夕焼けの飛行機雲 ⑦(小説)
夕暮れの飛行機雲 ⑦
どうしたらいいんだろう。
僕は実家の自分のベッドに仰向けになり、天井を見ながら考えた。
部屋は僕が高校生の頃とぼほ一緒だった。
ほとんど家に帰らないんだし、机もベッドも本棚も片づけていいよ、と母に言っているのだが、いつ来ても無くならずに同じ場所にあった。強くなることにあこがれて貼ったジャッキーチェンのポスターもそのままだ。
真理の痩せて元気がない顔が頭から離れない。
何とかして、真理をを元気づけたい。
しかし、方法がわからなかった。
通じるかも?と期待していた電話番号さえ通じない。
もうしばらくそっとしておいた方がいいんだろうか。
電話番号を教えてくれなかったっていうことは、そっとしておいて欲しいという意味かもしれないことかとも思う。
離婚して、体調を崩して、退院したばかりの姿は誰にだって見られたくないはずだ。一方的に「力になりたい」なんて思うのは自分のエゴなんじゃないか、っていう気もしないではない。
とても眠れそうもなく、窓を開けてみた。
隣にある真理の家は庭のバラの茂みのずっと向こうにあった。
月の光さえない深い夜の闇が辺りを包んでいる。昼間は、二階にある真理の部屋の窓が見えるはずだった。しかし、今は明かりが漏れてくる窓はない。
昔、僕と真理が偶然に窓を開けることが重なったとき、真理は大きく身を乗り出して、細い腕を大きく回して、思い切り振ってくれたものだ。
バカだな、そんなに腕を振って。下に落っこちたらどうするんだ、と思ったけど、そんな真理の明るさの一つ一つが僕を元気にしてくれたのだと思う。
寂しかった幼い僕に生きる力をくれたのは真理だ。
今、力になってあげなくていつ力になるというのだ?
決めた。
僕は今、真理に生きる力を与える番だ。
方法はきっとあるはずだ。
今度こそ自分の気持ちを抑えるのを止めよう。
勇気がなく、相手の気持ちとか、まわりの状況を考え過ぎて自分を押さえるのはやめようと思った。
もう後悔はしたくない。学生時代のように。
高校受験勉強を猛烈に頑張った真理は、運よく僕と同じ高校に合格した。
「人生の運を全部使い果たしちゃったかな」
真理は合格した後、こんなふうに言っていたけど、僕は彼女がどれほどの努力をしたか知っている。
長く伸ばしていた髪を「洗った後乾かすのに時間がかかる」と言う理由でバッサリ切り、いつも寝不足の目をしていた。
持ち前の要領の良さで、定期テストの点数は採れていて、内申点は悪くなかったけど、本人はじめ、担任も家族も僕さえも受けると思わなかった。真理の合格は真理のいた“三組の奇跡”としばらく言われたものだ。
勉強を僕に頼るかな、と思っていたけど、真理は親に頼んで家庭教師を雇ってもらって頑張ったようだ。
「今日は休みだけど一二時間も勉強しちゃったよ」
なんて、マジか?と思った。
それまでは、「勉強以外にも大事なことがある」とあちこち飛び回っていた真理が、一二時間も机に向かうなんて全く信じられないことだった。
僕はすごく嬉しかった。
「真理は僕と同じ高校に入るために頑張ったんじゃないか」と思ったからだ。
新任の社会の先生が素敵だとか、ボランティアで一緒に仕事をする大学生がカッコイイとか、しょっちゅう真理の憧れの男性は変わって、そのたびに僕に報告してきたけど、本当は僕のことがずっと好きだったんじゃないか?
