お母さん

ノートって楽しいね。つい書いちゃうね。

5月のテーマがお母さんらしいので、わたしもかくね。


お母さんって一口にとってもいろいろな書き方があるんだろうけれど、私が問いかけたいことって

「お母さんが絶対的じゃないって気付いた瞬間はいつ?」

っていうものだ。

わたし、おうちがあんまりうまくいってなくて、小学校のときに父さんのことで大号泣するお母さんをみてしまった。そのときに、明確にはっきりと意識したわけじゃないけど、お母さんには母の部分と女の部分といろんな側面がある事を知った気がする。

そうなると、今まで絶対的に正しかったお母さんの言うことを、素直に聞いても良いのか分からなくなってくる。

多分教育の面では、お母さんの「母」は正しかった。小さい頃は厳しくて、でも自分である程度決められるようになってくると、基本的には私の考えを尊重してくれた。自分で自分決められるようになったのも、定期的に「あなたはどうしたい?」と問いかけてくれたことが土壌になっているのだと思う。それから、大人になった今でもしょっちゅう抱きしめてくる。わたしを否定しない。あと名づけのセンスがめちゃくちゃ良い。わたし、小さい頃自分の名前古臭くて嫌いだったんだけど、大学に入って、由来に使われた言葉を学んで、それがなんともかわいらしい意味を持っていたことを知って、今この名前でよかったなぁと思う。

ちょっと性格悪いんだけど、私の名前を見て「古風ね」と言うか「みやびだね」と言うかでその人の文学的度量が分かってしまうのも便利っちゃ便利。図書館の司書さんに万葉集ね、と言い当てられたときにはどっきりした。

でも、お母さんは「母」の部分は尊敬できるけど、「女」的な部分は少々こじらせ過ぎていると思う。

わたしは基本的に男の人が好きで、自分とつくりの違う体だったりなり余りたる所ありけりな箇所も脳みそ固くて口下手でLINEがへたくそなところもとても好ましいと思うんだけど、お母さんは定期的に「男ってこれだから」と私の好きなそれらを貶める発言をするのだ。わたしは男の人がすきで、女の人も同じくらいにすきで、人間っていう生き物がすきなので、自分の好きなものを(本人が自覚していなくても)悪く言われるのは少し哀しい。けれどそれはお母さんの「女」が男の人に対して良い思い出が無い故の発言なのだと思うと、自分の倍以上生きてきた人間に意見する気持ちなんてさらさらなくなってしまうのだ。

わたしはギャルがすき。家事と火事は昔「かじ」と「くゎじ」で言い分けられていたらしい。どっちがどっちだか忘れたけど。そう思うと「ゎ」はギャルが使わなければ誰も使わなくなってしまうのだ。だから「ゎ」はギャルに守られている。ギャルは日本語文化を守っている。それも新たに彼女らなりの方法を模索しながら。ギャルすげぇって思う。頭悪く思われる「ぅちゎ」の中に、日本の文化を確かに存続させているんだ。ギャルすげぇ。ギャルちょうがんばれっておもう。でもお母さんはそういう女の子がきらい。それは多分、自分自身と彼女らとに共通する「女」の品位が下がってしまうだろうという防衛的意識から由来するものなのだろうとおもう。でもわたしはギャルすげぇって思うから、やっぱり悪く言われると哀しい。

わたしはお母さんの「母」は好きだけれど、「女」は好きじゃないし尊敬できない。それが子供であるゆえの嫌悪なのかは分からない。

でも多分、世の中で「お母さんがきらい」って言う人のなかには、「母」と「女」で分けて認識できていないケースもあるのではないかと思う。「母」は尊敬できるけど「女」の部分は嫌いだとか、「母」としては良い育て方じゃなかったけど、「女」としては良い生き方をしているだとか。わたしは「お母さん」なるものの構造を分けて考えることでどうにか自分の中に落としこめたけれど、他の人はどうなんだろう。わたしは、お母さんの中には「お母さん」しか入ってなくて、いつだって絶対的に母親的思考が彼女の選択では優先されるのだと思ってた。だから絶対的な母親的思考の下、子供の前では涙は見せないという選択がされるんだろうって思ってた。でも実際はそうじゃなくて、お母さんの中には母と女の二つがあって、それらが交互に彼女の人生の選択を決めていたのだ。あのとき、お母さんは私の目の前で「女」の選択をしたのかもしれない。「女」ならではの弱さを露呈して号泣することが、もしかしたらお母さんの「母」の部分にも何らかの影響を与えたのかもしれない。

うまくまとまらないけど、とりあえずおしまい。 





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