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[0円小説] 地の果てにひっそりと佇む街にて
とにかく書き出してみよう。ジロウはそう思った。作為など捨ててただ書けばいいのだ。
そんなことはとうの昔から分かっていたはずなのに、その通りには実行することができないまま今日まで生きてきてしまった。
しかし、自分の人生にとってはそれが必然だったのだ。そのことも、今のジロウにははっきりと分かる。燈台もと暗し。当たり前のことこそが一番気づきにくいし、気づいたからといって簡単に実行できるわけでもない。
自分に都合の悪いことについては、せっかく気づいてもなんだかんだと理屈をつけて否定して、臭いものには蓋とばかりに意識の奥にしまい込んでしまうのが人間というものだ。しかし。人間仮に百年生きるとしても、人生長いものとは決して言えない。還暦を前にしてジロウは考える。そろそろ明白な事実に目をつむるのはやめにして、自分にできることを一つひとつ丁寧にやったらいいではないか。
* * *
朝から弱い雨が降っていた。屋根からしずくが落ちて、ぽたり、ぽたりと音を立てる。台所兼居間の真ん中辺りに小さな食卓があり、食卓から横を向いて窓の方を見てジロウは座っている。食卓を挟んで向かいには妻のムーコがいて、静かに携帯に見入っていた。何か調べ物でもしているのだろう。
今日は六月二十八日金曜日、ここは北九州市若松の古い民家、ここで寝起きするようになって半月ほどが経つ。この家は義姉(あね)の実家だが、義姉の両親はしばらく前に亡くなっており、今は空き家となっている。一時帰国中のジロウ夫婦は、そこを使わせてもらっていた。
若松に着いたときは梅雨入り前だったから、初夏の日射しが爽やかに街を照らし、気持ちよい海風が家の中まで涼やかに通り抜けていたが、今は梅雨真っ盛り、雨足は先程より強くなり、流しの窓の外側にかけられたひさしのプラスチックの波板が、雨粒にしきりに打たれて不規則にぱたぱたと立てる音の、ゆらぐ拍子が意識の表面を心地よく叩いてくれていた。
若松に来るのは今回が二度目で、初めて来たのは三年前の年の暮れだった。博多から列車を乗り継いで築豊線の終点、若松駅で降りる。義姉のメイルの指示に従って歩くと、ほどなく家は見つかった。ほんの少し歩くだけでアーケードまである立派な商店街があるが、開いている店は少ない。かつては築豊炭田の積み出し港として栄えた街だが、もはやその面影はない。街の真ん中にはショッピングセンターと図書館が入り高層住宅が聳えるビルが建ち、その隣には市民会館が並んでいるものの、活気に乏しい静かな土地柄だった。
義姉の実家が北九州なのは知っていたが、東京生まれのジロウはこの辺りの地理にうとい。若松・小倉・門司の位置関係もこちらに来て地図を見て、なるほど西から東におおよそ等間隔に並んでいるのだなと知った。若松と小倉の間は洞海湾という名の入り江が港湾となって隔てているのだが、その間は若戸大橋という立派な赤い橋で結ばれており、また渡し船で渡ることもできる。一人百円で渡し船に乗って三分、対岸に渡って少し歩くと鹿児島本線・戸畑駅に辿り着き、そこにはもう一回り大きなショッピングセンターがあって賑わっている。戸畑からは列車に乗ってしまえば小倉まで十分とかからない。けれども若松は、小倉方面からは橋を渡る必要があるし、鉄道も築豊線という支線の終点で、列車は一時間に二本しかない。若松はひっそりと地の果てに佇む街なのだ。
* * *
ここまで書いてジロウは、日本に来る前にいた南タイのトランという街のことを考えた。
バンコクからトランまでは夜行列車で十五、六時間かかる。博多から若松までは鈍行でも二時間ほどで着くので、それと比べればずいぶん長い旅だ。けれどもトランと若松には似たところがある。
バンコクから南へ向かう鉄道の本線は、ハートヤイを経由してマレーシアのパダンバサルに至る国際線である。これが博多から小倉・門司を経由して本州の下関に向かう鹿児島本線に対応する。博多から若松に向かうには小倉の手前の折尾で列車を乗り換えて築豊線を行く。これが、バンコクからトランへ行く際に、途中列車がトゥンソンという小さなジャンクションで南本線を外れ、アンダマン支線に向かうことに相当するのだ。
