[奇妙な味の長めの短編] メビウス切断・第三回 (最終回)
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滅郎はキッチンのテーブルに一人腰掛け、泡盛の入った湯呑みを両手で握りしめていた。しばらく前から滅郎の頭の中を「二度あることは三度ある、二度あることは三度ある……」と同じフレーズが繰り返し回り続けている。彼らの二度目の訪問から再び一ヶ月が過ぎようとしていた。
会社では仕事に打ち込み、週末は生子とデートをすることで、滅郎はあの三人組のことを忘れ、何とか日々を過ごしていた。しかし、問題は一人でいるときだった。ふとしたきっかけで彼らのことが頭に浮かぶと、それを意識から追い出すことが難しくなってきていた。
今日の昼間、会議室でスズキと二人プロジェクトの打ち合わせをしていたときのことだ。取引先がうるさいことを言ってくるため、二度目の大幅な設計の変更を余儀なくされていた。そのことについて相談をしているとス
ズキが言った。
「いや、しかし、まいったなあ。これだけの大規模な設計変更とはなあ。しかも相手が相手だから、これで済むかも心配だよな。二度あることは三度ある、とも言うしさ」
その言葉を聞いて滅郎の頭には彼らのイメージが浮かび上がった。滅郎はそのやけにはっきりとした映像を振り払おうと、両手を組んで頭の上に伸ばし、左右に軽く振って伸びをしながら言った。
「そうだな。そんなことにならなきゃいいんだが」
そして、会社を退けて帰りの混み合った電車の中、前
触れもなく滅郎の頭にそのフレーズがやってきた。
二度あることは三度ある、二度あることは三度ある……。
滅郎はほかのことを考えてそのフレーズを頭から閉め出そうとしたが、しばらくは追い出すことができても、やがてまたそのフレーズは舞い戻ってきた。滅郎は気にするまいと思い、そのフレーズが頭の中を回り続けるにま
かせた。
キッチンのテーブルで滅郎は泡盛を口に含むと、湯呑みを手にしたまま椅子から立ち上がりベランダに出た。もう日が暮れてだいぶ立つというのにまだベランダのコンクリートには昼間の熱気が感じられた。今年は残暑が厳しく九月に入っても真夏のような毎日が続いている。
じっとりとした空気の中、夜の住宅街をぼんやり眺めていた滅郎は、ふと寂しさを感じた。自分がこの世の中でたった一人で生きているような気がした。一体俺の人生はなんなのか、生きていくことに何の意味があるのか、そんな疑問が頭に浮かんだ。自分の立っている足下がぐにゃりと溶ろけ出し、どことも知れぬ闇の中に飲み込まれてしまいそうな不安がやってきた。
しばらくその不安とともにベランダに佇んでいると、やがてその感覚は薄れていき、長い呼吸をして気持ちを鎮めようとしている自分に滅郎は気がついた。頭の中を執拗に回り続けていたフレーズもいつの間にか止んでいた。
滅郎はまた一口泡盛を口に含むとキッチンに戻った。
キッチンのテーブルに座り直した滅郎は、湯呑みに泡盛をもう一杯注ぎ、平らになった気持ちの中、彼らのことを改めて考えてみようとした。しかし考えるといっても何をどう考えたらいいのか……。
このひと月の間、滅郎は彼らのことはできるかぎり考えないようにしてきた。考えても仕方のないことだと思ったからだ。誰かに相談しようかとも思った。だが、こんな奇妙な事態を一体誰に相談したらいいのか。生子には話したくなかった。そして誰に相談しても、こちらの精神状態を疑われるのが落ちという気がした。彼らとは自分一人で立ち向かうしかない、彼らの手口を考えるとそれ以外の選択肢はない、そう滅郎には思えた。だからといって、滅郎に何ができるかと言えば、特に有効な対策が打てるわけでもない。彼らの揺さぶりに動じないように心構えを固める、それくらいしかできることはなかった。
ところがその心構えの部分が怪しくなってきた。仕事をしているときや人に会っているときはまだ良かったが、一人でいるとふいに彼らの映像が頭に浮かぶ。スポットライトに照らされて奇妙な衣装で奇天烈な演奏をする三人の男たち、団長の不愉快なまでに落ち着いて尊大な様子、ニゴウの酷薄な態度、そしてサンゴウの完璧なまでに洗練された振る舞い……。そんなイメージが頭の中にいったん浮かぶと、なかなかそれを振り払うことができなかった。そして、彼らのイメージが頭の中で暴れ出すと、得体の知れない焦りに取り憑かれ、いつもの自分の落ち着きを取り戻すことが次第に難しくなってきていた。気が狂うというのはこういう状態を言うのかもしれ
ない。そう滅郎は思った。
この一週間ほど寝つきが悪く眠りも浅かった。夜中に目が覚める。いったん目が覚めると、そのままでは眠ることができないので泡盛をあおった。こんなことを続けていたらアルコール依存症になるのではないか……。
そんな状態が続いているのによく仕事ができるものだと我ながら思ったが、この異常な緊張状態がある種のエネルギーとなるのか、昼間の日常には差し障りがないどころか、今までより充実しているくらいだった。
