。
「ほらミスタ。朝飯と猫汁」
[ご苦労。カズトシの飯はいつも丁度良く暖かくて好きだ]
「ほら、旦那はちゃぶ台出せ。飯にすっぞ」
「ええ……いつもありがとう、ございます……」
おれはニンゲンたちのやり取りなんか目もくれずに、喉をゴロゴロさせながら朝飯を完食する。
前足で簡単に顔を洗って、お日様が昇る頃合いに店内の方へ移動した。だって、イズミが考えている間、ずっとヤツの隣にいるのはつまらにゃい。
『帳場』と呼ばれる台の上でひとつ伸びをすると、イズミが声をかけてくれるまで目を閉じた。店に来た客がおれを可愛いだのなんだのと言って写真を撮っていたが、そんなのも気にしにゃい。だっておれ、猫だから。
◆
その日の夜。おれはカズトシの晩飯をたいらげて、不機嫌な顔を丸出しにしながら神社に向かった。神社の中は今夜も沢山の櫛猫で賑わっている。くんくんと鼻を動かして、レディが来ていないことを確認すると、先に来ていたマシロたちの元へ向かった。
先におれに気付いたのはシマ。次いでハチワレとマシロが同時に振り向いて、尻尾を振りながら歓迎してくれる。
[ミスタさん。昨日の約束より10分遅れています。集合時間は守ってください]
シマだけは、綺麗な肉球で床を叩いてプンスコしている。本当にニンゲンみたいな猫だ。
[シマ。猫に時間は関係にゃい。移動したい時に歩いて、寝たい時に眠る]
[櫛猫の夜会は一時間だけなんですから、有効に使わないと……]
[まあまあまあ、シマもやんや言いなさるなって、今日はおじょうちゃんが主役なんだろ? 先に話し合おうぜ]
ハチワレがやんわり間に入って、ごろんとお腹を見せてくる。シマはまだ何か言いたげだったが、ゴロゴロと喉を鳴らすハチワレに免じて、仕方なく口を閉じた。こういう時、ハチワレが仲間で良かったと思う。面倒だからわざわざ伝えたりはしにゃいけど。
マシロのご主人は、ニンゲンの言葉を選ぶと『キャリアウーマン』ってヤツで、眼鏡や腕に巻き付ける『時計』ってヤツの他に、様々な絵柄や彫刻、材質の櫛を集めるのが好きらしい。マシロの梨櫛の他にも、たくさんの櫛がガラスの箱で飾り、仕事から帰宅すると櫛や時計を見ては口角を上げているようだ。朝はエナジードリンクとサプリメント、夜はコンビニのおつまみとビールの毎日を送り、体に溜まった穢れは日に日に濃く大きくなってきていると言う。
[どうすれば、ご主人様の穢れが払えるのかしら……このままでは、穢れに飲み込まれてしまうわ]
怯えるマシロを毛づくろいしながら、ハチワレが手始めに提案してくる。
[ここはやっぱり、安定の盛り塩じゃねえか? 手っ取り早く手に入るし、ミスタが居れば玄関の外くらいには設置できるぞ]
[おれを使うにゃ。住処の前に塩なんかあったら、ニンゲンは警戒するぞ]
[それに……確かに、盛り塩は邪気払いの効果があるとされていますが……玄関だと出入りが激しいから、塩を蹴られてしまう可能性がありませんか?]
[じゃあ、シマは何か良い案でもあんのかにゃ?]
[ボクは、やはり悪霊払いのお札が良いかと……ボクのご主人様が、年に一回、わざわざ伊勢神宮まで行って、お札を買ってくるのです]
[……元気な75歳だな]
[でっしょぉ~!]
自慢気なシマとは対照的に、おれとハチワレが眉をひそめる。
[でも、神宮へ行くにはとても時間がかかりますわ。それに、わたくしたちが行っても、お札はくださるのかしら?]
[それは、ボクも行った経験が無いので、なんとも……]
[うにゃぁ~……じゃあ、こう言うのはどうだ……?]
