全てには優しくなれない開放的電脳社会

最近、ふたつのtogetter↓をみた。
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「優しさ」にはコストが伴う
https://togetter.com/li/772001

「誰だって下心ない相手には親切しないでしょ?」と話を振られてキョトンとした話「自分が損するだけなのに?」「……なんの損得?」
https://togetter.com/li/1136051
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本来、人に喜んでもらうなんてことは、本能的に嬉しいのだから、至高的なもの。対価をもらえるからやるものではなく、それ自体に価値があるもの。

だから、優しくするにはコストがかかるというのは嘘で、全ての人に優しくできないという切羽詰まった困惑がそこにあるだけだと思う。

どういうことかというと、もともと、人は、関わる人というのが決まっていた。同じ村の人や、同じ会社の人、同じクラスの人としか、接点がなかった。

それより外の世界とつながるためには、別の誰かを経由するか、わざわざ会ったり電話したりしなくちゃいけなかった。

つまり、仲間と、その他の人との境界線が明確にある社会だった。それを閉鎖的現実社会と呼びたい。

でも、インターネットやSNSができてから、それ以上のつながりを易々ともてるようになった。

twitterでは全然知らない人から励まされたり、文句を言われたりするし、困っている人を助けたりすることもある。

だから、どこまでが仲間で身内で、どこから先が外なのかわからなくなった。オープンになった。それを開放的電脳社会と呼びたい。

閉鎖的現実社会のときは、自分達の身内は全力で助けないといけなかったし、身内ではない(電車に座っているおばあさんとか)もなるべく助けましょうね。という共通認識があった。

でも、開放的電脳社会になって、震災で飼い主を失ったペットも助けたいし、SNSでは嫌いな男の子にも優しく返信しなきゃならないし、海外でテロで人が死ぬのも悲しい気持ちになる。

閉鎖的現実社会から開放的電脳社会になったことで、今まではどこか別の社会で起こっていた(と思っていた)ことが、自分の目の前で起こるようになってしまった。

だから、目の前に困っている人がたくさんいすぎて、全ての人に優しくできないってなっているんじゃないだろうか。

本来、人に喜んでもらうなんてことは、本能的に嬉しいのだから、至高的なもの。対価をもらえるからやるものではなく、それ自体に価値があるもの。

だから、優しくするにはコストがかかるというのは嘘で、全ての人に優しくできないという切羽詰まった困惑がそこにあるだけだと思う。

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