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「冬の日」 梶井基次郎 感想文

近頃散歩する時間をもてるようになった。
冬の晴れた日の空の美しさが、繁忙なる自分の生活を後悔させる程に目を見張らせてくれる。
昨日見た樹々の姿は、今日はまるで色も形も違っている。
冬の風が秋色の景色を変える。その変化にも全く気付かない生活を自分は送っていたのだな、とつくづく思っている。

自分の命の消滅を感じながら、疲労の中に紅いものを吐く、そんな苦しみの中で自らの存在さえも見失っていたら、冬の景色も太陽の日射しも全く別の新しい感覚で見えてくるのだろうと感じた。
その痛みが切ない程に伝わる小説だった。

主人公の「尭」、その絶望の中にある落胆や諦めや無感動が、意識の高まりと憔悴とを繰り返しながら、心の納めどころを毎日探していた。

「住むべきところをなくした魂」p.163、は、外界へ外界へ。

「激しい滅形を感じた」p.166と、この世から消えてしまうという感覚の中で、何とか正常な自分を取り戻そうと生きている姿があまりに悲しかった。

意識の中に現れるその形や情景は自らの経験と体験から思い出され、現れてはまた消えていく。
そこで自らを保ち続けられる何かを求め彷徨う孤独な姿が目に浮かんだ。

尭の住んでいる家の近くの早くに戸を鎖したその木戸の木肌からある旅情の感情が浮かぶ。 

引用はじめ

—— 食うものを持たない。どこに泊まるあてもない。そして日は暮れかかっているが、この他国の町は早や自分を拒んでいる ——
それが現実であるかのような暗愁が彼の心を翳っていった。またそんな記憶が嘗ての自分にあったような、一種訝しい甘美な気持ちが尭を切なくした」新潮文庫 p,171

引用おわり

この部分がすごく良くわかる。

思い出の記憶ある何かを見た瞬間、旅の孤独と悲しさのようなものがこみ上げてきて、一気に感傷的に揺り動かされること、その時の自分の苦しみや置かれた有様が心によぎり、胸をしめつけるのだが、それが何とも快い、「甘美」な気持ちにさせてくれるのだ。
切なさ悲しさの刹那の陶酔のよな、そんなことを私も体験したことを思い出した。
その孤独や苦しみの中の刹那の「甘美」さをその何ともいえない思いを、多くの詩人や小説家は表現したいのではないかと思った。
「だから生きられる」というところが確かにあるのだ。

「冬の日」、


引用はじめ

「そしてその不思議な日射しはだんだんすべてのものが仮象にしか過ぎないということや、仮象であるゆえ精神的な美しさに染められているのだということを露骨にして来るのだった」p.176

引用おわり

時が止まり、動きのない尭の部屋に10月のままになっている星座表がある。その目盛を動かしていた友人の折田は、「君の心はしっかりこの部屋にあるのだよ」、と言う、「冬の日射し」のような存在であったように感じられた。


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