その後も二つ三つ提案があったが、どれも試してみるにはリスクが高いと却下されていった。出来れば他の猫の案に便乗したかったが、仕方にゃい。
[マシロ。おれからも一つ、案があるんだ]
おれは『にゃんと驚きユートピア』と言った除霊方法について説明するハチワレを前足でぶにっと横に押しやって、マシロに声をかけた。
[『解通易堂』のイズミが、マシロに会いたがっていた。ニンゲンだが、おれたちの言葉を理解する出来るヤツだ]
[ととやすどう……?]
[櫛屋の店主だ。だが、あいつと話した後のニンゲンは皆、憑き物が消えたような匂いになる。マシロのことを話した時、結局おれには教えてくれにゃかったから、直接会いに行った方がいい]
[解通易堂は、櫛猫の間でも有名な櫛屋さんですよ。場所も近いですし、今から行くことも可能です]
おれの提案に、シマが後押しをしてくれた。ハチワレもイズミとは顔なじみだから、尻尾を大きく振って賛同する。
[……わかりました。会いに行きますわ]
マシロが意を決して頷くと、櫛猫夜会からこっそり離れて、四猫で解通易堂へ向かうことにした。
◆
深夜の解通易堂の前でにゃあにゃあ鳴いていると、閉店しているはずの店内がぽうっと灯され、木の札がかけられた扉がゆっくりと開く。
「いらっしゃいませ。ようこそ……解通易堂へ」
[やっぱり、待っていたか]
「はい……ミスタなら、きっと……マシロ様をご紹介してくださると、思いましたので」
店内に入ると、マシロたちは櫛の香りでゴロゴロと喉を鳴らし、店の商品に興味津々だった。櫛猫たちは、櫛に触ったところで毛や匂いがくっ付いたりしないから、羨まし、じゃにゃくて、自由なもんだ。
そのまま店内をうろつくシマやミスタを横目に、おれはマシロをイズミに紹介した。マシロから事の経緯と今のご主人の話を聞いたイズミは、少し考える素振りをした後、何やら怪しげな、鍵付きの引き出しからお札を二枚取り出した。
「こちらは……マシロ様が櫛にお戻りになる際、ご主人様が今……使っている鞄の中に、入れてください」
[なぜですの?]
「こちらのお札には……櫛猫様とご主人様を繋ぐ力が、宿っております……もう一枚は、マシロ様が肌身離さずお持ちください。万が一、ご主人様がお戻りになられない時……このお札がお二方を、導いてくれます。本当に『万が一』の場合は……どのような手を使っても、ここに連れてくるのですよ……」
[わ、分かりましたわ! ありがとうございます、イズミさん]
マシロはお礼を言ってお札を二枚口に咥えると、早速姿を消してしまった。余程、ご主人のことが気になるのだろう。
店内を散策していたハチワレとシマが、今度はイズミに興味を持ってやってきた。
[なんだ? もう終わったのかにゃ]
[ミスタ。マシロが終わったのなら、ボクも紹介してください。ボクのご主人様がこちらを訪ねてきた時に、彼女に不便が無いようにしたいんです!]
[……うにゃあ。面倒くさい……]
おれは大きなあくびを一つして、店の奥に逃げようとした。
「私は……構いませんよ? 貴重なご機会なので、櫛猫様のお話を、お聞かせ願えますか?」
「う~~~~~~ぶなぅあ~~~~~~‼」
おれは嫌だったが、その後もヤツらに付き合わされる羽目になった。失敗した。マシロだけ連れてくれば良かった。
◆
お日様が何度か空を行き来して、その日は突然やってきた。
今日の晩飯をどこで食べようと鉄の森をうろついていると、路上でふと櫛猫の匂いが鼻をくすぐった。
[……? これは、ハチワレか?]
舌でペロッと鼻を濡らして、くむくむと空を嗅ぐ。匂いの道筋を辿っていくと、路地裏に小さな公園を発見した。
[ここは確か、一個前の櫛猫夜会場所だ……ハチワレがなんでここに?]
疑問の答えは、直ぐに見えてきた。おれが大嫌いな『嫌なモノ』の塊が、公園のベンチにドロドロの塊になっている。その足元に、心配そうなハチワレがいた。
[ハチワレ! なにをしている!? 離れろ‼]
[おお、ミスタじゃねぇか! 良い所にきたぜぃ!]
