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静かな矜持と、揺れる影の向こう側で 40代外科医のストーリー

第一章:順風満帆の影と光

医師としての人生は、あまりにも順調すぎるスタートを切ったのかもしれない。高校時代、成績は常にトップで、全国模試でも上位に名を連ねた。迷いなく医学部を志し、名門大学に進学し、さらにそのまま大学院に進む。周囲からは「成功した医師」の典型例として称賛されることが多かった。実際、自分でもそう思っていた。少なくとも、数年前までは。

専門は腹部外科。40歳を過ぎ、日々、患者と向き合い、内臓にメスを入れる感触は、ある種の高揚感を伴う。人間の体の中に潜む問題を見つけ、修復し、健康な姿を取り戻させる――それは、この上ない使命感と達成感を与えてくれる仕事だ。自分にはこの仕事しかない、そう信じて疑わなかった。

しかし、ふとした瞬間に、冷たい風が心を通り抜けるようになった。医局の会議室で、給与の話が出たときだ。大学病院の経営状況が厳しいという話を、事務方から淡々と聞かされた。「来年度の予算は削減される見込みです」と言われた瞬間、自分の背後に暗い影が忍び寄ったように感じた。

確かに、今のところ収入には困っていない。講演会に呼ばれることも多く、年収は2000万円を超えている。しかし、それも永遠ではないことを、ここ数カ月の講演会の減少が教えてくれている。以前は月に数回ペースで依頼が来ていたが、今では月1回、時にはゼロの月もある。「需要のピークを過ぎたのかもしれない」という不安が頭をもたげる。

さらに、教授選の結果にも失望感を覚えた。医局で長年貢献してきた同門の先生ではなく、他大学から来た医師が教授に選ばれることが続いている。努力や実績だけでは報われない世界があるという現実に、薄々気づいていたが、それを目の当たりにするたび、胸の奥に小さな亀裂が入る音が聞こえるようだった。

「何かが足りない」夜の帰り道、車の中で独り言のように呟く。住宅ローンや子どもの学費が頭をよぎる。今の収入を維持するためには、外科医として働き続けるしかない。それは理解しているが、心のどこかで「これが本当に自分の望んでいる人生なのか?」という問いが浮かぶ。

最近では、若い医師たちが盛んに不動産投資やアメリカ株、ビットコインの話をしている。投資で大きく資産を増やしたという話を聞くたびに、自分のやり方が古いのではないかと思わされる。「俺もやるべきなのか?」と一瞬頭をよぎるが、結局何も行動を起こせない。医師という職業に誇りを持つ自分と、変化を恐れる自分がせめぎ合う日々が続いている。

順風満帆に見えるキャリアの裏側に、こんなに多くの影が潜んでいるとは、若い頃の自分には想像もできなかっただろう。手術室での光に満ちた緊張感や患者の感謝の言葉が、かろうじて自分を支えているが、それだけでは未来に向かうエネルギーが足りない。車の窓から見る都内の夜景は美しいが、その光景もどこか薄暗く感じられる。

「この先どうするべきなんだろう?」主人公はそう心の中でつぶやきながら、次第に遠ざかる講演会のスポットライトと、迫りくる現実の重みに押しつぶされそうになっていた。

第二章:揺れる現実と静かな焦燥

講演会の依頼は、確かに減っている。それはスケジュール帳を見れば一目瞭然だ。以前は月に3回、多いときは4回も埋まっていた講演会の日程が、今では月1回あるかどうかになっている。医局内では誰もそれを大声で口にしないが、周囲も同じ状況にあることは薄々感じ取れる。会議室の空気は重く、同僚たちの表情にも焦りがにじんでいる。

講演会の減少は単なる仕事の問題ではない。収入の柱を揺るがす現実だ。医局からの基本給は年々減少しており、講演会収入がなければ生活の維持が難しくなる。都内の私立学校に通う子どもの学費、住宅ローン、そして日々の生活費。これらの数字が、主人公の頭の中で重く積み上がる。

そんな中、若い医師たちの会話が耳に入る。彼らはアメリカ株やビットコインの話で盛り上がり、「年利20%増えた」だの「この銘柄が大当たりした」だのと楽しそうだ。それを聞きながら、主人公は手術室での自分を思い浮かべる。血まみれのグローブを外し、汗を拭き、達成感に浸る瞬間。それは確かに充実しているが、若い医師たちが享受している経済的な自由とはまるで違うものだ。

