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『泉御櫛怪奇譚』第四話

第四話 外伝『約束の櫛 恋の行方』

原案:解通易堂
著:紫煙


 夏休みが残り僅かとなった、17歳の誕生日の日。柚子の曾祖母が静かに息を引き取った。喪中に手渡された白い封筒から、一度しか会ったことのない曾祖母からの手紙と、誰も知らない名前が焼き刻まれた櫛が入っていた。
(もしかして、これ……おばあちゃんの事を好きだった本郷さんが、何かのきっかけで渡した物なんじゃないの⁉)
 櫛の本当の持ち主に興味を持った柚子は、櫛から読み取れる『本郷 秀一』という名前だけを頼りに、櫛を返す旅を始めた。
 櫛の持ち主の正体とは……柚子の曾祖母『樺澤 とみ』との関係とは……?

――貴方には『恋』の経験がありますか? 『その人』のことを考えるだけで、ドキドキしたり、ソワソワしたり……悩んだり、傷ついたり……。その恋が花開くことなくしぼんでしまった経験がある方も、いらっしゃるかもしれません。うら若き乙女や少年だったら、将来の夢を『約束』する……なんてことも、あるかも知れませんね。
これは、ほんの一昔前の、ある実らなかった『初恋』の物語です――


 秀子がトミと出会ったのは、彼女が七歳の頃。七五三で好きでもない華やかな振袖を着せられて、神社に参拝した時だった。
「おっとう! なんでアタシが見繕ったヤツじゃダメなんだい⁉」
「お父さんと呼びなさい、秀子。それに、お前が選んだのは袴じゃないか。七五三の袴は男が着るものだ」
「何を着たって良いじゃないか! おっとうは頭が固い!」
 ぎゃあぎゃあと愚痴をこぼす秀子に、父親は頑として繋いだ手を離さない。その様子を一歩後ろから見ていた母親が、人目もはばからず笑い声をあげる。
「あっはっは! 頑固なのはおとっつぁん譲りだねぇ。強がりなのはおっかさん譲り。秀子は確かに、ウチの娘だよ!」
「そもそも、おっかあが呉服屋で『何着ても良いから好きなの選びな』って言ったんじゃないか! おっかあだって怒られるべ……き……」
 キッと睨みつけて振り返った秀子は、思わず口と足が止まった。母親が原因ではない。視線はその奥の、先程秀子たちが通った鳥居の方に向けられていた。
「ん? どうした、秀子?」
「後ろになんかあったのかい?」
 石の様に固まってしまった秀子につられて両親が振り返ると、そこには可憐な少女が、彼女の両親に両手を繋がれて参拝に来た光景だった。
 薄紅や桜色、空色の振袖が多い中、少女が来ていた振袖は夜明けの様な濃紺と薄黄色のグラデーションに、満開の花が咲き誇る柄の振袖だった。ありきたりの朱色に菊と桜の振袖を着ている秀子よりずっと大人びていて、いきなり自分が恥ずかしくなって頬が染まる。目が離せなかったのはそれだけではない。おかっぱの髪は神社に降り注ぐ光で茶色に反射し、大振りな黄色の菊の髪飾りだけがより映える位置で揺れていた。同い年ならまだしも、体つきはどうみても二回り程小さくて、転びそうになる度に両親に持ち上げられている。
「おお、樺澤呉服屋の旦那さんじゃないか。秀子の振袖を見繕ってくれた」
「じゃあ、あの子がトミちゃん? 初めて見たけど、ビックリするほど可愛い娘さんじゃないの」
 両親は親の方と面識があるようだが、秀子の視線は最初から娘のトミに釘付けにされていた。当時五歳だったトミは、呉服屋の父が仕立てた振袖に着飾られて、すれ違う全ての人を笑顔にする可愛らしさがあった。
「――っ!」
 とくん。と、鼓動が早くなるのを感じた秀子は、思わず父親に握られていた手に自ら力を込めた。
 呉服屋の方も、秀子たち親子に気付いたのか、朗らかな笑顔で近づいてきた。トミは自分よりも大きい秀子たちに怯えたのか、向かい合うと直ぐに父親の後ろに隠れてしまう。
「あっ……」
 話しかけようと思っていた秀子も、髪飾りしか見えない相手に挨拶をする勇気はない。父親は娘たちの気まずさなどまるで気付かずに、当たり前の様に握手を交わしている。
「これは本郷様。本日はお日柄もよろしく……」
「樺澤様こそ……いや、本日は、堅苦しいのはよしましょう。今はお互い、一人娘の父親なんですから」
「そうですね。では、うちの娘を紹介させてください。人見知りで恥ずかしがり屋なのですが……ほら、トミ。お父さんのお友達に、ご挨拶しなさい」
「んむ……うぅ……」
 トミは耳まで赤くなった顔のまま、彼女の父親に無理矢理前に出される。近くで見ると、その装いは一層可憐で美しく、まだ七歳だった秀子ですら、その魅了に当てられて赤面してしまう程であった。
「は……はじめまして。からさわトミです。ごさいです」
「あ、アタシ秀子。よろしく……」
 秀子は、その日交わした会話にもならない拙い挨拶を、老人になった今でも鮮明に思い出せるという。