全然良い所じゃにゃい。そう言い返そうとしたおれは『嫌なモノ』から僅かに見える足に気付く。
[……っ! 状況は、どうなっているんだ!?]
[やあやあ、これがオレも何がなんにゃら……ふらっとこの公園の野良猫と井戸端会議でもしようと寄り道をしたら、このねーちゃんが大量の穢れを背負ってフラフラしててよぉ]
[ハチワレには、コレがメスのニンゲンだって分かるのか?]
[オレが見た時は、まだ顔が見えたんだ。噛み応えがありそうな形の眼鏡をかけて、硬そうな時計をしていたんだぜぃ]
[眼鏡に時計……!? ハチワレ、鞄は!? 鞄は見えるか?]
[鞄は、ここにあるじゃにゃいか]
ハチワレが穢れの中に頭を突っ込んで、小さな鞄を引っ張り出した。ポンと砂利に跳ねた拍子に、中身が四方に飛び散る。おれは容赦なく鞄に首を突っ込むと、香水と食べ物の残りと煙草を混ぜたような臭いの中から、僅かな『イズミ』の匂いを探る。
[あ……あった! やっぱり、このニンゲンはマシロのご主人だ]
[そうか、お札か‼]
おれが引っ張り出したお札にハチワレが近づくと、お札から何故かマシロの香りが広がった。櫛猫とご主人を繋げていると言ったイズミの言葉は、どうやら信じても良いらしい。
[! ハチワレ、この札を使って、マシロを呼んできてくれ‼]
[お、おう!]
ハチワレがお札を持って走り去り、おれは再び穢れの塊と対峙する。ドロドロにしか見えないその奥で、確かに女性が泣きながらブツブツと鳴いている。
「……もう、やめたい……仕事も、生きるのも……何もかも嫌だ……」
耳を澄まして聞いてみても、マシロのご主人が何を言っているのか分からない。生きるのが嫌だってなんだ。全く、ニンゲンの考えていることは分からにゃい。おれは足元でにゃあにゃあ鳴きながら、なんとか気付いてもらおうと試みた。
「にゃ~ん。フロロロロロ……ぶなぁ~お」
「なんで……どうして私ばっかりこんな……もうヤダ。死にたい……もう消えてなくなりたい……」
にゃぜだ。ここまでおれが近くにいるのに、何故気付かにゃい。イズミが好きな肉球でニンゲンの足をふみふみしても、無反応だ。
程なくして、ハチワレとマシロがやってきた。マシロはお札を体に貼り付けて、ご主人の前までやって来る。
[ご主人様! ご主人様、大丈夫?]
「……え? 猫ちゃん?」
おれがあれだけにゃあにゃあ鳴いていたのに気づかないで、普通のニンゲンには見えないはずのマシロを真っ直ぐに見ているのが分かる。
「猫ちゃん? どうしたの……もしかして、私を慰めてくれているの?」
穢れの中から、大粒の涙がボタボタと落ちてきた。マシロは勇ましく穢れを噛み千切りながら、必死でご主人に訴えかける。
[ご主人様! わたくし、助けに参りましたの。ご主人様、穢れで動けなくなっていらっしゃるのよ!]
「なんで猫ちゃんの言葉が分かるんだろう……いよいよ壊れちゃったかな、私……」
[違いますわ! これはイズミさんのお札の力で……ええっと……今はそんなことより、ご主人様の方が大事ですわ‼]
奇怪な現象を目の当たりにしても、マシロのご主人は大して驚くこともせず、虚無に満ちた瞳でおれたちを見つめている。
[ご主人様。今はとにかく歩いて! このままだと、穢れに食べられてしまうわ!]
「ご主人様? 私、猫飼ったことないけど……」
[その話は後ですわ! とにかく、わたくしと一緒に来てくださいまし!]
