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十八枚の宇宙、あるいは太宰に誘われてぼくは時空の旅に出た

千葉の船橋に住みかけたことがある。

といっても、船橋のどの辺りに住もうと思った、というほどのことではなくて、船橋駅の辺りに住めそうな部屋はないかなと思って、一軒か二軒か不動産屋を覗いてみて、どうもここは自分の住むところではなさそうだと思い、別の場所を当たることにしたというだけのことである。

船橋駅は総武線と京成線が並行して走っており、西武と東武のデパートがあった。もともと港街なので賑やかさの中にも風情を感じたが、働くのか嫌いなぼくには家賃相場が高すぎたのだ。

仕事をやめ、部屋も引き払って妻とふたり、アジアを巡る一年間の旅を終えたあとの話だった。

生まれて育ったのは東京の世田谷だったが、三十近くになって東京の東側の江戸川や、川を越えた千葉の方面に縁ができていたので、そのときは結局市川市の八幡辺りに住むことになったのだった。

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そんなことを思い出したのは何故かというと、太宰治の「めくら草紙」という短編小説を読んでいたら、それが彼の船橋時代の作だったからだ。

その短編には、借家住まいの太宰が隣の家から夾竹桃をもらって自分の家の庭に植えたことや、津軽出身の太宰は、自分の国もとでは珍しい夾竹桃や、真夏を感じさせるネムや百日紅(さるすべり)などが好きなのだということが書いてある。

今ではその夾竹桃は、船橋市民文化ホールの前庭に植え替えられているのだそうだ。

夾竹桃の花は桃色、白、赤の三種を見かけるが、清楚な白か、濃い赤の花がぼくの気持ちには響く。桃色の系統は少し艶やかすぎて心に入ってこないのだ。

玉川上水の露となって消えた太宰の心を慰めた夾竹桃は何色をしているのか、いつか機会があれば訪ねてみたいと思う。

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夾竹桃はインド原産の有毒植物で、江戸時代中期の画家・伊藤若冲が、当時は珍しかったその姿を京都市左京区の信行寺の天井画に残している。

この話はしばらく前に帰国したときに、若冲を特集したテレビ番組をたまたま見て知ったのだが、それ以来ぼくは夾竹桃を見かけるたびに「あっ、こんなところにインド原産のキョウチクトウが……」と、日本でもインドでも阿呆のように繰り返すのを得意としている。

若冲は元々京都の青物問屋の生まれで、けれども世俗のことにはあまり興味を持たず生涯独身、四十歳で隠居したのちに画業に励んだ。

狩野派に学んだとも伝えられるが、中国の技法に倣ったというその画風は独特で、得意とした鶏の絵は写実的でありながらも大胆な色使いで、サイケデリックな香りすら感じられる。

そうした若冲の作品の中でも最も特異といっていいのが「升目描き」という手法で描かれた4点の作品である。

この手法を代表する「樹花鳥獣図屏風」は、縦横およそ1センチの間隔で方眼に区切られ、巨大な一双の屏風が11万6千の升目で構成されており、いわばモザイク画なのである。

若冲が何故この独自の手法を用いたかという理由については、もはや確かめることもできないが、この元祖ドット絵といってもいい奇妙な手法で描かれた作には、いわく言いがたい不思議な味わいがある。ヒトの目がドット単位で世界を見ていることに、江戸時代を生きた若冲は気づいていたのではないか。そんな空想ももやりもやりと浮かんでくるのであった。

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ここまでのことはテレビ番組で知ったことなのだが、そのあとにもう一つおもしろい絵を見つけた。

中国の二人組の伝説的乞食坊主、寒山と拾得(じっとく)を描いた絵である。

寒山は山に籠って岩肌に詩を書き散らしていたとされ、その漢詩集が残されている。寒山は文殊、相棒の拾得は普賢に例えられる仙人コンビで、中国でも日本でも禅画の題材として好んで取り上げられている。

描かれる二人の有り様は痩せてこそいないが髪はぼうぼうで、笑顔で描かれていてもどこか怪しげな調子の、いかにも仙人風というか、風狂そのものという感じのものが多い。

ところが若冲の描く寒山拾得はひと味違う。

独特の禅味ある筆遣いで、墨汁のあと黒ぐろと大胆に、けれども蓬髪の髪先は細やかに、寒山はマンガのような可愛い笑顔、拾得は後ろ姿で
描かれている。

写実画や升目描きとはまったく違う魅力が、そこにくっきりと現れているのでした。

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さて、ようやく四枚書けた。

これで太宰の「めくら草紙」と符丁が合ったので、ここからこの文章は暴走します、房総半島は船橋と同じく千葉県にあります。

ニ、三日前にインドの若い友だちとガンジス川(地元の人はガンガーと呼びます)で泳いだんですよ。夕方六時半すぎの夕暮れ時で、もう日は照ってないけど、空気は十分暖かい。そんな中、ヒマラヤから降りてくるガンガーの冷たい水に浸かるのは実に心地よいのです。