 銀行家の本郷家と呉服屋の樺澤家は、はす向かいの位置に門を構えていた。そこで育った秀子とトミは、当たり前のように仲良くなっていった。
 十歳になった秀子は、母親に似た癖のある黒髪を毎日頭の上の方でまとめて結っていた。現代で言う所のポニーテールである。本当は首が見える位置まで短くしたいのだが、頑固な父親に猛反対されて仕方なく伸ばしている。
 しかし、おかっぱ頭のトミはポニーテール姿の秀子に憧れて、ある日彼女に目を輝かせて伝えてきた。
「秀子さん、私、秀子さんと同じ、ひとまとめに結べるように髪を伸ばすわ。だから、今度結わえ方を教えてくださいな」
「そうかい? アタシは、アンタくらい髪が短い方が好きなんだけどね」
 秀子は体の中で早鐘を打つ心臓に気付かないふりをして、トミのサラサラで柔らかい髪をそっと一束掬った。
「でも、まあ……アンタがお揃いになってくれるなら、アタシも髪を伸ばし続けられるよ」
「ホント⁉ じゃあ、お父様とお母様にも伝えないと。月に一回予約してある美容院を、髪切りじゃなくて整えるだけに変更してもらうの」
 出会った頃と変わらないどころか、成長するにつれてどんどん美しさを増していくトミが眩しい。
 しかし、秀子だけが知っているトミの弱点は、どんなに練習しても真ん中に結べない不器用な一面だった。
「どうしてかしら……どうしても右にずれちゃうの。ポニーテールって見た目よりも難しいのね」
「利き手に頼りすぎているのさ。アタシより器用に見えて、アンタは折り紙だって先がしわくちゃになっちゃうんだから、不器用だねえ」
「うぅ……」
 頬を赤らめてしょんぼりするトミを見て、秀子の鼓動がまた少し早くなる。あくまで自然に思いついた態を装って、薄い唇を開いた。
「ん~……じゃあさ……」
 それから、秀子は毎朝、彼女の髪を結いに、早起きをするようになった。
 細やかな幸せの時は流れる。成長するにつれ、二人の生活環境もゆっくりと変わって行く。秀子が十三歳の時に弟の秀男が産まれ、トミは稽古や習い事で平日を過ごすようになった。家族間での交流も円満だったが、秀子の父親は、影で人生最大の選択を迫られていることに、誰も気づくことが出来なかった。