こんなふうに思うと僕の心は高鳴った。
今思い返すと幸せな時間だったように思う。
そんなふうにして、高校入学までの時間を過ごした。
合格発表から高校入学までの時期は、誰にとっても至福の時間だ。
受験勉強から逃れた安堵感と中学の同級生がバラバラになる寂しさも手伝って、にわかカップルもたくさんできた時期でもある。
再び、真理とは頻繁に電話かけ合うようになっていた。
携帯の呼び出し音が鳴るたびにドキッとした。いつものような雑談で電話を切ったあとは拍子抜けし、どっと疲れた。
手紙が入っているんじゃないかってちょいちょいポストを除くようになったし、駅前のコンビニで顔を合わせると全身が緊張した。
可能性があるから僕の方かから告白しようとか、もし告白されたらつき合おうかどうしようか、なんてことは不思議と考えなかった。
ただ、告白されるかも、というこの一点だけで、僕の頭の中はいっぱいになり、他のことは何も考えられずにドキドキした日々を送っていた。
まるで乙女だった。
振り返ると本当に情けない。
そして、もっと情けないことには、高校入学するとすぐに真理は他の男にとられてしまったことだ。いや、つき合ってもいなかったんだから、とられた、なんて言えないな。
結局、真理は僕のことを男として見てなかったのかもしれない。
「なんであんなに勉強頑張れたの?」
と一度真理に聞いてみたことがある。
「決まっているでしょ。北校に入りたかったからよ」
と当たり前の答えが返ってきた。
だからなんで北校に入りたかったの?とは聞けなかった。
「ふーん」
という僕の納得しない表情を真理は深読みしようとはせず、
「また、一緒の学校だね。制服、赤い棒ネクタイとチェックのスカートで可愛いんだ。あっ知ってるか。祐樹は特進クラスだから、クラスは別々だけど、朝は一緒の電車でいけるかな」
なんて明るくはしゃいでいた。
あのとき告白してたら、違う高校生活になっていただろうか。
しかし、真理は僕のために受験勉強を頑張ったわけではない、その時、そのことがわかり、それで撃沈してしまっていた。
僕にはもう告白するパワーが残されていなかった。
僕と真理は同じ高校へ電車で三〇分かけて電車通学することになった。
といっても、一緒に電車に乗り、登校するということにはならなかった。
朝、一緒に学校へ行く習慣は、僕の朝練やなにかでだいぶ前にやめていた。それを高校になって復活するのは難しかった。
たまにだけど駅で真理と会い、そのまま一緒の電車に乗って学校まで、話しながら行った。そんな日はずっと気分がよかった。
しかし、そんなふうに一緒に登校できる日は続かず、あっという間に真理には彼氏ができたのだ。真理は彼氏と駅で待ち合わせるために二本早い電車に乗ることが多くなったのだ。
もちろん、「彼氏ができた」と聞いたとき、僕はあせった。
「祐樹、私、彼氏ができたんだ」
と朝、久しぶりに駅で会ったときに、真理は春の光のように明るく言った。僕は持っていたカバンを落としそうになった。ドラマだったら本当に落とす所だ。
真理は続けて
「いや実は、男子とつき合うってことをやってみたかったんだ。告白されたとき、それまでぜんぜん知らないコだったんだけど、感じ悪くなかったしイケメンな方だからいいかななんて」
なんということだ。僕は自分を殴ってやりたい気分になった。
僕たちの入った高校は、服装も下校後の行動も男女交際にも寛容だった。ちゃんと勉強すれば、あとは自己責任で、という方針だということは中学時代から知っていたことだ。
なので、必然的に入学の緊張感が取れた連休明けから、にわかカップルが雨後の筍のように誕生していた。
その雰囲気を察してはいたけど、他人事だと思っていた。僕には、ブームでカップルになるなんて意味がわからなかったからだ。
ところが他人事ではなかった。真理がそのブームに飲み込まれた。
そんなことならさっさと告白しておけばよかった。
その必要性すら感じていなかった自分を悔いた。
毎日のように電話でも話せるし、休みには映画や買い物にも行ける間柄だ。何を今さら“告白”なんて恥ずかしいことをしなくちゃいけないんだ?そう思っていた。
他の男とつき合うなんて全くの想定外だった。初めて僕は心底自分をバカだと思った。
取り敢えず男子とつき合うなら僕でもよかったんじゃないか。
そんな不満と後悔が入り混じった気持ちで過ごしていると、同じクラスで何かと僕に話しかけてくる女子に気がついた。
高浜冴子。高一にして色っぽいというか、大人びた女子だ。
季節は春から初夏に変わる頃で、女子は半袖の白いブラウスに変わっていたが、夏服になると冴子の大きな胸は余計に目立った。透けて見える下着の線に目を奪われない男子はいなかったんじゃないかと思う。
そんな色気を本人は気がついているのか、いないのか「本多クン、ここわかんないだけど」と聞いてくる冴子は、腕が触れるか触れないところまで体を寄せてくる。髪から漂うリンスの香りが「いい匂いだ」と思いつつも僕は
「近い」
とできるだけクールに言った。冴子はそのときは
「あっ、ごめんごめん」
と言うのだが、次に
「二年からのコース、本多クンはもう決めた?私はやっぱり国公立理系かな。就職よさそうだもんね」
なんて、もう体当たりに近い感じで聞いてくる。
そのほかも、班を作るときは、友だちに入れ替わりを頼んで入ってきたり、ノート貸してとか、お菓子焼いてきたから食べてとか。
僕はたじたじだった。