ぼくは冷えに弱いので、どぶんと二回水に体を浮かべただけでしたが、友だちは四回ほど川に入り、首は出した形でクロール風に水を掻いて、沖へぐいぐいと泳ぎ、その間にどんどん流されますから、しばらく行ったら今度は岸に向かってまたぐいぐいと泳ぎ、こちらからは姿も見えなくなったところで岸に上がって、ゆっくり歩いて帰ってくるのを繰り返していました。

インドの人は水着など使わないので、男はパンツ一丁、女性はサリーを着たままといった姿で沐浴と水遊びをしていますが、ぼくも水から上がって、濡れたパンツ一丁で岸辺に座り、友だちが川下から戻ってくるのを待っていました。

そのときふと気づいたんです。

パンツこそ履いていましたが、自分が実質的に裸で、周りに人はいるけれど、友だちはまだ戻らず、こちらを気にしている人は一人もいない。ぼくは完全に一人で、完全に自由でした。今自分がそこにいることだけに意識が向いていて、他の何ごとも気にすることなく、ただそこに透明な意識があったのです。

禅の世界でいう見性体験の、ほんの小さなやつですね。

そのあと友だちが戻り、もう一人の友だちも加わってチャイでも飲みにいこうと言って歩き出したのですが、そのときもう一つおもしろいことに気がつきました。

自分は他人にまったく関心がないことに気づいてしまったのです。

もちろん「まったく関心がない」といっても、人の顔色をうかがったり、人の気を引こうとしたり、他人への関心から行動しているときもあるわけですが、大もとのところで他人への関心が欠けているのに、人に悪く思われたくないために「あたかも関心があるように」振る舞ってきたのがぼくの人生なのですから、これは疲れるに決まってるよなと、そんな自分のあり方への理解がすーっと腑に落ちたわけなんです。

歩いてる間も、屋台に着いてチャイを飲んでる間も、楽しくて嬉しくて心の笑みを押さえることができませんでした。

いわゆる一つのユーフォリアというやつですな。理性的な方は「アホちゃうか?」と思うかもしれませんが。

タイのお坊さんによると、瞑想の修行を続けてある段階までいくと、人によってはこういうユーフォリアの状態が何ヶ月も続くそうでして。

ヒンズーでは悟りの橋地を表す言葉に「サット・チット・アーナンダ」という言葉がありますが、文字通りには「真実・心・歓び」ということなんですが、これをつなげて「真実の心の歓び」と考えると、こういうユーフォリアの状態をアーナンダと呼び、悟りの一要素として大切にしたってことなんでしょうね。

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ここでまた、横道にそれる前の話題に戻ることにしましょう。

例の中国の乞食坊主、寒山と拾得のことですが、森鴎外にその名も「寒山拾得」という短編があり、中国の故事の語り直しをやっています。

三島由紀夫の「文章読本」では、この短編の中の「水が来た」という文章を例にして、森鴎外の簡潔かつ壮大な文章世界について褒め称えており、その三島の文が国語の教科書に載ったこともあり、一部の好事家の間では、この「水が来た」という名文の話が有名になっているようです。

芥川龍之介と井伏鱒二にも「寒山拾得」の題で作品を残しています。

芥川の「寒山拾得」は、現代の日本に寒山と拾得が現れる幻想的小品、井伏鱒二のものは二人の酔っ払いが絵に描かれた寒山拾得を真似して笑い合う様子を書いたとぼけた短編。

日本の作家はこういう禅味のある人物を題材にするのが好きなのですね。

* * *

ところで、ぼくが寒山の名前を知ったのは、ジャック・ケルアックの「ザ・ダルマ・バムズ」を読んでのことでした。

ケルアックは「路上(オン・ザ・ロード)」が有名なアメリカのビートの作家で、まあヒッピーの元祖の一人みたいな人ですな。

ぼくの場合「路上」は出だしだけ読んでちょいとつまづいて未読のまま。
(英語版のpdfをネットで拾って読み始めたんだけど、英語で読むのはちょっと大変なもんで)

だけどケルアックは気になってたし、"the darma bums" という題名に惹かれて、性懲りもなくpdfをまた落としてきて読み始めたら、これがなかなかおもしろかった。

バムっていうのは変人とかドロップアウトみたいなニュアンスの言葉なんだけど、ここではヒッピー風の生き方をする若者くらいに考えるといいでしょう。

そしてダルマは仏教の法のことで、合わせてダルマ・バムというのは、禅やチベット密教にかぶれたヒッピー系の人間を指す言葉になります。

「ザ・ダルマ・バムズ」は「禅ヒッピー」という邦題での訳出もあって、意味的には納得できるんだけど、響きの上では、うーん、ちょっとこの題はどうかなと、唸ってしまうところです。

