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医師という名の幻想と、減り続ける10年後の医師の未来の物語
第1章:薄曇りの朝、僕は内視鏡を握っていた
2035年1月x日。薄曇りの朝だった。窓の外には灰色の空が広がり、遠くの建物が輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。僕は病院の処置室で内視鏡を握りしめ、患者の胃の中を覗き込んでいた。モニターには滑らかな粘膜の風景が映し出されている。毎日見慣れた景色だ。
内視鏡を操作する僕の手は、もうすっかりこの作業に馴染んでいる。高校時代からの努力の積み重ねで、僕は消化器内科の専門医になった。成績はいつも良かったし、将来の目標も明確だった。医師になることに迷いはなかったし、僕が選んだ道は間違っていないと信じていた。でも、そんな確信が少しずつ揺らいでいることに最近気づく。
医療業界は10年前から静かに変わり始めていた。医学部の卒業を控えた頃、先輩たちが「昔に比べて給料が下がっている」と口を揃えて言っていたのを覚えている。僕はそれを他人事のように聞き流していたけれど、実際に医師として働き始めると、その言葉が現実だと思い知らされた。僕の年収は700万円ほど。確かに悪くはない数字だ。でも、10年前の先輩たちが2000万円近く稼いでいたことを思うと、世代間の格差が痛感される。
処置を終えた患者が「ありがとうございました」と小さく頭を下げて診察室を出ていった。僕はモニターを消し、次の患者のカルテを確認する。静かな処置室に漂う消毒液の匂いが妙に胸に引っかかった。
診察の合間に同期の医師たちと話をすると、みんな似たようなことを言う。家庭を持つ余裕なんてないし、将来への希望もどこか薄い。病院を辞めてプライベートクリニックに転職するか、それとも独立して開業するか。その話題が出るたびに、僕の胸の中に小さな波紋が広がる。
その日は曇り空のまま、とうとう一滴の雨も降らずに終わった。灰色の雲はどこか重苦しく、心の中に残る不安の影のようだった。けれど僕は、内視鏡を洗浄しながらふと考える。この空の向こうに青空があることを、どうして僕は忘れられないのだろうか、と。
こうして僕の1日が終わった。けれど、それは何か新しい物語の始まりのような気もしていた。
第2章:減り続けるものたち
日曜日の午後、病院のカフェテリアに同期の高橋と座っていた。彼は僕と同じく消化器内科の専門医で、穏やかな笑みを浮かべながらコーヒーを飲んでいる。彼が話す内容は、僕の頭の中で繰り返し響くようなテーマばかりだった。給料の話、未来の話、そして何かが「減り続けている」という話。
「お前さ、最近どうよ?」高橋が聞く。
「どうって?」と僕は曖昧に返す。
「収入とか、生活とか。正直、厳しいだろ?」
僕は言葉を濁した。本当のところを言えば、彼の言葉には強く同意していた。僕たちの世代の医師は、以前と比べて明らかに収入が低い。700万円という数字は、悪くないが、良くもない。とりわけ、医師という職業に期待されるステータスを考えれば、失望にも似た感情が湧いてくる。
「先輩たち、今も2000万くらい稼いでるらしいよ」と高橋は続ける。「でも俺らの世代じゃ無理だよな。病院の経営も苦しいし、患者数も減ってるしさ。」
僕は頷きながらカップを持ち上げた。コーヒーはもう冷めていて、苦味だけが舌に残る。高橋の言葉は現実だった。僕たちの世代は、減り続けるものたちの中で働いている。収入だけではない。希望や余裕、未来への期待すらも、少しずつ削られている。
僕はふと、去年結婚した大学時代の友人を思い出した。彼は医師ではなく、外資系企業に勤めている。給料は僕の倍以上で、ヨーロッパの高級リゾートで結婚式を挙げた写真がSNSに溢れていた。その一方で、僕の生活はどうだろうか?休日は疲れを取るだけで精一杯で、結婚なんて考える余裕すらない。
「お前、開業とか考えてる?」と高橋が言う。「俺の知り合いで、クリニック始めたやつがいるんだよ。最初は大変だったけど、今は結構稼いでるみたいだ。」
