【研修医は直美ばかり】美容外科は楽な道か?大学病院に縛られる医師たちへの挑戦状
第1章: 「大学病院の窓辺に漂う、乾いた時間」
彼は昼休みの隙間に、大学病院の職員用カフェテリアでコーヒーをすすっていた。深くローストされた豆の香りが漂う中、周囲のざわめきが耳に入り込む。看護師たちの弾むような声、医局員の低い笑い声、電子カルテ端末の通知音。それはどこにでもある、普通の昼下がりの光景だった。
彼は気づけば窓の外を見つめていた。そこには駐車場が広がり、業務用の白い車がきれいに並んでいる。淡い冬の日差しがアスファルトに反射し、なんとも言えない無機質な輝きを放っていた。その光景に彼は少しだけ目を細めた。
彼がこの大学病院での初期研修を始めて半年が経った。手探りだった最初の数か月を乗り越え、今では一通りのルーティンには慣れた。回診、症例の記録、術前術後の管理。どれも重要な仕事であり、医師としての道を進むためには避けられないものだ。だが、その一つ一つが、彼の中に充足感をもたらしているわけではなかった。
「これが本当に自分が望んでいた未来なのか?」
そんな疑問が彼の頭をよぎることがある。高校時代から成績は優秀で、医学部に進むのは当然のことのように決まっていた。誰もが褒め称え、彼自身もその評価に乗せられていた。だが、心の奥底では、自分が何を求めているのか、どこへ向かいたいのかがぼんやりとしたままだった。
彼の視線はカフェテリアに戻る。同期の研修医たちが数人、テーブルを囲んで会話をしている。その中でひときわ声の大きい男が、「直美」というフレーーズを口にした。
「直美って、あの美容外科に直行するパスのこと?」
別の同期が聞き返す。興味深そうな表情だ。
「そう。すぐに月収200万とか300万とかだってさ。下手な科で研修やるよりよっぽど稼げるんじゃない?」
彼はその会話を聞き流すように聞いていた。美容外科——それは確かに彼の中で新鮮な響きを持つ言葉だった。高収入、自由な働き方、華やかな世界。彼の同期たちはその道に惹かれているように見えた。
だが彼には、その選択肢がどうしても表面的なもののように思えた。医師としての根本的な使命感や、誰かの命を救うという純粋な動機。それを見失うのではないかという恐れが、彼の中にはあった。
それでも、その道を完全に否定できるわけでもない。お金がないといつもうるさい大学の講師や准教授の姿を見ているからだ。
カフェテリアの片隅で、彼は窓の外に再び視線を戻した。日常の風景がそこに広がっている。それは静かでありながら、どこかで彼を締め付けるような感覚を伴っていた。
コーヒーが冷めていくのを感じながら、彼は席を立った。午後の回診が始まる時間だ。彼は白衣の襟を整えながら、カフェテリアを出る。その足取りは確かなもののように見えるが、心の中にはまだ、言葉にならない感覚が漂っていた。
第2章: 「直美たちの行進」
午後の回診が終わった後、彼はいつものように研修医室に戻った。窓の外はすっかり暗くなり、大学病院の廊下には、ちらほらと夜勤の医師たちが行き交うだけだった。蛍光灯の冷たい光が、疲労した彼の影を机に落とす。
椅子に腰を下ろし、パソコンの画面を開く。患者のカルテを入力する作業をしながらも、頭の片隅には、昼のカフェテリアでの「直美」の話題が居座っていた。
「美容外科か……」
その言葉が彼の中で反響していた。高校時代から一度も揺らぐことのなかった医師としての道。それがこの半年間、周囲の声や状況によって少しずつ変わり始めている。特に最近、彼の同期の中でも「直美」という言葉が目立つようになった。それは、いわゆる美容外科へ進むキャリアの隠語だ。
同期のひとり、坂口が研修医室に戻ってきた。彼は、どこか自信に満ちた様子で笑っていた。坂口は最近、美容外科クリニックの見学に行ったらしい。それが彼の表情に新たな光を宿しているように見えた。
「どうだった?」彼は何気なく聞いた。
「最高だったよ!」坂口は笑顔で答えた。「昼間だけ働いて、それでいてめちゃくちゃ稼げるしさ。技術もそんなに複雑じゃない。経済的にも楽だし、時間の余裕もある。患者さんも全然シリアスな感じじゃないんだよ。むしろポジティブな人たちばかりでさ。」