「俺には関係ない話だ」と自分に言い聞かせる。しかし、それが負け惜しみのように感じられる瞬間があるのも事実だ。投資の知識もなければ、始める勇気もない。それに、これまで手術の技術や医師としての倫理観にすべてを捧げてきた自分には、投資の話はどこか「自分らしくない」と思える。

そんな自己否定感が、主人公の胸に小さな裂け目を作り始めている。裂け目はまだ目立たないが、そこから静かに冷たい風が吹き込む。それは「このままでいいのか?」という問いを運んでくる。

かつては講演会の壇上でスポットライトを浴び、自信満々に語る自分がいた。その姿に憧れる若い医師たちの視線を感じていた。しかし今、そのスポットライトは薄暗くなり、周囲の視線もどこか冷めたものに変わりつつあるように感じる。それは現実だろうか?それとも自分の被害妄想なのだろうか?

自宅に戻り、夜の静けさの中で一人考える。外科医として積み上げたキャリアに誇りはある。しかし、その先にどんな未来があるのか、漠然とした不安が拭えない。迷いと焦燥の中で、主人公は自分の未来像をぼんやりと描き始めていた。

第三章:家庭のぬくもりと負担

夜遅く帰宅すると、リビングの明かりが柔らかく灯っている。妻がキッチンで片付けをしている後ろ姿が見え、テレビではニュースが低い音で流れている。食卓には、片付けられたままの湯のみが一つ残っていた。中学生の娘は、既に自室で休んでいるようだ。都内の私立中学に進学してからというもの、勉強と部活で忙しい日々を送っている。

「おかえり。遅かったね。」
妻がこちらを振り返りながら、少し微笑む。その表情には疲れの色も見えないが、家計を任されている妻の心労を思うと、主人公の胸が少し痛む。

「ただいま。今日は手術が長引いてね。」
主人公はコートを脱ぎながら答える。疲れを隠すつもりはないが、必要以上に心配をかけたくないと思い、口調はできるだけ穏やかにした。

この家は静かだ。都心の喧騒から少し離れたエリアにあるマンションだが、住宅ローンは重い負担となっている。さらに、私立中学に通う娘の学費が毎月家計を圧迫している。妻が家計簿をつける横顔を見ていると、自分の無力感が忍び寄る。

中学受験は昨年、家族にとって大きな試練だった。娘の希望を叶えるため、塾代や模試代がかさむ中で、家計のやりくりに追われた。それでも、無事に志望校に合格し、笑顔で制服姿を見せてくれたあの瞬間は忘れられない。だからこそ、彼女のために頑張りたいと思う反面、自分がこれ以上頑張れる余地があるのかと、ふと不安になる。

「来週、学費の引き落としあるから確認しておいてね。」
妻が何気なく言う。その声は穏やかだが、その背後にある現実の重みを感じ取らずにはいられない。「分かってる」と主人公は返事をしながら、冷蔵庫からビールを取り出した。蓋を開けて一口飲むと、少しだけ心が落ち着いた気がするが、それも長くは続かない。

リビングの片隅に置かれた娘の教科書が目に入る。今は受験から解放され、新しい環境での生活を楽しんでいるようだが、それも長くは続かないだろう。この先には高校受験、大学受験が控えている。学費の負担が軽くなる見込みはない。むしろ、さらに増えることを考えると、気が重くなる。

一方で、周囲の若い医師たちは、投資で資産を築いている話を楽しそうに語っている。「俺もやるべきなのか?」という考えが浮かぶが、その度に「いや、自分は外科医だ」と言い聞かせる。手術室で人命を救う自分の役割に誇りを持っている。しかし、それが将来の経済的な安定を保証してくれるわけではない。むしろ、自分のキャリアがこのまま維持できる保証は、どこにもないのだ。

「そろそろ寝るね。」
妻が食器を片付け終え、そう言って主人公に微笑む。彼女はきっと、家計のプレッシャーを感じているはずだが、それを言葉にすることはない。それがまた、主人公に無言の重圧を与える。自分がこの家族の支えでなければならない。その責任が胸にのしかかる。

