20210923 自己犠牲の先にあるもの
こんにちは、五月です。今回は久しぶりになる前に投稿できました。本来は毎日思ったことをここに残したいのが本音なのですが、なかなか難しいものです。ここで自分の気持ちを言語化し記録に残すということがかなり難しいです。私は人にあまり本当の本音を言いません。だからここでは素直に、自分の気持ちを書いて知らない方だからこそ読んでいただいて共感してくれるのではと思っています。
本日は、「自己犠牲」についてです。前回の殴り書きのような記録の話にも少しつながってくるのではと思います。
前回のnoteにも書きましたが、私は自分のことが好きになれません。というか、好きではないし好きになりたいとも思えないので好きになる努力をしません。する意味を感じないからです。
自分を好きになれないからこそ、私は人に求められる人材でありたいと強く思っています。人に頼ってもらったり、期待されることで自分は必要とされていることを認識でき、それが自分の価値を表していると感じています。なので、人に役に立てるなら、その人が私がやったことで喜んでくれるなら、笑顔になるなら、私は自己犠牲をしてでもやりたいと思っています。すいん時間を削っても、お金が苦しくても、自分がどうなってもこんな私の周りで仲良くしてくれている大事な人たちが喜んでくれるならそれでいいと思っています。極端かもしれないですがこれが私なのが事実です。
それがたまに認識が違うなと思うことがここ最近多いです。自分の犠牲で疲れたりしている姿を見て周りが悲しんでいたり心配という形で迷惑をかけてしまったりしています。自己犠牲の基準が生きすぎているのかもしれないと感じるようになっているここ最近です。ですが、今更この考えを変えられるとも思えない。というのが本音です。
人の幸せが自分の幸せで、自分がした行動によって幸せだと感じてくれるなら尚更です。自分がしんどくてもなんとかしようと、自分はどうにでもなるけどその人が私を必要としてくれている状況はその時しかないから、頑張るしかないと感じます。でもそれはいつもいい方向になるわではなく、、、難しいものです。
こんな気持ちを抱えながら、怒涛の学生生活を送っている五月です。
これからも頑張っていくしかないので全力で頑張ります。
それではまた、気が向いたら。