6/20 日記
前も書いたかもしれないけど、わたし、あまりいい家庭環境ではなかった。子供離れのできないお母さんと、女の人とタバコが好きで牢屋に放り込まれたお父さんを見て育って、2人みたいになりたくないと思う傍ら、2人のことを憎めないわたしが生きている。
お父さんのことは、いつもわたしの心の奥深くで息づいて、それは例えば受験とか、就職活動とか、恋愛とかのイベントごとのたびに、わたしの心の表面まで浮かび上がって涙を流させる。3月4月のわたしは、お父さんが犯罪者だってばれたらどうしようとおびえながらESと面接をこなしていた。
今、わたしは何もすることがなくなって、すこしからっぽになってしまった。すこしのバイトをして、たっぷり眠って、たくさん人と話している。けれどそこに生産は無い。ものを書かずに、いたずらに本を読み、お酒をのんだりしている。
だから久しぶりに文章を書く気になって(というよりかは書かずにはいられない、あの半狂乱的な衝動がひさしくやってきて)、自分の心の変わりようにびっくりした。
最近わたしをとても大切に丁寧に扱ってくれるひとがあらわれて、毎日それなりに愛を囁かれるのだが、今までと違って恋に恋する乙女のようにのぼせ上がるわけでもなければ、どうせ父のことを知ったとたんに手のひらを返すのだろう、と悲観主義になるわけでもない。ただありがたいなぁと思うのと、私の心の片隅に住んでいる三十路過ぎの私が「これを逃したら結婚のチャンスはないぞ!」と囁いてくるだけである。
結婚! 私が! うっそだーと思う。
わたしは父と母が好きだけれど、まともな家庭で生まれてなかったから、夫婦はいつか離婚をするものとしか考えられない。まともな家庭で生まれなかったことだけがそう思わせるのではない。私はもともとマニュアルがなければ動けない人間なのだ。身近にお手本が無いから、どうふるまえばいいかわからない。うまくいかなかった家庭を間近で見てきたマニュアル至上主義の私が、どうして自分の家庭だけは上手くいかせることができよう。
だからわたし、結婚はふつうに憧れていたけど、絶対に離婚するからいやだって思ってた。死ぬほどさびしい思いをしながら生きるのが人生だって思ってた。
でもいま、(たとえそれが一過性のものにしろ)わたしを大事にしてくれる人が目の前にきて、その人が当たり前に2人のこれからのことを話しているのをみて、ああそんな人生も悪くないかと思うわたしがいる。離婚がちらつかないわたしがいる。不確かなことを信じているのだ。
たぶん、つらかったことが、徐々に終わりつつあるのだと思う。
自分でお金を稼げるようになって、お金の問題も少しずつなくなって、私を支えてきた父の事が徐々に心の奥底に沈みつつあるのだ。
不確かなことを信じられるくらいには、心が回復した。
前と比べて意味もなく泣くことが減った。
それがいいことなのかわるいことなのか分からない。
ただあまりに健康になりすぎて、生産を忘れてしまうことはいやだなと思うし、それは私がもっとも恐れることだとも思う。
完璧に健康になるよりかは、少しの具合の悪さと共に生きて、つねになにかしらを書いていたいんだ。
とりとめもないはなし。
おしまい。
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