サンフランシスコの文化的熱狂やアメリカの大自然を背景に、ケルアック自身をモデルとする主人公が精神的放浪をする物語には、何かを求める若者が、その何かの真実の姿を垣間見る煌めきの瞬間が散りばめられていて、六十近くになっても何かを求め続けているぼくの心は、優しくけれどもしっかりと揺さぶられました。

* * *

さて、この物語の中で主人公に仏教的考え方を伝えるのはゲーリー・スナイダーという実在の詩人をモデルとする登場人物です。

スナイダーは日本にも長く滞在したことがある人物で、日本語や中国語に通じ、日本や中国の詩の翻訳などもしている人なのですが、「バムズ」の中には彼の訳した寒山(英語では Hanshan)の詩が出てきます。

中国の伝説的な禅僧の、仙人風の生き方が、ここではアメリカの若者の求めるものと重ねられて語られているのでした。

* * *

さきほど井伏鱒二の「寒山拾得」に触れましたが、井伏が太宰の師匠であることはみなさんご存知だろうか。

津軽出身の太宰は、東京では1933年から1938年までの6年弱を荻窪に住んでいる。
(このうち1935年から1936年にかけての1年4か月は船橋にて病気療養)

これは師と仰ぐ井伏鱒二の近くに住むことで執筆に打ち込もうとしたためだった。

そしてパビナール依存での入院、一人めの妻の不倫、その妻との心中未遂・離婚と、さまざまな事件を経て、最終的に荻窪を離れるのも、井伏の紹介による甲府の女性と再婚しての甲府への転居によるものだった。

太宰の兄は、弟の破綻した生活を知って何度も太宰を国もとに連れ戻そうとしたが、太宰の才能を信じた井伏が間に入って、太宰の東京での執筆活動が中断せずに済むよう助力した。

井伏の助力がなければ、作家としての太宰の成功はなかったのかもしれない。

ところが、長い年月を経て師弟の関係性は変わり、1948年6月、太宰は「井伏さんは悪人です」という〈遺書〉を残し、38歳の若さで死ぬことになる。

井伏を悪人と呼ばざるを得なかった太宰の心の奥底には、井伏に対する敬愛の念も確かにあったはずだと思いたい。

そして、太宰の周りの人間のそれぞれの思惑が、様々なしがらみと重なり合い、絡み合い、捩れ捻れて、落とさざるを得ないことになった彼の命の冥福を祈るものである。

* * *

森鴎外の簡素な名文「水が来た」を褒め称えた三島由紀夫であるが、彼は太宰とは犬猿の仲といっていいほどの言葉で太宰について述べており、まったく異なる美学を持っている。

その三島は「文章読本」で森鴎外に続いて対照的な例として泉鏡花を取り上げている。

❝❝
(鏡花は)鴎外の文章とぜんぜん反対の立場に立つ美学にのっとっており、この美学を極端にまで押し進めて、はるか離れた高みに達しております。そこには目も綾な色彩の氾濫があり、自分の感覚で追っていくものに対する誠実な追跡があり、その文章全体は一つのものを確固と指示するかわりに、読者を一種の快い純粋持続にさそい込みます。
❞❞

鴎外のような理性派の文章ではなく、感覚派の文章として鏡花を評価するわけだ。

このとき、格調の高さが好きな三島にとっては太宰など視野に入らないのだろうが、太宰の文章は鏡花の系譜に連なる滑らかさを持っており、しかも現代的な親しみやすさも併せ持つ。これが太宰が今もって人気の高い作家である要因の一つだろう。

三島はベルクソンの純粋持続という言葉を借りて鏡花の世界を表現しているが、これは、今ここで読書することの「純粋な歓び」であり、アメリカの心理学者ミハイ・チクセントミハイのいうフロー体験として捉えることもできるだろう。

太宰の小説にも、そのように作品自体が立ち上がり、作中人物が生きて語りはじめ、読み手の心の中に、生き生きとした世界の連続体を展開する力をときに感じるのだ。

太宰の人生は破綻し、最後には自ら死を選ぶことになった。

けれども、その苦しい人生を送った人間にしか書けない、弱いものへの愛に満ちた作品を太宰は残した。

ガンガーの水でほんの少し浄めたくらいでは、浄め足りない濁った心を抱えながらも、その濁りのことは今は棚に上げて、太宰を始めとする今はなき表現者たちの魂の安らかならんことを願って、この小文の幕引きとしよう。

てなわけでみなさん、ラムラムジーっ♬

☆有料部には「いつもよりちょっと長いあとがき」を添えます。

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