その言葉は、僕の中に小さな火を灯したようだった。開業なんて、考えたこともなかった。リスクが大きいし、失敗したらどうする?けれど同時に、その言葉は妙にリアルに響いた。もしかしたら、ここから抜け出す道はそこにあるのかもしれない、と。
その夜、僕はベッドに横たわりながら天井を見つめていた。昼間の高橋の言葉が頭の中でぐるぐると回り続ける。「減り続けるものたち」というフレーズが、まるで僕の人生そのものを暗示しているようだった。
そして、気づけばいつの間にか目を閉じていた。灰色の夢の中で、僕は何かを探していた。明確ではないが、確かにそこに何かがあった。
第3章:プライベートクリニックの誘惑
昼休み、僕は何気なく医局のパソコンで求人サイトを開いていた。「医師 転職」「クリニック 給与」そんなキーワードを打ち込むと、画面には数多くの求人が表示された。どれも「高収入」「柔軟な働き方」といった甘い言葉が並んでいる。それを眺めているうちに、僕の中で妙な感覚が芽生えた。
「お前もついに考え始めた?」背後から聞こえた声に振り返ると、そこには高橋が立っていた。彼は僕の画面を覗き込み、にやりと笑った。「みんな同じだよ。結局、病院じゃ先が見えないって気づくんだ。」
「本当にうまくいくのかな?」僕は思わず口に出していた。
高橋は肩をすくめた。「最初は大変だと思う。でも、俺の知り合いでクリニックを開業したやつが言ってたよ。自分で決めた道を歩く自由、それが何よりの報酬だって。」
その言葉は僕の中に深く響いた。病院での仕事には確かに安定感がある。しかし、その「安定」はどこか窮屈でもある。指示に従い、限られた時間で患者を診る日々。自分の裁量はほとんどなく、ただルーティンを繰り返すだけ。そんな生活に、僕はもう疲れ始めていたのかもしれない。
夜、高橋の話を頭の片隅に抱えながらランニングに出た。冷たい風が肌を刺す。何も考えずに走るのは、頭をクリアにするのにちょうど良かった。いつものように人気のない路地裏に差しかかったとき、1匹の猫が僕の足元を横切った。
「おい、君も何か探してるのか?」と、僕は冗談めかして声をかけた。当然、猫が返事をするわけもない。それでも猫は立ち止まり、じっと僕を見つめていた。その目は何かを訴えるようで、奇妙な安心感を覚えた。
しばらく猫と向き合った後、僕はまた走り出した。すると、ふと頭の中で一つの考えがはっきりと形を持ち始めた。「転職や開業、リスクはある。でもこのままここに留まっていても、何も変わらない。」
その夜、布団の中でスマートフォンを手に取り、再び求人サイトを開いた。高橋が言っていた知り合いのクリニックを検索すると、すぐにそのホームページが見つかった。「患者と向き合う、自由な医療を。」そんなキャッチコピーが画面に浮かび上がる。それを見つめていると、不思議なことに恐怖よりも好奇心が勝っていた。
もしかしたら、これが僕が探しているものかもしれない。そんな思いが胸にわき上がる。曇り空の向こうに微かに光が差しているような、そんな感覚だった。
第4章:夜のランニングと猫のいる路地裏
冷たい風が肌を刺す夜だった。暗闇の中、僕はいつものようにランニングシューズを履き、家を出た。足元を確かめるように一歩一歩走りながら、頭の中は妙に静かだった。昼間、求人サイトで見つけたクリニックのホームページを思い返していた。考えれば考えるほど、僕の心の中で何かが動き出しているのがわかった。
「自由な医療を。」あのキャッチコピーが頭に浮かぶ。自由とはなんだろう?自由な働き方?自由な収入?それとも、自分で選択できる人生そのものを指しているのだろうか。僕はその答えを見つけられないまま、ただ足を前に運び続けた。
路地裏に差しかかると、いつもの猫がいた。三毛猫だ。何かを探しているようにあたりを嗅ぎ回り、僕に気づくと一瞬だけ視線を向けた。僕は足を止め、息を整えながらその猫に向かって声をかけた。
「また会ったな。君も何かを探してるのか?」
猫は答えない。ただしばらくじっと僕を見つめてから、気まぐれにふっと方向を変え、闇の中へ消えていった。その後ろ姿を見送りながら、僕は自分自身に問いかけた。僕は何を探しているんだろう?そして、その答えはどこにあるのだろうか?