坂口の言葉は、まるで輝かしい未来への道筋を描いているようだった。それは、大学病院の狭い世界で過ごす彼にとって、異世界の話のようにも聞こえた。そして同時に、その異世界の中に引き込まれそうになる自分を感じた。
「でも、それって医者としてどうなんだろうな?」彼は慎重に問いかけた。
坂口は一瞬だけ黙ったが、すぐに肩をすくめて笑った。「そりゃ人によるよ。でも俺は医者って言っても、生活が大事だと思うんだよね。経済的な余裕があれば、もっと自由に生きられるし。患者を救うだけが医者の仕事じゃないだろ?」
その言葉には一理あるように感じた。それでも、彼の胸にはもやもやとした違和感が残った。「患者を救う」という言葉が、ここまで軽く扱われるものなのだろうか。それとも、彼自身が古い価値観に縛られているだけなのだろうか。
その夜、彼は坂口の言葉を反芻しながらも、研修医室での残りの作業を淡々とこなした。気づけば時計の針は夜の9時を過ぎていた。疲れた体を引きずるようにして病院を出ると、冷たい夜風が彼の頬を撫でた。
帰り道の途中、彼はふと立ち寄ったコンビニで缶コーヒーを買った。店内のレジ横には、華やかな美容雑誌が並んでいた。表紙には、完璧な笑顔を浮かべたモデルが「美しさへの投資」といった言葉を掲げている。その眩しさに彼は目を細めた。
「美しさへの投資……」
その言葉には、坂口が話していた美容外科の世界が凝縮されているように感じた。冷たい缶コーヒーを手に持ちながら、彼は雑誌の表紙を眺めていたが、結局それを手に取ることはなかった。
家に帰ると、彼は靴を脱ぎ、部屋のソファに体を沈めた。天井を見つめながら、直美たちの進む道のことを考えた。そこには輝きがあり、自由があり、そして経済的な成功があった。その道は、確かに魅力的に見える。しかし、自分がそこに足を踏み入れた時、果たして自分は満足できるのだろうか?
ソファに横たわる彼の頭の中で、坂口の声とカフェテリアでの会話が入り混じり、響き続けていた。それは、彼の心に静かに波紋を広げていくようだった。
第3章: 「薄暗いバーでの会話」
その夜、彼は同期の坂口と駅前の薄暗いバーにいた。古い木製のカウンターと小さなテーブル、壁に掛けられたビンテージのポスターが、店内にどこか懐かしい雰囲気を醸し出している。低く流れるジャズが心地よく耳を包み、アルコールの香りが空気に混じっていた。
坂口はビールのグラスを片手に、大げさな身振りで美容外科の話を続けていた。
「この間見学したクリニック、すごかったよ。待合室には高級ブランドのバッグやら時計やら持った患者さんがずらっと並んでてさ。診察室も高級ホテルみたいだった。院長の車、ポルシェだぜ、ポルシェ。」
坂口の話はどこか現実味を失っていたが、その中には確かに魅力があった。彼は黙って坂口の話を聞きながら、目の前のウイスキーグラスを回していた。琥珀色の液体がグラスの中で静かに揺れる。その動きが、彼の心の中に広がる迷いのように思えた。
「坂口、お前は本当にそれでいいと思ってるのか?」
彼は静かに問いかけた。
坂口は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに軽く笑って答えた。「いいも悪いもないさ。自分が何を求めてるかだけだろ?俺は医者として稼ぎたい。自由な時間を持ちたい。それだけだよ。」
彼は言葉を返せなかった。坂口の言葉には、一種の確信と覚悟が感じられた。それが正しいかどうかは別として、少なくとも坂口は自分の道を選びつつある。だが、彼はその覚悟が自分の中にはまだないことに気づいていた。
「それで、お前はどうするんだよ?」
坂口がウイスキーグラスを指差しながら尋ねてきた。「直美に行く気はあるのか?」
彼は少しだけ息を飲んだ。自分の心をさらけ出すのは、どこかで怖かった。しかし、この場で何かを言葉にしなければならない気もした。
「正直、わからない。」
彼はグラスを見つめながら答えた。「美容外科の話を聞くと、確かに魅力的だと思う。でも、それだけじゃない。なんていうか、医者としての使命感とか……そういうものが捨てきれないんだ。」
