場づくりにおける中動態、あるいはお客さまスイッチ
どうもトシです。
住んでいるマンションの共用部、階段部分に謎の液体が散乱しており、
異臭から避けるために引きこもりながらこの記事を書いています。
今秋から「場づくりという冒険」というオンラインスクールを受講しております。今回はその第1回の感想です。
そもそもどんなスクール?
全国各地の場づくり事例を知りながら、場づくりというものに対して理解や問いを深めていく、そんなスクールだそうです。
ここでいう「場づくり」とは、「コミュニティづくり」とはちょっと違うそうで、
「場づくり」は
分かたれたなにかを再編集する営みです。
だそうです。
まだ始まったばかりなので、今後僕の理解や解像度が上がってきたら、僕の言葉で再定義してみたいと思います。
第1回の内容は、中の人たちや参加者の自己紹介、オリエンテーションから始まり、3名の登壇者によるパネルディスカッションが行われました。
「場」に対するそれぞれの想いや問いが現実味を持って語られ、大変興味深かったです。
その中でも僕が興味をそそられたのは「場から自己へのフィードバック」と「お客さまスイッチ」の話でした。
「場づくり」のつもりが「つくられて」いる
この話題は、場づくりをしている場の中に自身は含まれているか?という問いでした。
場のつくり手は、場を自分の思うようにコントロールしようとする。
だけど、それにより変化した場から、つくり手自身も影響を受けるはず。
そこを織り込んで、あるいはそれを目的の1つとして、場づくりをデザインしているか?そんなような話でした。
この話を聞いて、僕は最近読んだ「中動態の世界」を思い出しました。
簡単に書籍の内容を説明すると、
現代の言語の動詞は能動態(する)と受動態(される)の2つが支配的だけど、古くは中動態というものがあった。
能動態が主体から客体へ作用を及ぼすものであるのに対し、中動態は作用の先が主体自身に返ってくるもの、つまり主体自身の状態の変化や表現を表す。
「する」と「される」の対立構造ではなく、「する」と「なる」の対立構造が言語で表現されていた。
言語は思考の可能性を規定するので、する↔されるの言語は責任の所在や意志の有無を問い詰める思考に陥りがちだが、世の中には簡単にする↔されるで説明できない事象がたくさんあるので、それを説明するために、中動態が表現しうる考え方は有用である。
という内容でした(と、僕は読解しました)。また別途読書レビューします。
場づくりの文脈で言うと、場づくりという行為をいかに自分事なものと捉えるか。自身を置き去りにせずに、なりたいビジョンを描けるか。
かつ、自身が場からが受けるフィードバックにより、場も自身も変容していくことを柔らかく受け止められるかが大切なのかなと感じました。
それがたとえ当初のビジョンと違っていても、そのズレを楽しむゆとりがあるといいなぁ。
僕はすぐに自分を置き去りにした親切心を働かせようとする癖があるので、この話はぐっときましたね。
「お客さま」をいかに自分事にさせるか
たとえばロックバンドなどのライブのコールアンドレスポンス。
客が前のめりで場を熱くして、演者の気分を上げることで、よりよいパフォーマンスを体験できるようにする。
客がそのことに自覚的であると、場はよく作られるんだと思います。
私はこの場における客だ。私に良いサービスを提供したまえ。でなければ不平不満を言う。
っていう態度の人がいたら、仕事だろうがサークル活動だろうがモヤりますよね……
しかし、そこまでわかりやすい態度でなくても、嫌な気分になったけど特に何もしないっていう状態は日常に溢れているわけです。
冒頭に書いた異臭のする階段。これだって僕が掃除すればいいだけの話です。
それを「くせぇなあ引きこもろ」という判断をしたということは、僕はこのマンションという場においてまだお客さま気分なんだと思います。
これを、僕の意志が弱いとかそういう方向に理由付けしてしまうと、意志と責任を問う能動受動の枠組みで考えていることになります。
「掃除しない」という判断をした背景にも、捨てていい雑巾がちょうど手元にないとか、あっても燃えるゴミの日まで遠いなぁとか、普段すれ違う住人に挨拶しても返ってこないなぁとか、損得感情で物事を考えてしまうに至ったこれまでの人生とかいろいろあるわけです。
それを全部無視して、自分事にしましょう、というのは、自分に課すならまだしも、場に要求するのはしんどい。
自分事にできづらくしている理由を丁寧に見つめて、1つずつ除去していくようにありたいなぁと思いました。
(自分事を要求するのは能動的、自分の在り方を問うのが中動的、とも言えるのかな)
とりあえず初回の感想はこんな感じ。
次回も楽しみです!
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