本線から盲腸のように延びた支線の、どん詰まりの街。タイと九州の二つの土地で似たような顔を持つ街に腰を落ち着けて、隠居めいた日々を送る自分の境遇。そんな考えが頭の中を漂うのを、青歯(ブルートゥース)の鍵盤(キーボード)を叩きながらジロウはぼんやりと眺めていた。
* * *
昨日までは食卓の前で右を向いて、そちらに置いてあるオーブン用の棚の上に載せた小石板を時折り指先でいじりながら、膝の上に置いた青歯の鍵盤を十本の指先でぱたぱたと叩いて文章をつづっていた。
今は先程最寄りのショッピングセンターの百円ショップで購入したiPad用のプラスチックケースを石板立てに使って、食卓の上に置いた小石板に向かい、鍵盤を叩いている。
膝の上に鍵盤を置いての入力も、それほどやりにくいわけではなかったが、組んだ足が疲れて姿勢を変えるたびに鍵盤の位置を直さなければならないのが不便だった。
食卓の上に置いた鍵盤に向かうと磐石の安定感があり、これで執筆がはかどるぞとジロウはぬか喜びをした。
* * *
というような、執筆環境のこまごまとしたことをもう少し書いて、そんなことには興味がないという人には飛ばし読みをしてくれと注意をうながし、すなわち本を読むのに頭から読む必要はないとか、そしてまた青歯の鍵盤を買うのもこれで五台目になったなどと、どうでもよいような文章を一時間くらい、いい気になって書いていたら、使っているアプリの既知の不具合をうっかり誘発してしまい、せっかく書いた文章が海のもくずと消え去ったのが、数日前のことだった。
宙に失せたものは、もはや取り返しがつかない。その事実を受け止めて次の行動に取りかかればいいだけのことだが、なんだかんだと精神的に腰が重くなり、食卓の上に再び石板と鍵盤を設置して執筆に取りかかるまでにずいぶん長い時間がかかった。
その点からすれば、寝っ転がって携帯を操作するほうが一瞬にして作業に取りかかれるのだからよほど手っ取り早いのだが、寝転がるのに適した環境が今はない。……などといらぬ言い訳のようや思考の連なりに浮かれているうちに時間はずんずん過ぎ去ってしまうのだから、さっさと本題に入るのが筋というものだ。
しかし、である。本題もなければ、筋もない。それがジロウの人生なのだ。本線を外れて、気がつけば支線のどん詰まりの駅に辿り着き、社会の表舞台とは縁もなく、裏道の路地を歩き、裏口を勝手に開けては覗き、裏街道の逍遥こそが人生であると、市井の哲人にでもなったつもりで、愚にもつかぬ言の葉を羅列させることで少しばかりの自己満足を得て生きる証とする。
それでいいではないか。天災ヴァガボンドのババジではないか。
今日は七月二日、朝から雨が降り続き、時折り雨足が強くなる。波板を叩く雨垂れの音が強くなったかと思うと、やがてまた優しい音となり、ジロウの意識は目覚めていながらもまどろんだ。
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火野葦平という、今ではほぼ忘れ去られた作家がいる。代表作の「麦と兵隊・土と兵隊」(https://amzn.to/3XLqM3A)は角川文庫から、「花と龍」(https://amzn.to/3xK6Eo3)は岩波現代文庫から出ているのだから、忘れられたといっては正確さに欠けるかもしれない。けれども戦前から活躍し、戦後も十分な知名度を持っていたにも関わらず、千九百六十年に自殺して亡くなったこともあり、六十四年生まれのジロウは若松に来るまで葦平の名を知らなかった。
ジロウはまだ、この作家の作品を一つも読んでいないのだが、この作家の戦争との関わり、そして底辺労働者との関わりに興味を持っていた。
戦前にミリオンセラーとなった「麦と兵隊」に始まる三部作は戦争を題材にしたものだが、勇ましく闘争心を鼓舞するようなものではなく、戦争が必然的に孕む哀しみの感情を主題の一つとしているものに思えた。また戦後の代表作「花と龍」は葦平の生地である若松を舞台に実の両親をモデルとして、石炭の積み出し港で力仕事をする労働者の暮らし振りを、労働者たちと同じ高さの視点に立って描いたもののようだった。