 秀子が十八歳、トミが十六歳を迎える年、休日に二人で街一番の本屋に向かっていた。書道の段を獲得したトミへの、秀子なりの祝い方だった。
「ほ、ホントに良いんですの? なんでも好きな物を選んで良いって……」
「ああ、なんでも好きな物を選ぶと良いさ。トミの父様や母様にゃあ言えないヤツだって良い。そう言ったから、アンタは『教師になる為の本が欲しい』って言ったんだろう?」
「そうだけど……ふふ、どうしましょう。見付かったら怒られるかしら。困るわ……」
 言葉とは裏腹に、トミの顔は嬉しそうに照れている。街を歩く二人は方向性の違う美少女に成長しており、すれ違う数多の視線を集める。色目を使う男達を睨みつける秀子に対して、視線に気づかないトミは何を買おうか想いを馳せている。
「でも……秀子さんがお友達で本当に良かったわ! 私は一人っ子だから、お姉様と一緒にお買い物。みたいな追体験が出来て、とっても楽しいんですもの!」
 目を輝かせて見上げてきたトミに、秀子の頬が桜色に染まる。
「……そんじゃ、いっそ、うちの子になるかい?」
「あら、お上手ですこと。でも私、秀男君のお嫁さんにはなれないわ」
「ははは。あんな、鼻ったれのちんちくりんにゃ勿体無い。アンタはアタシがもらうのさ」
「ふふふ。本当に面白い方なんだから」
 ころころと笑うトミに、秀子は曇った笑顔を向けた。
「……アタシの両親はさ、お互いが大好きになってから結婚して、アタシを産んだんだって」
「そうなの!? 知らなかったわ……私のお家は、代々お見合い結婚だから」
「ウチもそうさ。お見合いで出会った。でも、その前におとっつあんがおっかさんの事を知っていたんだ。一目惚れだったんだって……だから、時間をかけておっかさんを口説いて、お互いが大好きになってから、式を挙げたんだ」
「恋愛小説みたいね。素敵だわ! 私は、どんな恋をするのかしら……」
 長年の付き合いである両親が夢物語の様な人生を送っていた事に、トミはうっとりと頬を緩ませる。
「秀子さんは、恋をしたことがあるのかしら?」
「アタシ? ん~……初恋は、あるね」
「ホント!? どこの殿方ですか? 私もお会いしたことあるかしら」
「あ~、やめやめ! それよりほら、あそこにカッフェがあるよ。さあ行こう」
 二人は途中で甘味屋に寄ったり、文具屋で新しい書道用具を買い足したりしながら、まるで街歩きそのものを楽しんだ。洋服店に入った時は二人とも目を輝かせ、特に秀子の方が夢中になって衣装合わせをする。
「これが洋服かい? ドレスもある! 可愛いし着やすい。素敵‼」
「ホント。秀子さん、とっても似合うわ!」
 トミは両手を叩いて洋服姿を褒めると、秀子は悩んだ末に一着だけ気に入った洋服を買った。
 華やかな紙袋を片手に秀子が鼻歌を歌いながら歩く。その一歩後を楽しそうに歩いていたトミが、ふと足を止めて一件のお店に目を奪われた。
「ん? トミ、どうしたんだい?」
 気付いた秀子が彼女の視線の先を辿ると、そこは女性向けの小物を対象とした雑貨屋だった。店の前に並べられた可愛らしい髪飾りや簪、開かれた店の奥には、最近流行り始めた耳隠しやヘアピンがちらりと見える。
「……入ってみるかい?」
「いえ、教本を買った帰りで良いわ」
「何か、買いたいものがあるんだろう?」
「いえ、その……」
 トミは少し恥ずかしそうに自分の結った髪を触ると、秀子の方を振り返った。
「私も、秀子さんみたいな櫛が欲しいのだけど……今は名前を彫っていただけないのよね」
 毎朝、秀子がトミの髪をまとめる時に使っている櫛には『本郷 秀子』と名前が焼き刻まれている。なんでも、彼女が産まれたその日に、父親が祝いにとあつらえた物らしい。秀子も、物心がつく前から持っている為、特別気にしていなかったが、櫛に名前を彫る職人はこの辺りにはいない為、この櫛を見た他人から度々珍しがられる。トミもその一人だったらしく、なんでも真似したがる彼女が似た櫛を欲しがるのも、なんとなく秀子には伝わってきた。
「……大人になったら、もっと良い櫛を探して、自分で彫師に頼めばいい」
「そう……そうね。でも、帰りに中だけでも見ていきましょう」
 先に歩き始めたトミの背中を見ながら、秀子は、次の彼女の誕生日に名前入りの櫛を見繕おうかと思案した。