さすが町の中学の女のコは違うな、なんて呑気に構えられてる状況ではなく、
「本多クンて彼女いないよね」
と覗き込んでくる冴子の目は「逃さない」と言っているようで少し怖かった。
クラスメートの目もある。ここで受けなければ男ではないっていう雰囲気に思えた。
冴子ははっきり言って僕のタイプではなかった。
小柄で明るくて優しく、ちょっと天然な女の子、そう真理みたいなのが僕のタイプだった。
冴子は美人といえなくないし、明るく優しいのかもしれないが、スラリと背が高くて、鋭いことをはっきり言い、スキがないタイプだった。ちょっと僕が言い間違いでもしたらすぐに指摘されそうだし、ちょっとのミスでも怒られそうなイメージがあった。
申し訳ないけど、真理への失恋気分みたいなのがなかったら冴子のことは受け入れなかったと思う。
しかし、僕はその時、気分を変えたかった。真理に告白できなかったことをいつまでもウジウジと考えている自分が嫌だった。
だから、誰もいなくなった教室で、冴子が
「つき合って欲しいんだけど」
と言ったとき、すぐには断れないでいた。
予想していた冴子の言葉に僕は冷静だった。これまで女の子とつき合ったことはなかったけど、こんな告白のシーンは何度か経験していたからだ。そんな場合、すぐに断るのが礼儀だと思っていたけど。
しかし、意外なことに、その後で冴子は申し訳なさそうに
「というか、彼氏のフリをして欲しいんだ」
と頼んできた。
「えっ」
僕は意味が分からず聞き返す。だって今までの行動はどう見ても「私はあなたに気があります」だったじゃないか。
「ごめん、だって、あの・・・よくわかんないんだけど」
「そう、思わせぶりなふりしてごめんね。でも、私が本多クンに気があります的な行動して、告白してつき合うのが自然な流れでしょ」
「自然と言うか、そうかもしれないけど」
僕はまだ理解できない。
「ほんと言うと誰でもよかったの」
「?」
「いや、違うな。誰か好きな人がいるんだけどつき合えなくて、クールでイケメンな人がいればいいと思っていたの」
「なんで・・・」
「なんで本多クンい好きな人がいるかわかるかって? そりゃわかるわよ。ずっと本多クンに注目してたからね。本多クン、七組の井上さんのことが好きでしょ」
僕は何も答えらず、ただ顔が赤くなるだけだった。
「本多クン、井上さんのことずっと目で追っていた。昼休みに井上さんがみんなでバレボールするのをじっとベンチで見てたり、廊下ですれ違ってもしばらく背中を見てたり、彼氏と帰っていくのを下駄箱から見てたり」
怖い。コイツは俺のストーカーだったのか。
「でも、安心して。知っているの私だけだし、誰にも言ってないから」
「まぁ、いいけど。でも、なんで彼氏が必要だったわけ?」
「こんなお願いするから、言うべきだよね。実は数学の生田先生が好きなの。というか、付き合っているんだ」
「えっー」
今度は声に出して驚く。
生田先生というのは、大学を出たばかりの僕たちのクラスを教えている数学の教師で生徒にも人気があった。でも、人気があるのは話しが面白く、授業も熱が入ってわかりやすかったからだ。ラグビーをしていたらしく、体格はよかったが、顔はどちらかというと残念な方といえた。
「生田先生は私が中学のときの家庭教師で、一目みてどストライクだったの」
全く人の好みはわからない。
「私は小さいことから、いわゆるイケメンというのがダメで。ほらまわりからチヤホヤされて性格が曲がってんだろうなとか。あっ、ゴメンね、本多クンのことじゃないから。どちらかというと、ゴリラ系の男子が好きで、ほら、生田先生は正確もあの通り最高でしょ?」
「まぁ、そうだけど」
ノロケか?という言葉を僕は飲み込んだ。
「で、いくら自由な高校でも先生と生徒の恋愛は無理だし。噂になるのも面倒だしね。本多クンにお願いしたわけ。私と本多クンがカップルになればへんな噂で生田先生をこまらせることはないと思ったの」
「それで高浜さんを好きにならないと踏んだ僕に白羽の矢が当たったわけだ」
「そうそう。ほんと申し訳ないんだけどお願いできるかな」
僕は面食らって頭の中がぐしゃぐしゃだった。
僕を好きだと思っていた冴子が実はそうではなかったこと、真理を好きなことを冴子に見透かされていたこと、なんと数学の生田先生と冴子が恋人同士であることなどが、頭の中をグルグル駆け巡った。
数学は得意だったけど、こんな短時間でこれらの情報を処理するのは厳しかった。
「やっぱり、ダメかな。もちろん嫌なら断わってくれていいんだ。本多クンとはいい友達になりたいし」
冴子はやはり人を思いやれるいいヤツだ。もし、僕と冴子が“カップル”ということになれば、冴子は気兼ねなく学校でも生田先生と話しをできるに違いない。
人を好きになる気持ちは僕にも痛いほどわかっていた。だから
「いいよ。カップルになろう」
そう答えた。
「あのとき断わっていたら何かが変わっていたかな」
壁のウォールポケットから半分覗いている、「私たち結婚しました」のハガキを見やりながら僕は思った。
二十歳の花嫁の冴子はふんわりとしたウェディングドレスが良く似合ってこぼれるような笑顔で微笑んでいる。横にいるのはもちろん生田先生だ。
しかし、人生にもしもなんてないことはわかっている。
僕たちは自分が選らんんだ先の人生を生きなければならない。
つづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?