* * *
今回若松に来てすぐの頃、ショッピングセンターに同居する図書館をジロウは訪れた。若松の街は洞海湾という港湾に面している。図書館はビルの三階にあって、海に面して窓があり、窓辺に座って海を見ながら本が読める。まったく素晴らしい図書館だ。
図書館に入ってすぐ右手に、中村哲のドキュメンタリー映画の上映会が小倉であることの知らせが貼り出してあった。医者である中村哲が、パキスタンとアフガニスタンで医療や水資源の支援活動をしていることは、環境問題に関心を持つジロウは前から知っていたので、じきに小倉であるこの上映会にはぜひ行ってみようと考えた。
その知らせの先には郷土資料室があり、火野葦平の著作も展示してある。中に入って中央の書棚を見ると中村哲の著作が並べてある。若松とどういう関係があるのだろうと思ってよく見ると、中村哲は葦平の甥に当たるのだと書いてあった。これはおもしろいなとジロウは思った。
そして上映会の日がやってきた。映画は四十七分の短いものだったが、見終わってみると、二時間の長編映画を見たくらいに濃い印象が残った。
中村哲医師の名前こそ知っていたものの、その人柄や実際の活動など細かいことはジロウは今まで知る機会がなかった。医療が皆無の環境でハンセン氏病に苦しむ患者を助けるために、言葉も文化も異なる人々の中に入っていって少しずつ信頼を得、医療活動を積み重ねてゆき、戦乱や干ばつで苦しむ現地の人々の姿を見て、やがては井戸堀から、大規模な用水路を作っての灌漑事業にまでも乗り出す。現代の日本にこのような人物が存在したことにジロウは感銘を受けた。
二千十九年の十二月、中村哲医師は援助活動現地のアフガニスタン・ジャララバードにて車の移動中に何者かの銃撃を受け死亡、享年七十三歳。運転手を含め同乗者五人も同時に亡くなっている。米軍撤退前のアフガニスタンで、どのような思惑から誰がこの凶行に及んだのか。想像してもしようのないことではあるが、アメリカの傀儡政権下でなければこういう事件は起こらなかったのではないかと思われた。残念な人を亡くしたと考えずにはいかなかった。
* * *
映画を観た数日後の七月二日の夕方、ジロウはひとり鹿児島本線の東郷駅へ向かった。東郷駅のある宗像市には兄夫婦が住んでおり、その日は駅近くの店で兄と飲む約束をしていたのだ。朝は強い雨が降ったが午後には晴れ上がり、五時前に仮の家を出て六時の待ち合わせに向かう道はすっかり夏の日で、ずいぶんと蒸し暑かった。
駅には兄だけでなく義姉も来ていた。借りている若松の家で庭木の手入れを少しばかり手伝っているもので、剪定ばさみを持ってきてくれたのである。あいさつを済ませると義姉は帰り、ジロウと兄は店へと歩いた。
店に着くとまず生ビールを頼み、そしてつまみには岩ガキと天然イサキ、そんな海の幸を肴に話ははずんだ。
いろいろと話しているうちに兄が、自分は内弁慶で、と言う。どういうことかと思って聞いていると、弟のお前や妻に対してはこんなふうに気がねなく喋れるが、そういう話ができるような知り合いを外に作ることが自分にはできなかったと言うのだった。
それはまったく仕方のないことだなとジロウは思った。第一に自分たちの父親からして、おどろくべきほどの内弁慶だった。父はうちの中で威張り散らしたりするわけではないのだが、とにかく内と外での様子がまるで違う。
子どものころ正月などに親戚が集まると、父はそういう場ではほとんど喋らずに聞いているだけで、何か聞かれても一言二言にこにこと静かに答えるくらいのものなのだった。
普段うちの中では、母が父に対して何かを言うと、それに丁寧に答えるなどということは皆無で、「勝手にしろ、うるさい」などの否定的言葉が怒りもあらわに飛び出すのが常日頃のことであったのに。
大人になってからそうした母と父とのやり取りを振り返って考えてみて、二人ともアスペルガー的な非定型発達の気味があったのかなとジロウは思った。
そんな両親のもとに育ち、しかも兄は三十を少し過ぎたくらいのときに福岡に移り住んで、異文化環境に溶け混む必要があったのだから、仕事の人間関係にしろ、その他に新しいつながりを求めるにしろ、十分な余力が持てず、もっぱら家族内のもとで手一杯だったとしても、それはまったく当然のことであり、そのことを理由に自分を否定する必要などあるはずがなかった。