坂口はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。「使命感ね。まあ、お前らしいっちゃお前らしい。でもな、使命感で飯は食えないぜ。」
その言葉はどこか現実的でありながらも冷たかった。彼は坂口の言葉に反発する気力もなく、ただ自分の中で渦巻く感情を整理しようとしていた。
バーの入り口のベルが小さく鳴り、新たな客が入ってくる音がした。彼はそれに目を向けたが、すぐにまた視線を戻した。坂口は楽しそうにグラスを傾けている。まるで、すべてが決まっているかのような余裕のある表情だ。
「お前も、もっと肩の力抜けよ。」
坂口がウイスキーを飲み干しながら言った。「考えすぎてもしょうがないだろ。」
彼は軽く笑ってみせたが、その笑顔はどこかぎこちなく、自分でもそれを感じていた。店内に流れるジャズの旋律が一層深く彼の胸に響く。その音は、まるで彼自身の迷いを反映しているかのようだった。
会計を済ませて外に出ると、冷たい夜風が二人を迎えた。坂口は軽く手を振ってタクシーに乗り込み、あっという間に闇の中に消えていった。彼は一人きりで夜空を見上げた。星がぼんやりと瞬いている。
「使命感……か。」
彼は小さく呟いた。その言葉は冷たい風に流され、消えていった。
彼は立ち止まったまま、夜の静寂の中に佇んでいた。坂口の言葉、ジャズの旋律、そして自分の心の奥底にある何か。それらすべてが交じり合いながら、彼の中で静かに渦を巻いていた。
第4章: 「自分を映す鏡」
翌朝、彼は病院の休憩室にいた。窓から差し込む淡い冬の光が、白い壁をぼんやりと照らしている。コーヒーを片手に椅子に腰かけながら、昨日の坂口との会話が頭をよぎった。使命感で飯は食えない——坂口の言葉は妙に現実的で、反論できない重みを持っていた。
彼は目の前のテーブルに目をやった。そこには同僚たちの残した転職系の医療雑誌が数冊散らばっている。その中の一冊に目を留めた。「美容外科特集」と書かれた表紙が目に飛び込む。なぜかその雑誌を手に取り、ページをめくってみる気になった。転職エージェントたちと一緒に転職した医師達が華やかに写真に写っている。
そこには、成功した美容外科医たちの華やかなインタビュー記事が並んでいた。ある医師は、「自由な時間を手に入れることで、本当に充実した人生を送れるようになった」と語り、別の医師は「患者の満足した笑顔を見ると、この仕事に誇りを感じる」と自信満々に述べている。それらの言葉は魅力的で、心地よい響きを持っていた。
しかし、その一方で、彼の中にはどこか不安があった。それは、表面的な輝きの裏側にある何かを直感的に感じ取ったからだった。ページをめくる手を止め、彼は深く息をついた。
「俺は何をしたいんだろう?」
声に出してみたが、その答えはすぐには見つからなかった。彼は雑誌を閉じ、机に戻した。窓の外には、大学病院の駐車場が広がっている。昨日と同じように、無機質な景色がそこにあった。
その日、午後のカンファレンスが始まる前に、彼は病院内の控室で同期の鈴木と話をした。鈴木は真面目な性格で、医師としての使命感に燃えているようなタイプだ。彼とは対照的に、鈴木は迷いなく循環器内科を志望していた。
「美容外科の話、聞いたことあるだろう?」彼は鈴木に尋ねた。
「あるよ。でも俺は興味ないな。」鈴木は即答した。「もちろん収入は魅力的だろうけど、それだけのために医者になったわけじゃないし。」
「使命感、か?」彼は鈴木の言葉を拾った。
「そうだな。結局、自分が何のために医者をやってるのか、そこに尽きるんじゃないかと思うよ。」鈴木は真剣な顔で答えた。「俺は患者さんの命を支えることにやりがいを感じる。それが大変でも、自分がそう感じるなら、それでいいと思ってる。」
その言葉は彼の胸に深く刺さった。それは、自分がずっと探し求めている答えの一部かもしれないと感じた。しかし、同時に彼は気づいた。自分にはまだその確信がないことに。
その夜、彼は帰宅後に鏡を見つめた。疲れた顔がそこに映っている。鏡の向こうにいるのは、何をしたいのか迷い、揺れている自分だった。