 当時、女性が働ける職業は限られていた。バスガール、電話交換手、タイピスト等。トミが目指した教育家、所謂『教師』もその中の一つだが、現代よりも遥かに就くのが難しいと言われていた。
 秀子はトミと買い物をしたその日の夜。自分の将来について考えながら帰路に着いていた。
(私は……私は、トミの近くで一緒に居られたら良いな。働くのは何でも良い……トミが本当に好きな人に、アタシより……愛してくれる人に出会って、それで、トミの子どもを親戚のおばちゃんみたいな態度で見守るんだ……これ以上、幸せな立ち位置はない)
 洋服を買った紙袋が軽い。帰り際に立ち寄った雑貨屋で買った簪を身に着けたトミに会いたい。秀子は切なくも希望のある未来に頬を緩ませて、自宅の玄関を開けた。
「ただいまあ。おっかさん、見てよこれ!」
 洋服を母親に見せようと呼ぶと、出迎えてくれたのは弟の秀男だった。
「おねぇ。おっとうと、おっかあがすわってる」
「? なんで? 誰か来たのかい?」
「しらない。おっとうの、しってるひと」
 秀男の頭を撫でて、一度自室で出かけた荷物を放り込むと、居間で暗い表情をしている両親の元に向かう。居間の机には三人分の湯飲みが置かれており、客人が来ていたのは一目瞭然だ。いつも堅苦しく冷静な父親が考え込むのはいつもの事だが、快活としていて明るい母親までもが泣きそうな顔で俯いているのを見て、秀子の胸がざわついた。
「おっと……お父さん、お母さん、何があったんだい?」
 秀子は平静を装って、空の湯飲みが置いてある両親の向かいに座る。両親は暫く沈黙していたが、時間を持て余した秀男が母親の膝に乗った瞬間、大粒の涙が秀男の頭に滴り落ちた。
「おっかあ! どうしたんだい? おっかあ‼」
 慌てて机越しに母親の肩を撫でる秀子に、父親がようやく重たい口を開いた。
「秀子……父さんの上司が、お前と御嫡子を会わせたいと……写真を持っていらっしゃった」
 その一言が何を意味しているか、秀子が分からないはずもなく。
「……結婚の、話かい?」
「いや、まだそこまで話は進んでいない。見合いをして……お前が気に入ってくれたら……」
 父親の話を聞きながら、秀子はつい先程抱いた理想がどす黒い何かで塗りつぶされていくのを感じた。父親はまだ渋っているようだが、上司がわざわざ休日に部下の家に訪問する理由など、火を見るよりも明らかだった。
「……一緒じゃないか。上司との縁談を断れる程、おっとうもアタシも馬鹿じゃない……」
「……」
 黙ってしまった父親に対して、母親は秀男を抱きしめながら「ごめんね……」と、か細い声で繰り返している。本郷家は代々銀行員の家系だ。母親の家系も金融関係者が多く、お見合いが切っ掛けだったが、秀子の両親は稀に見る恋愛結婚だった。