ジロウがそんなことを兄に言うと、兄は「別に否定しているわけじゃないんだけどね」と答えた。なるほど確かに表面的には否定しているわけではないのだろう。とはいえ、(自分は内弁慶で……) という言葉の中には否定的な評価が含まれているに違いない。そしてそうした無意識的な否定というものが日々の暮らしに大きな影響を与える場合が多いとジロウは思うのだが、話が面倒になりすぎると考えて、それ以上のことは言わなかった。
そんなことも含め、四時間ばかり気のおけない話をして、終電の時刻に合わせて店を出た。京都のお漬け物をお裾分けしてくれるというので、駅で少し義姉を待った。ご馳走してもらった上にお土産まで持たせてもらい、ジロウは上機嫌で若松に帰った。
* * *
翌日、ジロウの精神は波打った。前日兄とゆっくり話して、気分がよくなりすぎた反動に違いない。ちょっとしたことで妻のムーコとの関係がぎくしゃくとなり、お互いにつむじを曲げていらいらし、腹を立て合った。自分はムーコに対してもいつも内弁慶に振る舞っているのだとジロウは思った。自分を実際以上によく見せかけようと無理をし、その無理が何かの弾みでうまくいかなくなると、いらいらが吹き出して抑えが効かなくなる。
そんな子どもじみた振る舞いをやめられない自分にいい加減うんざりもしていたが、同時に、そうして怒りをぶち負ける自分と適度な距離を取ることもできるようになり、ずいぶん素直に受け止められるようになってはきていた。……はずではあったのだが、前日の兄との時間が心地よかっただけに、その日はそのように簡単に感情に振り回される自分にほとほと嫌気が差し、生きるのが面倒になり、あーもーなんもかんもどうでもえーわ、という陰欝な気分に支配された。
* * *
さらに翌日。梅雨の合間で一日雨は降らず、日もだいぶ出てむし暑い一日だった。
この日ムーコとジロウは朝九時過ぎのバスに乗って小倉に向かった。小倉駅の新幹線口に着いてしばらくぶらぶらし、小倉港の浅野桟橋まで歩く。ここから市営の渡し船が出ていて、途中馬島(うましま)という小さな島を経由し、四十分をかけて十一時過ぎ、藍島(あいのしま)に至る。藍島も小さな島で、全島を簡単に歩いて回れる程度の大きさである。
雲がかかりもしたが、おおむね晴れて暑かった。港は島の西側南端にあり、北端に千畳敷という景勝の地があるのだが、暑いのでそんなに遠くまで歩くのはやめようということになった。
山がちの島の西から東に小さなトンネルが通っている。トンネルを抜けた先に別の港があり、集落があり、小学校がある。まずそちらに行ってみたが、港の周りは日陰もなく休めるところもない。
小さな公民館があったので入ってみると、小さな図書室を兼ねており、バンフレットなども置いてある。島の地図入りのパンフレットをもらって外に出た。
着いた港から南に向かい、島の東側に行くと砂浜があるとのことなので、そこに行ってみることにする。
途中、港の手前に伍社宮(ごしゃぐう)という小さな神社がありお参りをした。小さな社殿の前の石段がちょうど日陰になり、山からの風が流れて心地よかった。浜に行っても影がなく暑いだけだったら、ここに戻って休憩しようと二人は話した。
港を右に見て島の南端へと少しばかり歩く。日射しは強いが風も強いのでそれほど暑くは感じない。アスファルトの道が途切れる場所の左側がヘリポートになっており、その端から島の反対側へと小道が続いていた。脇から道にもたれかかるすすきのたぐいを少しのけて進むと、じきに、これもまた小さな砂浜に出た。
それは本当に小さな浜で、数家族の子ども連れが来たらすぐにいっぱいになりそうなほどだった。そして当然のように日陰はない。二人は冷たい波で足を洗い、ムーコは写真を撮った。暑いので神社へ向かった。
社殿の前を占領して休憩するのは少し気が引けたが、お参りする人がいるとも思えなかったし、注意されたら撤退すればいいだろうと心積もりをして、荷物を広げた。カセットコンロ用のガス缶を使うキャンプ用のストーブで湯を沸かしコーヒーを淹れトーストを焼く。それにバナナを合わせて昼飯とした。山から降りてくる風が実に気持ちよく、ゆっくりと休むことができた。
