娘と母と
人生がわたしのドラマだとしたら。
みんな、どんな配役でわたしの気づきを助けてくれるんだろう。
娘はまだ、20代半ばだが、人生経験としては特別な経験をいくつも持ってる。羨ましいと思わせる隙がないくらいの、駆け抜け感。そして、いまでは、YouTubeでタロットリーディングをしている。
親子という縁があるのも大きく、そのタロットリーディングはわたしをハッとさせる内容が多い。今回は、魂の魅力を知るというもの。
わたしは、へへ〜ん、るんるん、て選択肢で、よーし!と気分良くいたが、珍しく三択の全部を聴くことになった。普段は自分の選択肢しか興味ないんだが。
Aはわたし。Bふむふむ。Cああ、、娘も言っている。わたしもこういう時がありました、と。
それは、相手の立場にたつ、相手の気持ちを慮る(おもんばかる。自分なりにね)、相手のために動く。
よくいうところの、相手のために動く、って実は自分のため、って。それがまぁ、自分のこととなるとわからなくなる。わからなくなる原因のひとつは、母がそうだから。それ、当たり前に育ったんだね。
厳しいところもあるような母だけど、いざという時の受け止め感はすごい。なんだか、冷たいような硬いような、ちょっと怖い、というのが幼いときの母の印象。好きだったけどね、なんか、皮膚感ないというか。
彼女も途中から激変していて、開放への道を歩む。その瞬間、わたしは感じたんだよね。その場にいなかったけど、何かが変わったこと。直感とでもいうの?そして、わたしは、何度もその、母のもともと持っている、いいよ、っていう最終的な受け止めに助けてもらってる。
今回のリーディングでは(母も孫娘のリーディングを楽しみにしてる。ちなみに、父はそんなん全く興味ナシ。)母は三択のうち、なんかこれが気になる、と人のために動いてる人のパターンを選んでました。
そして、言われることすべてに、そうやねん、そのままや、ありがとう、と言ってました。
そして、、はぁ、人のためか、、と。
せやろ、わかるわ。わたしも、こないだまでそれやったと思うもん。(産まれでるワーク余波は続く。)でもな、自分のこと、考えるねん。何が楽しいか。ワクワクすることってあると思うねん。
いまは娘(わたしの妹)が落ち着くことやな。(ちょっと体調すぐれない)
いや、それは気になるやろけど。それを置いといて。自分のワクワクすること、見つけるねん。
そんなんないわ。
昔さ、刺繍とか絵とか夢中になってたやん。
せやな、のりこの宿題途中からやったり。
ご飯作ること好き?
いや、やらなあかんから。
せやろ。義務やんかー。ずっと押し込めてきた、何か。あるはずやでー。それ見つけるのが、妹のためにもなると思うけどな! いままでは、お母さんのその、人のために、、に助けられてきてん。いままではそれでよかってん。いま、ね、いまから、それはもう、気にしなくてよくて、自分の好きなこと、見つけるねん。 お母さん、ありがとうね!
と、思わずわたしは、手を合わせた。
なんや、急に、、とあっちむく母。わたしは思わず、母のとこに寄って、抱きしめて、ありがとう!って言った。背中から感じる胸の奥のほうで、少し何かが動いた気がした。それでいい、って何かが言った。
ほんとはさ、
そうか、、のりこ、ありがとう。ハグハグー
って期待もしてたけど。あら?っというすかされ感。
感謝感謝、と言う母は、多くの人のお出会いによってここまで来たけど、
まだまだ溶かす余地はありあり。
と、母に感じることと別に、言い切ったわたしは、自分のためのその言葉を、吐き出した感じ。言わせてもらった感謝。
そして母は、たくさんの慈愛をもって生きてきたようなところがあるけど、与え続けてきてやっと、受け止める時が来たのかな。
実は先日、電話をかけてきて、ぐるぐる悩む胸の内を話して聞かせた。ただ、聞いてほしく、わたしがはっきり、こうだよ、と言ったら、
はい、そうですね、わかりました
と言った。その母がかわいく、また、切なかった。
何歳になっても。でも、わたしも、娘に。そして、息子や孫や嫁に。導かれ、手を引かれている。
それは、彼らがみな、自分の道を当たり前に進んでるから。そのことが嬉しい。そして、どんな生き様でも完璧。
枠にはまりきらない言葉をここでは紡いでいます。実はわたしのオリジナルはここにあるかな、とも思ってます。サポートしていただけたら、より自由に羽ばたきます。ちょっとした出会いに、わたしから産まれるものを手渡せたら、幸いです。