夜が深まる中、主人公はリビングのソファに一人座り、手に持ったビールの缶を見つめた。いつからだろう、こうして一人で考え込む時間が増えたのは。医師としてのキャリアに誇りを持っているが、未来に対する不安が心の隙間に入り込み、少しずつ広がっていく。

ふと、机の上に置かれた学費の引き落とし通知に目が留まる。それは、まるで自分の現実を象徴するかのように、無言でそこに存在している。「このままでいいのか?」という問いがまた浮かび上がる。

娘の部屋からかすかに聞こえる寝息が、静かな夜の中で響いている。その音を聞きながら、主人公は「彼女の未来を守らなければならない」と改めて心に誓った。そして、そのためには、これまでの自分のあり方を見直す必要があるのではないかという考えが、心の中でぼんやりと形を成し始めていた。


第四章:転職と開業という岐路

主人公がリビングで一人静かに考え込んでいると、スマートフォンの通知が振動音と共にテーブルの上で震えた。見ると、同期の医師からのメッセージだった。内容は「久しぶりに飲みに行こう」という軽い誘いだったが、その一文の最後に「実は最近、転職したんだ」という一言が添えられていた。

「転職か……」と主人公はその言葉を反芻する。これまで何度か耳にはしてきたが、実際に考えたことはほとんどなかった。医局での立場や収入が安定しているという理由があったからだ。しかし、最近の状況を考えると、それが本当に「安定」と言えるのかどうかが怪しくなってきている。

同期の医師は、大学病院を出て地方の民間病院に転職したという。メッセージによれば、勤務時間が短くなり、給与はほぼ横ばい。さらに、病院側からのサポートが手厚いと書かれていた。その話を読むうちに、ふと自分もそうした道を選ぶべきではないかという思いが頭をよぎる。

しかし、すぐに心の中で打ち消す。「俺は外科医だ。ここまで積み上げてきたキャリアを捨てるわけにはいかない」。外科医として手術をこなしてきた経験や技術、それに誇りを持っている自分がいる。一方で、転職した医師たちが「新しい環境で家族との時間が増えた」と嬉しそうに話す姿を思い浮かべると、その選択肢の魅力を完全に否定することはできなかった。

さらに頭を悩ませるのは「開業」の可能性だった。自分のクリニックを持つという選択肢は、これまでもぼんやりと頭の隅にあった。だが、具体的に検討したことはない。初期投資の大きさや、経営の知識が全くないこと、そして何より失敗したときのリスクが恐ろしかったからだ。

だが、最近読んだ記事では、開業医が高収入を得ながら自由な働き方を実現しているという事例が紹介されていた。実際に開業した同僚から話を聞くと、「初めは不安だったが、今はやってよかったと思う」と語っていた。その言葉が頭の中で何度も響く。

「開業するなら、どうすればいい?」
主人公は、初めてその問いを真剣に自分に向けた。医療機器のリースやスタッフの採用、患者を集めるためのマーケティング――どれも未知の領域だ。しかし、それを乗り越えた先には、今よりも自由で安定した未来があるのではないかと考え始める自分がいた。

その夜、主人公はいつものようにベッドに入ったが、眠れないまま天井を見つめていた。転職と開業、そのどちらも現実的な選択肢として自分の目の前にある。しかし、どちらもリスクを伴う決断だ。これまで築いてきたキャリアを守りつつ、新しい挑戦に踏み出すことはできるのだろうか?

翌日、仕事の合間に同僚と雑談をしているとき、ふと開業や転職の話題を振ってみた。すると、意外にも「考えたことがある」という声が多かった。中には実際に準備を進めている医師もいた。具体的な準備段階の話や、専門のコンサルタントを利用しているという話を聞くうちに、自分も何か行動を起こすべきではないかという思いが強くなっていった。

一方で、リスクの重さも頭を離れない。家族がいる以上、軽率な決断はできない。娘の学費、住宅ローン、そしてこれまでのキャリア。これらを天秤にかけたとき、自分の選択が間違いないものだと確信できるだろうか?