 見合い結婚は、実際どこの家庭でも行われている『よくある結婚方法』だ。地方の更に田舎の風習だと、本人同士が顔を合わせる前に、親同士で結婚が決まってしまうこともある。
(アタシは……何を思い上がっていたんだ……もう十八のアタシに、縁談が来ないわけがないじゃないかっ……‼)
 下唇を、皮膚が切れそうな程噛み締めて、必死で涙を堪える。震える母親の肩から手を放して立ち上がると、雑に言葉を吐き捨てた。
「……別に良いさ。酒浸りの糞野郎じゃなければ、誰でも……」
「秀子! 汚い言葉を遣うんじゃない、御嫡子に失礼だ!」
「誰であろうと関係ないって言ったんだ! おっとうの上司だろうが部下だろうが、アタシに断る権利なんてない!」
 慌てて声を張り上げる父親に向かって、秀子は感情のままに叫んだ。しかし、一度深呼吸をして、平静を装う。
「ごめん、言い過ぎた……アタシはお見合い行くよ。それで、その人と結婚する」
「良いのか? 父さんはてっきり、お前は誰とも結婚したくないと言うと思っていた」
「そんなこ、とないさ……」
 秀子は諦めた表情で笑うと、母親と秀男の元へ近寄って、静かに抱きしめた。
「おっかあ。大丈夫さ……おっかあみたいに、お見合いが切っ掛けで、アタシも大恋愛するかも知れないし」
「でも、アンタは……」
「っ!?」
 泣きじゃくる母親の表情に初めて身の内側を晒されたような気がして、秀子は咄嗟に体を離した。
(おっかあは、アタシの本心を知っている……!?)
「おっかあ、それ以上は言わないでっ‼」
「秀子!?」
 引き留める母親を無視して、居間から逃げる様にもう一度自分の部屋に戻った秀子は、ふと鏡に目を移す。鏡に映る自分の姿とトミが重なり、反射的にポニーテールを解いた。癖っ毛のせいか縛り跡が付いた髪を両手で搔き毟って元に戻そうとして、袖が触れた拍子に落ちた櫛が目に入る。
――私も、秀子さんみたいな櫛が欲しいのだけど……――
「あ……あぁ……!?」
 トミを思い出して、初めて涙が零れた。声が家族に聞こえないように、嗚咽を飲み込みながら、舌を嚙まないように袖を噛み締めて。悔しいのか悲しいのか、怒りなのかも知らずに泣き続けた。
「ぐっ……うう……うぅ~‼️」
(トミ……アンタが大好きなんだよ……トミ、トミ……アンタが居ない世界で、アタシはどうやって幸せになれるって言うのさ……‼)
 自覚した瞬間から覚悟はしていた。傷付くことに慣れようと、何度もこの日を想像した筈なのに。
「どうして……どうしてアタシは女で産まれてきたんだろう……どうして……」
 唾液と涙で噛み締めている袖が重くなっていく。秀子は一晩中泣きはらした後、台所で手ぬぐいを濡らして、赤く腫れた目を押し付けながら眠りについた。