帰りの船は午後一時半に出るので、食事が済んだらぼちぼち片付けて港に戻った。島での滞在時間二時間少しの小さな遠足だった。
小倉の渡船場について駅への道を歩いていると、雲が出て日が陰っているのにかなりの蒸し暑さだった。ムーコが島の爽やかさと全然違うと言う。ジロウはなるほどそうかもなと感じた。今日は島へ行って本当に良かったとムーコがいうのを聞いて、そんなふうに感じてくれたのなら本当に行った甲斐があるというものだとジロウは思った。
* * *
そんなふうにしてジロウとムーコの日々は過ぎていった。ある日はいさかいが起きて互いにいらいらし合い、ある日はなかよく小さな休日を楽しんだ。そんな何でもない日々が四半世紀に渡って繰り返され、積み重ねられて、二人の関係は練られてきたのだ。二十五年という歳月に育まれて二人という関係の容れ物が出来上がり、その容れ物が作る環境から二人は影響を受け、そしてまたその環境に二人が影響を及ぼして、言ってみれば、二人でひとつの生き物を育ててきたのだ。
つまらぬことでいらいらする自分をジロウは変えたいと思ってきたし、実際ずいぶん変わってもきた。それでもまだまだ変わり切らない自分がいる。
こちらからすれば小さなことでつむじを曲げるムーコに、そういうのは勘弁してほしいと、未だに思っている自分もいる。ムーコが嫌がることが分かっていそうなものなのに、体に染み着いた習い性でついついそうしたことを繰り返してしまう自分を変えればいいのだとも思うし、ムーコが機嫌を悪くしても、それにつられてこちらまで機嫌を損ねなくていいのだとも思う。思っても簡単にはうまくできないのだが、簡単にはできないのだということに対して目をつぶらず、しっかり自分で受け止めていれば、そのうち変わっていくのだということも分かっている。
分かっていてもうんざりし、うんざりすることにもうんざりし、そんなことを重ねてきて、ようやく今の場所まで辿り着いたのだ、少しばかりは見通しのいいところへまでと。
* * *
七月六日土曜、今日は梅雨の合間で一日暑かった。夕方西日が高搭山の向こうに落ちてから、表の植木の枝をブロック塀にのぼり枝切りばさみでずいぶん落とした。今は八時前、夕食を終えて食卓で二人は一息入れている。ムーコは明日の都知事戦を前に応援している候補の街頭演説を携帯で見ており、ジロウは小石板に向かって青歯鍵盤を叩いている。
適当な距離を保ちつつ、同じ場所と時間を共有する。人間同士の関係というのは、つまりそういうことなのだとジロウは思った。ジロウはムーコとの距離感にようやく落ち着きを感じ始めていた。そして例えば、赤の他人であれば距離は遠くなるし、恋人同士なら極めて近くなる。また、母子関係においては母は子を包み込み、子にとって母は自分と一体の世界として存在する。
物理的な距離の点では地球の裏側にいる人間が一番遠いことになるが、そのように遠く、一見無関係に思える人間との間にも人類という同じ遺伝子を共有する存在としての共通点は無数にあるのだし、科学技術の発達によって地球が小さくなってしまった今、自分が今ここで環境の破壊にくみするのなら、それは地球の裏側にいる人々にも影響を与えるのだとジロウは考えた。
今自分の心に生じている落ち着きを大切にしたいとジロウはふと思った。それこそが人生の核心のひとつに違いない。無数に存在する人生の核心の、たまたま今現在自分の身近にある、この世界の秘密のひとつと言ってもいいくらいの、紛れもない核心のひとつ……。
そこまで書くとジロウは鍵盤から手を離し、椅子の上で重ねずに座を組んでいる脚の両膝に手のひらを乗せた。目は薄く開き、正面で携帯をいじっているムーコの方を、見るわけでもなく、ぼんやりと見やった。頭の中では生理音がきーんとなっている。蒸し暑いが平和な夜が、そこに確固として感じられた。
[二○二四年七月七日、北九州・若松(写真は対岸の戸畑側から見た若松)]
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