「戦争と平和」 2️⃣ 第二部 第一篇 第二篇 トルストイ感想文
「自分の立場からすれば正しかった」(岩波文庫 2巻 p.312)
人はその時の立場でしか判断する術を持たず、思いもかけない感情の爆発を止められないまま、人生をも揺るがす行動を起こしてしまう瞬間があるのだ。それが若気の過ちであっても。
主人公のピエール・べズーホフが妻エレンの不貞の相手、ドーロホフに決闘を突きつけ、結果、相手を傷つけ、自分も人生最大の心の傷を負ってしまった。何の確信もないままに。性格の弱い受け身で人のいいピエールが、予想通り爆発してしまった瞬間を思った。
「正しいのはだれだ、悪いのはだれだ」(p.312)、誰もわからない、誰も決められないまま進んでいってしまう止められなかった決闘は、恐ろしいあの戦争にも重なった。
《おれは一度もあの女を愛したことはなかった》(p.311)
それを認める「勇気」のなさが、自らの運命を決めていったのだ。
愛せない女になぜ嫉妬したのだろう。周りに流されてしまう危うさが、いつも真実の中にいないピエールの生きる実感を無くしてしまう。
「神を信じていない」というピエールが真理を求めて秘密結社に入会する。あまりの共感の早さに自分の意思は、と問いたくなる場面もあり、その服従していく姿にも危うさの陰が付き纏っていたように感じた。
「立場」という観点から考えると、この小説には、親からの遺産で生きられるピエール、アンドレイ、ニコライと対照的に、遺産などないボリス、ドーロホフ、デニーソフの生き方が、それぞれの個性で先鋭的に描かれていて面白い。
出世の処世術が生きる指針のボリス、母を深く愛する純粋さと相反して恨みや嫉妬を親友にまで向ける冷酷なドーロホフ、外見からは想像がつかないロマンチストで部下思いのデニーソフ、そのデニーソフを最後まで助けようとするニコライの姿に、考えさせられる読みどころ満載の小説だ。
そして戦争に絶望し、心身ともに傷を負い消息不明だったアドレイ・ボルコンスキーが無事帰還した。
彼もまた自分の立場の正当性を推し進めて生きてきた、父の厳格さを受け継ぐ人である。
ナポレオンのように国民的英雄になりたいという志と、戦争への理想と聡明な冷淡さを持つアンドレイが、最も枢機な部分を見失ってしまったのが妻との関係だった。
かけがえのない大切な妻からの愛情も、また生まれた子に対しても、自らの湧き上がるような真の愛情を見出しながら帰還したアンドレイ。しかし妻リーザは亡くなってしまった。
愛というものがこれ程悲しい出来事を経て、やっと本当の姿を現したのだという、この「時」の行き違いに過酷な運命を感じた。
アンドレイの人生が崩れ落ちていくようなこの刹那の深い悲しみと哀惜に心震える思いがした。
引用はじめ
「彼は驚いて、目を離さずに、自分の親友をみつめていた。アンドレイに生じた変化が彼を驚かせたのだ。そのことばはやさしく、唇と顔には微笑が浮かんでいたが、目には光がなく、死んでいて、アンドレイ、はその目にうれしく、楽しそうな光を添えようと明らかに望んでいながら、それができずにいた。親友は痩せて、青白くなって、老成したというわけではなかった。だが長いあいだ何か一つのことに集中している様子の見えるこの目つきと一本の額のしわがピエールを驚かせそれに慣れるまで、親しめなかった」(p.474)
引用おわり
アンドレイとピエール、二人とも多くの悲痛な体験の後に、共に自分の領地で義務を果たすことに落ち着き、久々に再会するシーンだった。
アンドレイの深い心の傷を、隠してもその姿から伝わる寒々しさを、まるですぐそばで見るように伝わってくる文章力に心射抜かれた。
すべて刻み込まれた彼の憔悴しきった顔、この文章の中にアンドレイの過去が刻々と伝わってくるのだ。こんな表現があるのか。そのトルストイのすごさに愕然としてしまった。
このシーンに特に涙腺が緩み、アンドレイの冷たくなった心の空洞を捉えることのできる文章力にとにかく驚かされた。
おやじは優れた人間だが、「無期限な権力が習慣になっている」と、父ボルコンスキー老公爵の暴走を「救ってやれる」のは自分だけであるといい、父の部下に留まるアンドレイの姿にもとても惹かれた。
人の心の疼きや深い傷、渇き、潤い、優しさ、狡さ、一人一人の人物が刻一刻と迫ってくる。
この精緻な描写にトルストイの偉大さを感じながら、喜びをひしひしと噛み締めながら読んでいる。