 翌朝、秀子はおろしたてのワンピースを着て、開店前の美容院の扉を叩いていた。トミがおかっぱの時から馴染みの老夫婦が経営していて、早朝から準備をしているのは分かっていた。
「はあい。あら、秀ちゃんじゃないの。今日は髪結んでいないのね」
「おはようおばちゃん。ちょっと、急なんだけど散髪をお願いしたくて……開店まで待てないんだ」
「そんなに? 予約してくれたら、準備出来たんだけど」
「お願い! 散髪代も払うし、今度おじちゃんとおばちゃんの好きな『ときわ木』の黒饅頭も買うから!」
 秀子が必死に頼み込むと、美容院の店長は快く承諾してくれた。店主の案内で席に着いて、深く息を吐く。
「よし、秀ちゃん、どんな髪形にする?」
「そうだなぁ……ねえおじちゃん。このワンピースに似合う様に、バッサリ切っちゃってくれない?」
「ショートカットにするのかい? モダンガールてぇヤツだね。任せな!」
 店長が使う剃刀の音が響く。視界の端で落ちていく長い髪を見ながら、トミがどんな反応をするか想像する。
(驚くかな……悲しむかな……いや、トミは全部前向きに受け止めて、またアタシの真似をするかな……ふふ、アンタにゃ長い髪がお似合いさ)
「あれ? 楽しそうだね。もしかして、今日でぇとか何かなのかい?」
 秀子を見た店長が、鏡越しに聞いてくる。秀子は「そう?」と鏡に映る彼を見て、今日の天気を話す様に返事をした。
「違うよ。今日は失恋しに行くのさ」
 軽くなった首を時々さすりながら美容院を出て、駆け足でトミの家に向かう。毎朝髪を結う時間通りに玄関の呼び鈴を鳴らすと、出迎えてくれたトミが目を丸くして驚いた。
「きゃあ! どうしたの秀子さん!?」
「いやぁね、ちょっと気が向いたからさ、おじちゃんに頼んで、さっき切ってもらったんだ」
 まだ首に残った髪を気にしながら、秀子はなんてことないと笑う。
 未だに信じられないと驚くトミの部屋で髪を結いながら、秀子は楽しそうに鼻歌を歌う。
トミはその様子を鏡越しに眺めながら、頬を染めたり青ざめたりと機を伺っている。
「なにさ? 百面相なんかして。気が散って上手く結えやしないよ」
「だって……秀子さんのポニーテールが好きで真似をしていたのに……一緒に並んで歩けるのが誇らしかったのに……でも、秀子さんは髪が短い方が似合ってらっしゃって、それで……」
「あはは。何を言ってるのさ。それに、長い髪はアンタの方がよっぽど似合っていたから、アタシはもう良いかなって思っただけ……」
 秀子は自分の手が震えていることに気付いて、櫛の歯が食い込むほど握りしめてみる。声まで震えないように注意しながら、いつもよりも気丈に振る舞った。
「アンタは髪を切る必要が無いから、この櫛を使って、一人でも真ん中で結べるようにするんだよ」
「そんな、まるでもう、髪が結えないみたいな……」
「もう……結えないのさ……」
 秀子は一回口を噤むと、努めて明るく真実を話した。
「結婚するんだ。アタシ……」
「‼️ そんなっ……」
 振り返ったトミと目が合う。途中まで梳かしていた髪がはらりと乱れて、トミの顔が半分見えない。秀子は優しく髪を指で梳いて、トミの泣きそうな顔を真っ直ぐ見つめた。
「ガッカリしなさんな。アンタも直ぐに親から縁談持ち掛けられるんだ。アタシはアンタより少し早かっただけさ」
「ええ……本当は、お祝いするべきなのでしょうが……あまりにも、突然で……」
「そうだねぇ。アタシもビックリしたさ。それで……ここに来るのは今日で最後にするよ。お見合いの準備もしなくちゃいけない、し……」
 秀子が喋る度に、トミの顔色が悪くなっていく。人より大きい目から大粒の涙が零れて、ふるふると体まで震えている。彼女が別れを惜しんでいる事を知って、秀子の胸がすっと軽くなった。
(良かった……離れたくないって気持ちだけは、一緒だったんだ。例え、抱いている感情が違かったとしても……)
「……そんな風に泣きなさんな」
「だって……だって……」
 泣きじゃくるトミを見て、秀子は思わず昨晩の母親にした時と同じく抱きしめた。柔らかい髪が回した手や指に絡まる。昨晩と違うのは、決してトミが壊れない様に、優しく、愛しむように包み込む。
 トミは秀子の背中に手を回し、肩でしゃくりあげながら泣き続けている。
「いいかい。アタシたちは大人になるんだよ。だから、そんな風に泣くんじゃない……」
「うえぇ~! 秀子しゃん……私、悲しくて……ひくっ……もっと、もっと秀子さんとお出かけしたかった……」
「勘違いしなさんな。お見合いまでまだまだ時間はある。準備があるから朝来れなくなるってだけで、休日は普段通り遊びに行けるよ」
(まあ……こんな状態で、また明日。なんて……アタシにはとても出来ないけど)
 トミが泣き止むまで、秀子も泣かないようにと下唇を噛み締めながら天井を睨みつける。
 ようやくお互いの感情が落ち着いて、トミが鏡に向き直ると、秀子は慣れた手つきで彼女の髪を結い終わらせ、今度は鏡の前に移動して、彼女と向かい合った。
「さ、これはもうアタシに必要ないから、アンタにあげるよ」
 自分の名前が彫られた櫛を、トミの手に握らせる。彼女はまだ何か言いたそうだったが、口を開くと涙が零れるため、小さい口が震えない様にするので精いっぱいの様だった。
「じゃあ、また明日。暇が出来たら、また買い物に出かけよう」
 そう言って樺澤の家を出た秀子は、翌日から、早朝の髪結いに訪れるのを本当に止めた。