その日の帰り道、ふと目に留まった書店に立ち寄り、「医師のための開業マニュアル」と書かれた一冊を手に取った。ページをめくりながら、その中にあるリアルな数字や具体的な手順に心がざわつく。現実味が増すと同時に、やはり恐怖もついて回る。

家に帰り、その本を机の上に置く。表紙のタイトルをじっと見つめながら、主人公は深い溜息をついた。そして、これまでの自分の生き方に固執しているだけでは、この先の未来は描けないのではないかと気づき始める。

転職か、開業か。それともこのまま医局に留まるのか。どの道を選んでも簡単ではないが、家族を守り、医師としての誇りを失わずに生きていくために、選択の時が確実に迫っている。その事実だけは、彼にとって揺るぎない現実だった。


第五章:未来への微かな光

開業マニュアルの本を開いたまま、主人公は静かに考え込んでいた。ページの端には赤いマーカーで線が引かれたままになっている。「開業の成功率は初期の3年で決まる」と書かれたその一文が、ずっと頭から離れない。

リビングの時計が午前1時を指している。静まり返った部屋の中で、主人公は自分の足元にある現実と、目の前に広がる不透明な未来の狭間で揺れていた。このまま医局に留まり続けるのも一つの選択肢だ。だが、それは何も変わらない、停滞した日々を意味する。転職は手っ取り早い方法だが、そこに未来を賭けるほどの確信は持てない。そして、開業という未知の挑戦には、計り知れないリスクが潜んでいる。

翌日、主人公は意を決して、開業を成功させたという同僚の一人に連絡を取った。電話越しに話を聞くと、彼は驚くほど率直だった。開業の準備期間中は不安で眠れない夜が続いたこと、患者を集めるためのマーケティングに苦労したこと、そして最初の1年はほとんど利益が出なかったことを包み隠さず話してくれた。それでも、最後にはこう付け加えた。

「だけどね、自分の診療所を持つっていうのは、思った以上に自由だし、責任がやりがいにもなる。今は患者さんから直接感謝されるたびに、この道を選んで良かったって心から思うよ。」

その言葉に、主人公の中で小さな光が灯った気がした。失敗するかもしれない。それでも、自分で舵を取る人生の可能性に触れたとき、胸の奥に少しだけ高揚感が生まれた。

その日の夜、妻に開業の話を初めて切り出した。彼女は驚いたようだったが、すぐに冷静な表情に戻り、「本気で考えているの?」と確認するように尋ねた。主人公は「まだ決めてはいない。でも、自分の手で何かを作り上げたいと思うんだ」と答えた。妻はしばらく沈黙した後、静かに言った。

「あなたが真剣に考えているなら、私は反対しないよ。ただ、計画だけはしっかりしてね。家族の生活がかかっているんだから。」

その言葉には、信頼とともに重い責任を感じた。主人公は強くうなずき、その夜から具体的な計画を練り始めた。開業地の選定、初期費用の見積もり、必要な医療機器やスタッフのリストアップ。頭の中ではまだ全体像が掴めないが、一つひとつの要素を積み上げていくことで、不安が少しずつ現実感に変わっていった。

数日後、主人公は医療コンサルタントとの面談を予約した。彼らは開業支援を専門に行っており、これまで数多くのクリニックを立ち上げてきた実績があるという。面談の場で、主人公はこれまで抱えていた疑問を次々にぶつけた。資金調達の方法、地域ごとの競争環境、そして集患のための戦略――どれも自分がこれまで知らなかった世界の話だ。

コンサルタントの冷静な説明を聞きながら、主人公は改めて自分の無知を痛感した。しかし同時に、具体的な手順を知ることで、少しずつ自信も湧いてきた。未知の領域だが、手を伸ばせば届くかもしれないという感覚が芽生え始めていた。

一方で、医局での仕事を続ける間に、開業の準備をどのように進めるべきかを考える必要があった。医局の同僚たちにはまだ何も話していない。彼らの目を意識すると、決断を周囲に公表することの難しさが分かる。しかし、自分の未来のために、この道を選ぶ決意を固めつつある。

夜、娘の部屋から漏れる灯りが見えた。扉をノックして顔を出すと、机に向かって宿題をしている娘が振り返った。「パパ、おかえり」と笑顔で言うその姿を見て、主人公は思った。この子のためにも、迷っている時間はない。

数週間後、主人公は開業計画をさらに具体化し、動き始める準備を整えた。転職や医局に留まる選択肢も考えたが、自分の人生にもう一度挑戦したいという気持ちが最終的に彼を突き動かした。そして、家族と共に新しい道を歩むための一歩を踏み出したのだった。

未来はまだ見えない。しかし、その先には微かな光が差し込み始めていた。


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