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果ての世界の水族館

 もはやこの水族館には魚も人もいない。いや志保という青年と名も知れない彼が殺すべき男だけがいる。崩れかけた建物をいだく緑の半島は枯れ果て、海は赤く変色し、黒ずんだ浜に寄せる波は異臭を放って糸を引く。志保はただ、復讐を果たすためだけにこの地獄で命をつないでいる。

 生臭い海風がじっとりと志保の全身を包み通り過ぎていく。薄汚れた短髪の中を汗が滑り落ち、首に巻いた黄ばんだタオルに吸い込まれていく。志保はオリーブグリーンのショートジャケットの開いた前合わせから片手を突っ込み、内側に隠した短い軍用ナイフの所在を確かめた。
 志保は階段状に作られたコンクリートの段に腰掛け、背中を丸めてただ前を見ている。コンクリートの段の上には色あせたプラスチックの板が残っていた。在りし日は鮮やかな赤や黄色、青色をしていたこれらの板は座席だ。ここは階段ではなく人が座るように設計された場所だった。

 殆ど崩れた屋根越しの空は薄曇り、これは志保が幸せだった少年期から変わらない。しかし海をそのまま切り取ったかのような目の前の巨大なプールの色は変わり果て、今は血のように真っ赤だ。プールの向こうの灰色のステージにはオレンジ色のつなぎを来た殺すべき男が立っている。その表情は目深に被った帽子と口元を覆うマスクでうかがい知れない。
 男を見つめる志保の目は瞬きを忘れたかのようだった。志保の右目から涙が落ちた、左目のあるべき場所には何もないので涙もでない。オレンジ色のつなぎを着た男が青い軍服を着ていた頃、志保と弟にした所業を思い出すたび、志保は怒りの涙を流す。

 た、のしい、いるかしょぉぉえ、ようこ、そ!傾いだ鉄柱にくくりつけられたスピーカーが戦慄くように叫び、ブツンという切断音とともに静かになった。志保の右目が水面を見る。真っ赤な水面がざわざわと揺れ、白いクリームのような泡が湧き出した。そしてその中から、つやつやとした墨色の陶器のような光沢をもった曲面がぷかりと浮かびあがる。何かの頭だ。

「ぎぃ!ぎぃぃぃ!」

 女性を思わせる細面が水面から顔を出し叫ぶ。真っ黒な口の中には割れたガラスのように鋭い歯が何本も生えている。細長い首、黒いかぎ爪が生えた両腕、筋肉が詰まった腹、腰にもう一対の腕、太く長い尾びれ、それらのパーツが高速で水面に飛び上がり、重たい体が淡い太陽を背にして宙返りした。志保は男から目を離し、人魚のようにも見える化け物の影を目で追った。天頂で、いるかの化け物は尾びれを振った。
 轟音ともに化け物がプールに沈み、真っ赤なしぶきが志保の全身を濡らす。化け物はプールを一周するとつなぎの男が立っているステージに滑るように上がり、イルカの胸びれが生えているべきところから飛び出た手を男に寄せた。まるで内緒話をするかのような仕草だが、化け物の手のひらは男の姿が隠れるほどに大きい。

「ドク!お客様がいるわ!セレスティンのショーに久しぶりのお客様!でもなんてことスピーカーが壊れてる!ねえ直してほしいって言ったのに……」

 セレスティンは悲しげに沈黙したスピーカーに目をやると、背中を精一杯曲げてかがみ、男を黒くつややかな瞳で見つめる。男が首を横に振った。

「そうね。どんなときでもショーはマストでゴーね。やりましょう。スピーカーがないならセレスティンがうたえばいいのです」

 志保は胸元に隠したナイフを握って震えていた。化け物には見覚えがある。まだ人類がまともに争い合っていた頃、海のあちこちに放たれた生体兵器だ。軍艦の船底を素手で引き裂いては沈めまわっていた。それが水面から飛び上がってこちらを威嚇し、殺すべき男を腕で隠すように護っている。そしてその兵器は滑るように水面に戻った。

「ら、ららら~わたしはセレスティン~ななつの海をおよいで~きました~」

 セレスティンは歌いながら赤い水面を縫うように泳ぎ回って見せた。セレスティンの目は極めて高性能で水の中にいても空中に飛び出しても、志保が片目を丸くして自分を見ていることが分かった。セレスティンは人間のように微笑んだ。どきどきと高鳴る鼓動に尾びれが自然と水面を強く叩いた。

 化け物は金切り声を上げて狂ったようにプールの中を泳ぎ回っている。志保は唸った。男は化け物に身を守らせているのだろう。化け物は志保を近寄らせまいと何度も強靱な尾びれで水面を叩いている。

「セレスティンとうたいましょう~」

 志保の奪われた左目が最後に見たものは弟の最期だ。もはや人が長く生きられないこの地で志保に二度目はない。残された右目を見開き、志保は化け物の動きを捉えようとした。化け物は幾度も小さく水面に飛び上がったあと、大きなジャンプで水面を離れる。いち、に、さん、志保は無意識に口ずさんだ。よん、志保は走り出す。
 化け物が高く飛び、空中で三回転し、空気を揺るがすような声を上げた。

「お客様!ステージはだめです!危ないです!」

 プールの縁に沿って走る志保の姿が目に入り、セレスティンは悲鳴を上げた。しかし中空でもがこうとも、もはや重力に任せて着水することしか出来ない。
 志保はナイフの黒いさやを捨てた。糞を塗りたくった刃の鈍い輝き。低くナイフを構えて走る志保の姿が間近に迫ろうとも、ステージの上に立った男は身じろぎもしなかった。着水の轟音。化け物の体積がプールの水を押しのけ、真っ赤な水しぶきが雨のように二人の間に降る。志保の叫びは音にならない。切っ先が男の胸、肋骨の合間に届く。志保は左手の平でナイフの柄を押し込んだ。

「……?」

 ナイフは確かに男の胸に刺さった。しかし感じられるべき手ごたえを感じることが出来なかった。錆びた鉄のような生臭さに志保が顔を上げると、男の顔があるべき場所には干からびた肉がわずかに残った骸骨があった。

「あ……」

 しめった滑らかなロープのようなものがナイフを握ったままの志保の右手に巻き付いていく。男のつなぎの袖から顔を出した緑青色の蛇が志保の腕を這い上がり、まぶたのない瞳で志保を見ている。オレンジ色のつなぎの胸元がもぞもぞと生きているかのように動いた。

「僕らのドクはずっとまえに死んだよ。残念だったね」 

 破れたつなぎの合間から真っ赤な冠羽を立てたオウムが顔を出すと甲高い声で志保に喋りかけた。

「君がドクに何の用だったかは知らないけど、でも何にしろ、僕らは君がきてくれてうれしいよ」

 オウムがケタケタ笑うと、ドクと呼ばれた男の口の中から茶色い毛並みのリスが顔を出してふんふんと鼻をひくつかせた。

「お客様!ショーはまだ途中です」

 プールから流れ込んだ赤い海水が立ち尽くす志保のブーツを濡らしていく。オウムが真珠色のくちばしを開けて灰色の舌を震わせた。

「セレスティン!こいつは客じゃない!君の新しいパートナーだ!」

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