怪猫夜会では、ひ弱そうな若いメス猫だと思っていたマシロが、今は穢れに怖がっているおれよりも強いオス猫みたいだ。ハチワレも果敢に穢れを食いちぎっている。櫛猫は、おれたち野良猫と違って、好きにニンゲンを選ぶことも出来ないし、好きな時に好きな場所へ行くことも出来ない。だからこそ、買ってくれたご主人を、櫛を大切にしてくれるニンゲンと言う存在を、ここまで懸命に助けようとすることが出来るのかもしれない。
[……っ!]
おれはぐっと身体に力を加えると、風を追いかけて解通易堂へ走り出した。逃げたわけじゃにゃい。この時間なら、絶対に助けてくれるニンゲンが来ていると、確信していた。
解通易堂へ向かうと、あの四角い箱が停まっていた。カズトシが乗っている『トラック』とか言うヤツ。
おれは住処の前でにゃあにゃあ鳴く。初めて住処を引っ搔いて、穴を掘ったりして、とにかくニンゲンに届く様に、にゃあにゃあと鳴き続けた。
「おう? なんだ、ミスタじゃねえか」
住処から出てきたカズトシが、いつものように頭に触ろうとしてくる。おれはその手を引っ掻いて、とにかく喉が痛くなるまで鳴き続ける。
「どうしたミスタ? どこか怪我でもしたか?」
「にゃぁご! ぶなぁ~お‼」
「なんだ? 飯が遅いから不機嫌なのか?」
「ぶにゃぁ~~~グシャァーーーーー‼」
おれは、ありとあらゆる汚い言葉でカズトシを怒らせようとしたが、圧倒的言語の壁によって、この作戦も失敗する。いっそ、犬の様にカズトシの足を引っ張ろうかと牙を向けたその時、店の向こうから透き通るイズミの声が届いた。
「和寿……ミスタの後を、着いて行ってあげてください。今直ぐに」
イズミの声は、時々耳を伏せたくなる程怖い。声にはじかれたみたいに外へ出てきたカズトシを連れて、今度は風に身体をぶつけながら走る。途中でカズトシを置き去りにするくらい、焦っていた。
ようやく公園にいるマシロのご主人を、カズトシが見付けてくれた。穢れをものともせずにご主人の前に立つと、おれに目配せしてくる。
「……ミスタ、この人を運べば良いんだな?」
「にゃあご!」
おれが[応!]と答えると、意思が通じたのか、カズトシは大きな手でマシロのご主人を叩いて声をかけ、救い上げる様におぶって解通易堂へ向かってくれた。おれとシマ、マシロがカズトシの後を着いて走る。カズトシには、二猫が見えているのだろうか?
解通易堂の店内へ入ると、イズミが温かい飲み物を用意して迎えてくれた。
「いらっしゃいませ……ようこそ、御出でくださいました……」
「あの……ここって……」
「ここは解通易堂……私は、そう……泉と、お呼びください……」
ニンゲンたちが話している間、ハチワレは櫛の匂いに喉を鳴らし、マシロはご主人の足元でずっと彼女を気にしている。おれは奥で様子を伺う和寿の隣で、尻尾を揺らしながら、時々、引っ掻いた痕を申し訳程度に舐めている。
「おう。そんなしょぼくれんな。オレァ平気だ」
カズトシは表情を変えずに、大きな手でおれの頭をポンと撫でた。思わず喉が鳴りそうになる。
イズミは落ち着いた女性に無地の木の板を差し出して、こんなことを話していた。
「お客様が……以前お求めになった櫛は、こちらの梨の木から作られ、丁度……足元にいる真っ白な猫が焦がしつけられた、梨櫛と言う物でございませんか? 櫛と言うのは……『苦しい』という音と『死にたい』という音が重なり……古くから不吉な物として、敢えて櫛を選ばない方も……少なからず、いらっしゃいます……」
ニンゲンの声は不思議だ。遠くからでも良く聞こえると思えば、喧騒にまみれて誰が何を言っているか分からなくなる。イズミの声は更に特殊だ。ゆっくり喋っているようで、全部の声が耳に入ってくるまで、そう長く感じにゃい。