 数か月後、お見合いを終えて直ぐに婚約を結んだ秀子は、結婚前の準備の為すっかりトミと疎遠になってしまった。
(結局……『また明日』なんて来なかったな……トミ)
 一週間後に結婚式を控え、引っ越し用の荷車と、仰々しい馬車が本郷家の前に停まる。実家で暮らす最後の日に母親の化粧品を借りた秀子は、鏡に映った自分を睨みつけて部屋を出た。
「秀子……アンタ、こんなに早く家を出なくても良いんじゃないかい? お式を挙げる日はまだまだ先なんだし……」
「良いのさ、おっかあ。どうせ向こうの家に行ってからだって忙しないんだし……いつ出て行ったって同じさ」
 未だ渋る母親に笑顔で返して、泣きじゃくる秀男にデコピンをする。秀子は泣きそうになる前にさっさと車に乗ろうとした。刹那。
「秀子さんっ!」
 はす向かいから駆けてきたトミが、秀子と車の間に小柄な体を押し込んできた。少し右にずれたポニーテールがはらりと揺れて、黒髪と、大きなリボンが目に留まる。
「……!」
 少しだけ頬が熱くなる秀子に向かって、トミは少しぎこちない笑顔を作る。
「秀子さん、えっと……ご結婚おめでとうございます!」
「ああ……そう、ありがとう……」
(トミがいる……? 今なら、トミを抱きしめて、このまま馬車ごと奪って逃げられる……)
 素っ気ない返事になってしまった秀子の表情に、トミは少しだけ肩の力が抜けたようで、今度はいつもの笑顔に戻り、両手であの櫛を持って胸の前で絡めた。
「私、わたしっ! 大人になっても、秀子さんとお友達でいたいの!」
 彼女は櫛の形が手に残りそうな程握りしめながら、泣かないように目を大きく開けて秀子を見つめる。その姿に、秀子の表情が今日初めて動いた。
「あのね、秀子さん。私……やっぱり、この櫛はもらえませんわ。秀子さんのお父様が、貴方を思って作らせた櫛なんですもの……自分の櫛を買ったら、この櫛を秀子さんにお返ししたいの。だから、私に……私にも、秀子さんの新しい住所を教えてくださる……ッ?」
 遂に、トミの瞳から大粒の涙が零れた。慌てて涙を拭い、懸命に笑顔を作ろうと百面相するトミに、秀子もつられて涙が溢れた。
(ああ……どこまで健気な娘なんだろう……アタシは誰にも引っ越し先を教えたりしていないのに、まるで自分の他にもアタシを慕う人がたくさんいるような言い回しをしてくる……芯が強くて一生懸命で……やっぱり、アタシはまだトミが好きなんだ)
「ん……しょうがないな。じゃあ、本当にトミがもうこの櫛を必要としなくなったら、返しにおいで」
 秀子は馬車の使いからペンを借りると、握りしめられたトミの手を優しく掴んで開かせた。櫛の形に赤くなった掌をゆっくり揉み解して、その掌に住所を書き込む。ペンが擦れない様にふぅと息をかけると、トミが擽ったそうに笑った。
「これで良し。いいね、櫛を返す以外の目的で会いに行こうとか、思うんじゃないよ。」
「ええ……ええ! それまでお手紙も必ず書くわ。私にとって、秀子さんはお姉様と同じなんですもの……このまま話せなくなるなんて、やっぱり悲しすぎるわ」
「……」
 秀子は表情を崩さないまま、一度だけ歪んだ結び目を真ん中に戻して馬車に乗った。住所を書いた方の手を振るトミを見ることなく、ハンカチに顔を埋める。真っ白な布に、マスカラの黒が滲んでいく。
「うっぐ……ううぅ……」
(さよならトミ……アタシは、会う度にアンタを好きになってしまう……だから、もう……)
 耳にかけていた短い黒髪がさらりと垂れて、秀子の表情が見えなくなった。


