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 怠け者のサトウさんを変えたものは

 五月のある晴れた日のこと。
 サトウさんはいつものように庭のベンチに座ってぼんやりしていると玄関のベルが鳴りました。
 たいていセールスの人しかたずねてこないので、いつもなら無視するところですが今日はそうもいきません。
 なぜなら玄関から、サトウさんのいるベンチは丸見えだったからです。おまけにその訪問客とサトウさんは目が合ってしまいました。
「こんにちはー。おじいさん」
 お客は大声でおじいさんにあいさつをしました。
 野球帽をかぶった10歳ぐらいの男の子でした。
 子供がうちに何の用だろうと思いながらサトウさんは仕方なく玄関の方に歩いて行きました。
「突然すみません。よかったら牛乳をとってくれませんか。ぼくはこの辺りで牛乳配達をしているんです」
 今でも牛乳配達をする子供なんているんだなとサトウさんは感心しました。とはいっても牛乳をとる気にはなれません。
「悪いけど牛乳はいらないよ。あまり好きではないんだ」
と断わりました。
 おじいさんと呼ばれたことに少しイラッとしていたこともあります。サトウさんはまだそんな呼ばれ方をする年ではないと思っていたからです。
「好きでなくても飲んだ方がいいですよ。骨にいいんですよ」
「まぁな。でも毎日コンビニに行くのでね。買おうと思えばいつでも買えるというわけさ」
 これは本当の話しでした。サトウさんは毎日、昼食と夕食用に2個のお弁当を買いに歩いて20分のコンビニへ行くのです。これがゆいつの運動でした。
「でもうちの牛乳はコンビニの牛乳よりも濃くておいしいんですよ。栄養だってだんちがいなんですから」
 子供なのにねばるなぁ、またまたサトウさんは感心しました。
 男の子はクリクリとした大きな目をしていていかにも元気そうです。もしサトウさんも結婚していたらこんな男の子をもっていたかもしれません。
「でも毎日1本だけもってきてもらうのも悪いしなぁ。わたしは一人暮らしなんだよ」
「そんなことはありません。実はおじいさんの家の前の道を毎日自転車で通っていたんです」
「それは大変だね」
 だってサトウさんの家は麦畑の中にある一軒家だったからです。一番近い隣の家だってかなりの距離がありました。。
「そうそう、何かあったらぼくがお手伝いできるじゃないですか」
「何かって」
「たとえば、かぜをひいたりけがをしたりして食べ物を買いにいけないときにお使いをするとか」
「なるほど」
 感心したのは男の子のセールストークです。男の子は将来、りっぱな営業マンになるかもしれません。
 とはいえ、男の子の言うこともまちがいではなさそうです。
 これまでサトウさんはケガも病気もなく元気でしたが、そのうち何が起こるかわかりません。転んで腰を打って動けなくなり、電話も届かないようなことだってないとは限らないのです。
 サトウさんはそんなことを想像すると不安になってきました。
「まぁ、それじゃお願いすることにしようかな。いや一人で不安なことなんてぜんぜんないんだけど、もっと体が丈夫になるなら牛乳を飲んでもいいかなと思ってな」
 もちろんこれはサトウさんの見栄です。誰にたいしても強がってみせるのがサトウさんの性格でした。
「はいはいわかってますって。」
 こうしてサトウさんは毎日牛乳をとることになったのです。

 サトウさんは毎朝起きて、玄関の前にある箱を開けるのが楽しみになりました。
 びんに入った白い牛乳は、確かにパックに詰まったコンビニの牛乳より栄養がありそうです。それを台所にもって行き、お鍋でわかして飲むとからだが眠りからさめるようです。
 ねぼうをすることが多かったサトウさんですが、牛乳を箱から取るために早く起きるようになり、朝ご飯も食べるようになりました。
 ご飯を食べると家のそうじです。
 散らかりほうだいだった家の中もだんだん片付いていきました。
 それから歌の練習です。
 実はサトウさんの若い頃の夢は歌手になることだったのす。もう何十年と歌うことを忘れていましたが、ある朝、カラオケを出して歌ってみることを思いつきました。
 歌うことの楽しさは若い頃と同じでした。
 なぜ歌う楽しさを長い間忘れていたのだろうと不思議でした。
 牛乳配達の男の子は昼間も「おなかがすいた」と言ってやってきます。
 さすがにコンビニのお弁当を食べさせるわけにはいかないので、サトウさんは肉や魚や野菜をスーパーから配達してもらうようになりました。
「庭のようすがすっかり変わったねぇ、サトウさん」
 二人でお好み焼きを食べながら男の子は言います。呼び方はいつしか、おじいさんからサトウさんに変わっていました。
 窓から見える庭は以前のような雑草だらけの庭ではなく、さまざまな種類の野菜が実っていました。
「キュウリがたくさんできているから家にもって帰るといい。このまえはお母さんからたくさんお餅をもらったからね」
 日焼けした顔でサトウさんは嬉しそうに男の子に言いました。


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