「ですが……この梨の木から作られた櫛は、持ち主の苦しみや死にたい気持ちを……梳き落として無かったことにしてくれます。梨櫛だけに、『苦』と『死』を『無し』に。ふふ……駄洒落が効いていますでしょう?」
イズミが口角を上げると、不思議とマシロのご主人も口角を上げた。ニンゲンはこれを『笑顔』と言う。笑顔は穢れをたちまちに消し去って、初めてご主人の顔が見えた。イズミはふっと体の力を抜いて、マシロとご主人を交互に見比べる。ずっと心配そうな顔をしていたマシロも、ようやく逆立っていた毛をふわりとなで下ろした。
「お客様は……きっと、取り分け感受性が豊かで……頑張りすぎてしまうのでは、ありませんか……?」
イズミが再び口角を上げると、マシロのご主人は再び大粒の涙を溢した。ゆっくりと話すイズミの手が、自然と櫛に伸びる。オレは思わず、ジッとその動きを追ってしまったせいで、ニンゲン達がどんな表情をしていたのか分からなくなる。
イズミは櫛に描かれた飼猫をご主人に見せながら、最後にこう言っていた。
「そんな時は……是非一度、お手持ちの櫛を使って……日々の疲れや悲しみを、梳き落としてみてください」
マシロのご主人は、まるで猫みたいに唸りながら、涙で濡れたマシロの身体を何度も何度も撫でていた。後でイズミから聞いた話だが、実は、梨猫櫛は代々櫛猫を現界しやすい櫛らしく、夜会にいる化け猫集団の様に、一つの櫛からゾロゾロと出てくることもあれば、マシロの様に、梨櫛の力だけで限界する櫛猫もいるらしい。おれには難しいことは分からにゃい。だって猫だし。
[わたくし、分かりましたわ。ご主人様に櫛を使ってもらいたくて、見つけて欲しくて櫛から抜け出してきましたのよ! どうか、ガラスに閉じ込めないでくださいまし]
「そうだったの……毎日櫛を眺めていたのに、気付いてあげられなくてごめんね」
[謝らないで、ご主人様。代わりに、毎日櫛で髪を梳かして欲しいの。アナタの穢れを、わたくしや他の櫛が毎日落としてあげるわ]
マシロはそう言って、自分の体に付いたお札を剥がした。おれたちの目の前でマシロが消え、解通易堂での出来事が夢物語のようになる。
マシロのご主人は何度もイズミに頭を下げて、憑き物が落ちたような表情で帰って行った。帰り際にはらりと落ちたお札が真っ二つに裂けて灰になる。おれは酷い眩暈と眠気に襲われて、いつの間にか眠ってしまっていた。
◆
あれから何度も丑三つ時が繰り返された。
櫛猫たちは今日も集まって、にゃあにゃあと自慢大会をしている。無人の神社は昼間とは真逆の賑わいを見せているが、流石に騒ぎ過ぎじゃにゃいだろうか。
[はぁ……今日、ご主人様が自ら可愛らしい御手でボクを手入れしてくださったんです! 見てくださいこの毛艶!]
[いいにゃぁ~!]
[オレのご主人は、なんとパーマに挑戦したんだ! こりゃあ梳かし甲斐があるぜ!]
どんちゃん騒ぎの中には、マシロと、マシロと同じご主人によって飾られていた櫛猫の軍団もいる。
[わたくしたちのご主人様だって、とっても綺麗な髪なんだから!]
にゃあにゃあ、にゃあにゃあと神社に響き渡る鳴き声はどれも楽しそうで、おれは今晩も集団の端っこで、尻尾を振って聞いている。今日は少しだけ、今のおれが往生したら、櫛猫になってみるのも楽しいかも知れないと、喉を鳴らしながら考えたりしていた。
◆
――さて……。今、貴方が持っている櫛の焦がし猫は、丑三つ時に抜け出してはいませんか? 沢山焦がしつけられていたら、一匹足りない……なんてことも、あるかも知れません。
もしかしたら、夜な夜なこの神社に集まっている猫たちの中に、貴方の櫛猫も紛れ込んで、ご主人様の自慢話に華を咲かせているかも、しれませんよ…?――
【完】