クリニックの開業という選択肢を考えれば考えるほど、胸の中に湧き上がるのは不安だけではなかった。その先にある可能性が、ぼんやりとした光のように僕を誘っていた。もちろん、リスクは計り知れない。失敗すれば、すべてを失うかもしれない。だが、このまま病院に留まり続けても、得られるものは少ないだろう。その現実を僕は、冷たい夜風とともに肌で感じていた。
家に帰ると、冷えた体をシャワーで温めながら、ふと決意が芽生えるのを感じた。すべてが具体的に形になったわけではない。けれども、心の中で次の一歩を踏み出す準備が整いつつあることはわかっていた。リスクを恐れて何もしないままでいるのか、それとも一歩を踏み出して新しい何かを掴みに行くのか。その問いの答えが、少しずつ僕の中で固まり始めていた。
その夜、僕は珍しく早めに布団に入った。眠りにつく前、猫の瞳が脳裏に浮かんだ。その目はまるで「進むしかない」と告げているようだった。閉じた瞼の向こうで、僕の心は静かに覚悟を決めつつあった。曇り空の向こうに広がる青空を信じて、僕は新しい道を探し始めるのだと。
第5章:曇り空の向こうに広がる青空
クリニックの扉を初めて開けた日は、薄曇りの朝だった。僕はコートの襟を立てながら空を見上げた。雲の切れ間からわずかに青空が覗いている。それはまるで、新しい未来の予兆のようだった。
半年間の準備は決して平坦ではなかった。銀行との融資交渉、物件探し、設備の選定、スタッフの採用。すべてが初めての経験で、何度も壁にぶつかった。夜遅くまでパソコンに向かい、頭を抱えながら計算する日々は、病院でのルーティンとはまったく異なる緊張感に満ちていた。それでも、不思議と後悔はなかった。自分自身で選び、自分の手で進めているという感覚が、僕を支えていた。
「先生、準備できました。」受付のスタッフが声をかけてくる。彼女は今回の採用で一番最初に決まった人で、明るい笑顔が印象的だ。その笑顔を見ると、不安も少し和らぐ気がした。
診察室に入り、机の上に座った。窓から差し込む光が、白い壁を柔らかく照らしている。ここが僕の新しい場所だ。この空間で、僕は患者と向き合い、自分なりの医療を提供していく。心の奥底から、静かな決意が湧き上がってくる。
最初の患者がやってきた。50代の男性で、胃の不調を訴えている。問診を終え、内視鏡を使って診察を進める。モニターに映し出された光景は、これまで何千回と見てきたものと同じだ。けれども、今日はどこか違って感じられた。僕がこの患者を診る責任は、今や完全に僕自身にある。誰かの指示ではなく、僕の判断がすべてを左右する。
診察が終わると、男性は何度も感謝の言葉を口にして帰っていった。その背中を見送りながら、僕はふと気づいた。自分がここにいる意味を初めて実感できたのかもしれない。
午後、少し時間ができたので、窓の外を眺めた。雲はすっかり晴れ、青空が広がっている。クリニックの周りには小さな商店や住宅が並び、穏やかな雰囲気が漂っている。僕はランニングシューズを履いて、この街を走る姿を想像した。あの猫にも、また会えるだろうか。
この道を選んだことが正解だったのかはまだわからない。でも、確かなのは、僕がこの道を選んだという事実だ。迷いも不安もまだ消えないが、それでも前に進む覚悟が僕を支えている。
窓の外を見上げると、青空がどこまでも続いているように見えた。その空は、まるで「これからだ」と告げているようだった。そして僕は小さくうなずき、診察室の扉を開ける準備をした。この場所が、僕の新しいスタート地点だ。
高橋のLineに返事をする。
「今年の年収は見込みで5000万円前後。」