「美容外科に進むか、それとも今の道を続けるか……」
彼は自問した。その答えが何なのか、まだわからない。ただ、どちらの道を選んだとしても、そこに正解があるとは限らないのだろう。彼は鏡越しに自分の目を見つめながら、静かに思った。
「俺にとって、本当に大切なものは何なんだろう?」
その問いは、夜の静寂の中で彼の心に響き続けた。時計の針は淡々と進むが、彼の中では何かが停滞しているようだった。選択肢は目の前にある。それをどう選ぶかは、まだ自分次第だ。
鏡に映る自分の姿を見つめながら、彼は小さく息を吐いた。ジャズの旋律が頭の中に流れる。その音は、彼の迷いをなだめるようでもあり、さらに深く引き込むようでもあった。
第5章: 「止まった時計と、選ばれなかった未来」
日曜日の昼下がり、彼は病院近くの中庭に立っていた。病院の建物を囲むように広がる小さな庭園は、人影もなく静まり返っている。冬の冷たい空気が肌に触れ、枯れた木々が風に揺れていた。
目の前には古びた時計台がそびえ立っている。時計の針は動いていない。それが何年も修理されていないことを、彼は知っていた。止まった針の示す時刻は午後2時半を指したままだ。彼はその針をぼんやりと見上げながら、ここ数週間の出来事を思い返していた。
坂口の話、美容外科の輝かしい未来、そして鈴木の使命感に満ちた言葉。どちらにも魅力があり、どちらにも影があった。それらを繰り返し考えたところで、自分にとって何が正しいのか、何が望ましいのか、答えは出ないままだった。
「美容外科に進めば、経済的な成功と自由を手に入れられるかもしれない。でも、それで俺は満足するのか?」
自分に問いかけてみても、明確な答えは浮かんでこなかった。それどころか、自分が本当に何を望んでいるのかさえ、はっきりとはわからなかった。
中庭のベンチに腰を下ろすと、冷たい金属の感触が背中に伝わってきた。ポケットからスマートフォンを取り出し、無意識にスクロールを始める。SNSには、美容外科の成功を自慢する医師たちの投稿が溢れている。高級車、豪邸、リゾート地での休暇。それらは、彼にとって一つの理想像のように思えた。
だが、画面を閉じると、また虚しさが押し寄せてくる。それは、坂口が言っていた「使命感で飯は食えない」という現実の冷たさとも、鈴木が見せた「命を支えることへの誇り」の重さとも違う、どこか中途半端な感覚だった。
彼は目を閉じた。頭の中で、バーで聞いたジャズの旋律が再び流れ始める。それは心を落ち着かせるようでいて、同時に新たな問いを投げかける音だった。彼の心の奥底で、何かが動き出そうとしているようにも思えた。
「もし俺がどちらの道も選ばなかったらどうなるんだろう?」
ふとそんな考えが浮かぶ。美容外科に進むのでもなく、大学病院での研修を続けるのでもない、新たな選択肢。だが、その具体的な形はまだ見えなかった。それは霧の中に隠れた風景のようであり、彼が進むべき道筋を示しているわけではない。
彼は時計台を見上げた。止まった針は、時の流れを否定するようにそこに存在している。その不動の姿に、彼はなぜか安堵のような感情を覚えた。決断を急ぐ必要はない——そう思えるような気がした。
「選ばれなかった未来も、どこかで続いているのかもしれないな。」
彼はポケットにスマートフォンを戻し、立ち上がった。病院の建物に向かって歩き出す。どちらの道を選ぶにせよ、それが正解かどうかを知るのは、もっとずっと先のことだろう。
風が冷たく吹き抜ける中庭を背に、彼の足音が静かに響いた。時計台の止まった針は、相変わらずその場に留まり続けている。それでも彼は、その光景をどこかで受け入れた自分を感じていた。
病院のドアを開けると、日常の喧騒が彼を迎えた。遠くから患者の呼ぶ声や看護師たちの足音が聞こえる。その音の中で、彼は静かに歩を進める。
彼の頭の中には、止まった時計と坂口の笑顔、鈴木の真剣な眼差し、そして自分自身が映る鏡のイメージが混在していた。それらが、これからの自分を形作るのだろうか?それとも、それらを超えて何かを見つけ出せるのだろうか?
答えはまだ出ない。しかし、それでいいのだと彼は思った。