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憧れの男は辛いよ

時々、憧れの男を辞めたくなる。
明らかに不利な役回りを自ら買って出る・・・と言うか、買わされることがある。

そう、あいつの視線にだ。
僕の後ろには、必ず子供の僕がいる。


数年前、デパートのエレベーターに乗った時のこと。
4~5人の主婦と小さな女の子、そして若い女性とチンピラ風な男が乗っていた。

催物会場の五階を押し、扉が閉まった時だった。
「やめてください」
若い女性は、チンピラ風の男に小さな声で言った。
「そう言うなよ。後悔はさせないって。金はあるからよ」

女は明らかに嫌がっており、その上、怯えているようだ。
胸の前でバッグをしっかり抱き締めている。

心理学の本で読んだことがある。
この姿勢は、女性が誰かから身を守る時の姿勢だと。

「嫌です」
「せっかく俺が誘ってやってるのに、何だよ、その態度は!? ああ!?!」
男が声を荒げた。
狭いエレベーターの中は、一気に緊張に包まれた。

ああ、やだやだ。どうしてもてない男は、こうもしつこいのかねえ。
嫌われているのは明白じゃないか、諦めろっての・・・。

と、心の中で呟いていた僕は、後頭部に圧迫を感じて振り返った。
背後にいる主婦たちが、僕をキラキラした目で見ている。
おまけに、小さな女の子までが僕をじっと見上げている。

は!?! なに?!? 僕に何をしろと?!?

男は女性の腕をつかんだ。
「やめてください!」
「おい! 俺をバカにしてんだろ!? ええ!?!」

その時、女の子の隣に、子供の僕がいることに気付いた。

くそっ! また出やがった。こんな時に・・・。

「下手に出てたら調子に乗りやがって!」
「痛い!」

ああ! もうヤダヤダ・・・何で僕だけが痛い目に遭わなけりゃいけないんだよぅ・・・。
きっと殴られる。
下手をすると一発で終わらないかも・・・!?

昔、親戚の叔母さんが元暴力団の夫に暴力を受けていると聞き、僕は空手の有段者である友達に相談した。

すると友達は、
「下手に手を出すと余計に相手を怒らせる場合がある。
相手が暴力団なら尚のこと、一発殴られろ。それで警察を呼べ」
と教えてくれた。
そして出来るだけ衝撃を受けないように受け流しを覚えるんだ・・・
と、僕に受け流しを教えてくれた。

受け流し・・・殴られる瞬間、力を逃がすように首を逸らす技術。

結局、散々煽った挙句、手を出されずに終わってしまった。
実際、本物の893に「このクソ893! お前らはクズだ! 男の恥だ!」
って、言うことを想像してご覧・・・もうね、膝が震えたっちゅうねん!

その受け流しが、こんな所で役に立つなんて・・・。
僕は無傷で生還するのを諦めて、声をかけた。

「あの・・・すいません」
無視された・・・。
「あの! すいません!」
「なんだよ!うるせえな!」
「嫌がってますよ」
背後でクスっと噴き出した声が聞こえた。

「は!?! 何様だ、お前は?」
男は怒りを目に溜めて、僕に歩み寄った。
「あ、いや、だから、女の人が嫌がっているって・・・」
「うるせえ! 殴られたいのか!」
と、僕の胸倉をつかんだ。

僕は咄嗟に、右手の親指の爪を1センチだけ出して、拳を作った。
これで男の左肋骨の間に突き刺すのだ。
痛みで少しは動けなくなるはず。
次に目を狙う。そしてとどめに喉だ。

ああ、でも失敗したら・・・きっと男は怒っちゃうだろうなあ・・・。
やっぱり、一発だけ殴られといた方がマシだろうなあ・・・。

男が何やら怒鳴っている。
唾が顔にかかる。

「汚ったねえなあ」
「なに?!?」
ああ、最悪だ。男を怒らせちまった。

「女は守るものでしょ!?」


咄嗟にこんな言葉が、口を突いて出た。
一瞬、エレベーターの中の時が止まった。

あ、俺、何か変な事言った?!
また怒らせた?!?
あああ、最悪だあ~。

「なに!?!」
男はさらに大きな声で怒鳴った。

が、そこで奇跡が起こった。
男が僕の背後にいる主婦たちを見渡して、目が泳ぎだしたのだ。

どうやら、主婦たちが、僕の言葉で勇気を得たようなのだ。
男はそんな主婦たちの強い視線に耐え切れなかったのだろう。

「僕は親父にそう教わりましたよ。あなたは教わらなかったのですか?」
男は、明らかに狼狽うろたえ始めた。

その時、チーンという音と共に、扉が開いた。
まだ三階だ・・・どんだけ長く感じていたんだ・・・。

男は、まるで待っていたかのようにエレベーターから出て行った。
「くそ! 覚えとけよ!」
陳腐な捨て台詞を残して。

主婦たちから拍手が起こり、居たたまれない気持ちになった。
僕は、心の中で毒づいていただけなのに・・・。

小さな女の子のが僕の手を握った。
目をキラキラさせて見上げている。

まるでその子の目は、子供の頃の僕の目そのものだった。


どんな痛い目に合おうが、子供の僕を裏切ることは出来ない。
本来臆病な僕は、そうやって生きてきた。

憧れの男を貫くために。




あとがき

ひとつ想い出すと、次から次へと思い出が蘇って来る。
辛いことばっか。
子供の僕は、すなわち「武士道」そのもの。

後押しされないと動けない僕ではあるけど・・・。
刀は持たないけれど、親指の爪で戦う武士でありたい。

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