 秀子がトミに再開することは、その後の生涯で一度もなかった。
 時は流れ、季節は巡る。辛く苦しい時代も乗り越えて、秀子は齢九十を迎えた。現在は介護施設の個室で車椅子に乗りながら、ゆったりと外を眺めている。早朝の太陽が僅かに差し込んでいるだけの空間だが、いつもより鼓動がゆったりとしていて気持ちが良い。秀子は、施設のスタッフが来る前のこの時間が好きだった。
 目を閉じると、昨日の事の様にあの夜明け色の振り袖姿が脳裏に浮かんでくる。
(今日も良い天気じゃないか。穏やかで、直ぐに眠くなりそうだよ)
窓の外は中庭が広がっており、様々な花がゆっくりと花開こうとしている。
 穏やかな顔をした秀子は、しわくちゃの手で一通の封筒を取り出した。それは少し前に送られてきた、トミからの手紙だった。実家から一通だけ持ってきたそれを、ゆっくりと開く。薄暗くて文字など読める状態ではないが、内容は既に暗記するくらい覚えている。

『中村 秀子様
拝啓――
私もすっかりおばあちゃんになりました。髪も白くなり、昔の面影はもう残っていないけれど、どうか、約束を果たすために一度会ってはいただけないかしら? あの時の私にそっくりの曾孫のことも、是非顔を合わせてお話ししたいの。お足元が悪かったら、私からお伺いするわ。
秀子さんの櫛を持って、お返事待っています。
――敬具 樺澤 とみ』
 秀子は指輪の付いた左手で膝を撫でながら、何度も読み返してくたびれてしまった手紙にそっと口づけをして、ゆっくりと目を閉じる。
(そう……もうあの櫛は必要なくなったの……でもごめんね。アタシ、まだ自信が無いんだ。アンタ以外の誰と逢っても、心が泣きそうな程の気持ちは沸かない人生だったんだ……)
深く呼吸を繰り返していくうちに、微睡が思考を溶かしていく。
(ああ……今日は本当に眠い日だねぇ……次に、起きたら……紙と、ペンを……手紙を……)
 秀子の片腕がだらりと垂れ落ちる。力の入らないもう片方の手の中で、手紙だけが暖かな陽の光を浴びていた。


 『本郷 秀一』の正体が『本郷 秀子』だと突き止めた柚子は、解通易堂の力を借りて彼女の遺品がある中村家に訪問していた。とみから秀子に宛てた手紙を丁寧に見ていた柚子は、秀子の宛名が書かれていない無地の封筒を見つけてしまった。
「……っ! これ、もしかして……」
 柚子の心臓がキュッと緊張する。震える指で封筒の中を確かめると、誰の筆跡でもない一通の手紙が挟まれていた。
「と……『とみちゃんへ』だ……!」
 手紙を握る手に力がこもる。柚子は一度だけゆっくりと深呼吸すると、改めて、少し癖のある文字に目を走らせた。
 縦書きの便箋に、たった数行だけ書かれた、秀子の本当の気持ち。

――トミちゃんへ
親愛なるトミ様。なんて、そんな難しい書き出しで手紙を書いたら、アンタはびっくりして大きな目を更に開いてしまうだろうね。でも、手紙なのに呼び捨てはどうかと思って、アタシなりに考えたのさ。もし会えたら、ちゃん付けで呼んでみたいものだねぇ。
いいかい、驚かないで読んでおくれよ。アンタは、アタシの初恋だったのさ。道ですれ違った男共となんら変わらない。お腹の中で性別を間違えちまったアタシは、たったそれだけの違いで、他の男共よりも近い場所で、アンタと過ごすことが出来た。
アタシは、それだけで満足しなきゃいけなかったんだ。
あの日、馬車の前でアンタに泣かれた瞬間、このままアンタごと奪って、二人きりで幸せになりたいと思っちまったのさ。呼吸みたいに当たり前のように。
だからアタシは……もうアンタとは会わないよ。もう一度会っちまったら、まだトミに恋心があると気付いてしまいそうだから。今度こそ、アタシのこの胸の内を吐き出しちまいそうだから。
約束は果たさなくて良い。櫛は返さなくて良いんだ。アレはアタシのけじめだから……どうか……。
トミだけは、普通の人生を送って、幸せにおなり。
愛してる。 秀子――

夏休みに始まった柚子の旅は、ついに終幕へと向かい始める――

【完】

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