「書記バートルビー」 メルヴィル 感想文
「今のは空耳だったんだ」(光文社古典新訳文庫 p.31)
以前、問題ある後輩に「なぜそんな嘘をつくの?」と聞いたことがあった。
そして彼女は、「私は気にしませんから」と答えた。
一瞬これは夢なのかと、今立っている場所がどこなのかわからなくなるような、思いもよらない言葉に茫然自失したことがあった。
1850年代、法律事務所で書類を写す仕事、法律筆耕人バートルビーという男を、弁護士であり雇い主「私」の目線で語っている。
そして期待していた書記バートルビーに仕事で頼み事をすると、ことごとく拒絶されてしまうというとても奇妙な出来事が起こる。彼の心に何が潜んでいたのか。
「私はしない方がいいと思います」
(I would prefer not to.)と、驚愕の言葉を、激情的ではなく静かで真面目な態度のこの拒絶が難解なのだ、余程暴れてくれた方がわかりやすいと思う。
引用はじめ
「先例がない形、また過激なほど非合理的な形で断定されると、断定された側の人は、どんなに徹底した信念を持っていても、たじろぎ始めてしまうものです。不思議なことかもしれませんが、そんな目にあった人は、すべての正義もすべての道理も、もしかしたら相手方にあるのではないか、などとぼんやり思い始めるものです」(p.36)
引用終わり
この雇い主の言葉が、まさに「私は気にしませんから」と言われた瞬間の私の気持ちだった。《もしかしたら私が間違い?》と首を横に振っていた。
雇い主は、若干独りよがりの親切を満足しながら与えているように思えた。周りに自分がどう見えているのかを気にしながら。しかし人柄はとても良いのだ。
こういうタイプの経営者には、なぜか、かなり難しいユニークな部下ばかりが寄ってくる。破天荒な部下達に合わせている感じがちょっと情けなく見えてしまった。
こんなに理不尽なことを繰り返し言われても、悪意のない彼を、「何とかしなければ」と思っている弁護士がバートルビーの見えない何かを感じ取っていたようにも思えた。
「何か至高の考えが彼の中に働いて、彼を説き伏せ、あのようにいわせたのではないか」(p.35)と、彼の優れた部分が経験から見えたのか。
バートルビーは、沈黙の中に何か動かないものを静かに持ち続けていて、それを貫こうとしているように私には思われた。
ビルの壁に囲まれていた事務所、更に緑色の折りたたみ戸で仕切られた狭い空間がバートルビーの安心できる居場所であったのだろう。ただそこにいられる場所のみを、「私に与えてくれ」と、無言で欲しているように感じた。
「圧倒的な孤独感」、それは雇い主の目から見えたものであって、バートルビーは既に自分の運命を自分で決めていたと、ある意味振り切れて心は自由だったのではないかと、そして彼の魂はもう別の場所へ既に向かってしまっていたのではなかったかと想像してみた。
「今ここに存在しなければいい、できればそうしたい!どことも誰ともまったく繋がりたくない!」というバートルビーの静かで穏やかな声が聞こえてきそうだった。
いつも壁を見つめていたのはなぜだろう。壁の奥にある完全な世界を感じていたのだろうか。もはやこの世の景色など眼中になかったのか。
静かに死ねる場所を探していたのかもしれないと深い痛みと穏やかな完遂を望んでいたように思えた。
バートルビーは、前職で郵便局員として「配達不能郵便」、デッドレターズという届かない手紙を毎年荷車一杯焼却していたという。
届くはずの相手はもうすでに亡き人になっていた。
届かなかった手紙のそれぞれの差出人の思いの深さが突き刺さるように彼の心を蝕んでいったのだと。
亡骸を燃やすより、強い思いと心を燃やすような罪に苛まれていたのだろうか。
そして彼は生きている今の世界を彼の視点でくまなく見破り、見限っていったのかもしれない。ただ写すだけの書類が、どのような結果を引き起こすかが想像も出来ずに。すべてが意味を失ってしまって絶望の中にいたとしか思えなかった。
最後に辿り着いた、「墓場(刑務所)」で、あの緑多き庭で、食事を拒否し餓死したことは、貫き通したバートルビーの強い意志だったのだと、そこまでしか考えられなかった。