だが、これを続けていては、いずれ体力的な限界が来るだろう。そうなったとき日常というものが、砂で作られた城のように容易く崩れ落ちるさまが、滅郎の頭の中にくっきりと映像を結んだ。恐らく彼らの狙いはそこにあるのだろう。俺を精神的に追い詰めて、落とそうとしているのだ。彼らの手に乗ってはダメだ。滅郎は頭を振るって力を呼び覚まそうとした。
翌日、滅郎が会社に着いてコーヒーで一服していると、スズキがにこにこしながら滅郎の机にやってきた。
「滅郎、いい知らせがあるぞ」スズキが思わせぶりに言った。
「なんだ、いい知らせって」滅郎は素っ気なく聞き返した。
「お前の反応はまったくひねくれてるなあ。いや、とにかくいい知らせなんだ。お前のメビウス・ツイン・リングズな、あれがJCNに売れそうなんだ」スズキは滅郎の肩を叩きながらそう言った。
「JCN? ジャパン・コンピューティング・ネットワー
クか?」
「そうだ、お前のメビウス・リングに大物が食いついてき
たんだ」スズキはこぼれんばかりの笑みを浮かべていた。
メビウス・ツイン・リングズは、滅郎がしばらく前に出した特許の愛称で、社内ではメビウス・リングと呼ばれるのが普通だった。滅郎としては会社がせっつくから仕方なく出した特許でしかなかったのだが、スズキはそれをいたく気に入っており、あちこちに売り込みを図っているとは聞いていた。それで、滅郎は聞いた。
「JCNと言ったって、いくら出すっていうんだ。どうせ大した額じゃないんだろう」
「いやいや、これが実に大したことがあるんだが、それはちょっとまだ正式に決まった話じゃないから、今のところは内密に、ということでな」
こんな大きな声で話しておいて何が内密だと滅郎は思ったが、そのことには特に触れずに言った。
「そうか、じゃあ、そっちはとにかくよろしく頼むよ」
「おお、まかせとけ。これがうまくまとまったら、今度
こそお前にも好きなようにやらせてやれるからな。期待
して待ってろよ」
そういうとスズキはにこやかに去っていった。
スズキの言葉なんて当てになるもんじゃない、そう思いながら滅郎はその日のスケジュールの確認に取りかかった。
会社が終わると滅郎は、電車に乗っていつもの経路で帰ったが、自宅の最寄り駅では降りず、二駅先の、急行が止まり大きなショッピングセンターのある駅まで行った。そのショッピングセンターの三階に心療内科ソウル
フルクリニックはあった。
会社の人間で心療内科の世話になっている人間は何人か知っていたが、自分が行くのは初めてのことだった。子どもの頃に聞いたような昔の精神病院とは違うのだと頭では分っていても、そこで何が起こるのかと考えると、滅
郎は軽い不安を感じた。
扉を開けて入ると、待合い室は小綺麗だったが、どこか息詰まる空気が充満している。その待合い室のソファに腰をかけて優に一時間は待たされることになった。一緒に待っている他の患者たちは、男女ともに大体は会社員風だった。彼らの様子に目立っておかしいところはないのだが、重たいような、そわそわするような、妙な空気が漂っている。待合い室ににいるだけで却って調子を悪くしそうだったが、とにかくそこで待つしかない。
ようやく受け付けから呼ばれたときには、滅郎は目を閉じすっかり自分の中に引きこもっていた。受け付けの女が自分の名前を繰り返し呼び、何度めかになって、滅郎はようやくそれに気がついた。受け付けまで行くと、女はいらだちを隠せない様子で滅郎を相談室と書かれた部屋に案内した。
白いテーブルの向こうに中年の女性が座っており、向い合って腰を下ろすようにうながされた。インテークと称して生い立ちから始まり、家族との関係などいろいろなことを聞かれた。病状については眠れないとだけ説明した。
診察室に行くと、まだ若い神経質そうな医者が待っていた。滅郎が夜眠れないので薬がほしいというと、いつ頃からかとか、どの程度眠れないかなどと訊かれた。
どうして眠れないのと思うかと訊かれたので、三人組のことには触れず、仕事が忙しすぎるのが原因だと思うと答えておいた。
医者はその答えに満足したのか、ではお薬を出しますのでと言って、睡眠導入剤の簡単な説明をすると、五分かそこらで診察を終えた。
滅郎は一階下のフロアにある薬局で薬をもらうと、駅の改札口へ向かって歩き出した。重い足取りで歩きながら、どうやら一区切りついたと思い、慣れないことをしたあとのくたびれ果てた感覚を感じながら、とにかくビールを
飲もうと滅郎は思った。薬局では薬と酒は一緒に飲むなと言われたが、今すぐ薬を飲むわけじゃない。別に構わないだろう。
ショッピングセンターの最上階の少し騒がしい店に入り、中ジョッキとペペロンチーノを頼む。空腹はそれほど感じなかったが食べた方がいいと思った。やってきたビールをぐいと飲み、やや茹ですぎで塩気の足りないスパゲティをつついていると、ようやく気分が落ち着いてきた。これから何がどうなるのかと思うと漠とした不安を感じはしたが、とにかく何とかやっていけそうだという思いが、わずかながら湧いてくるのを感じた。
家に帰った滅郎はキッチンのテーブルに腰を下ろすと、木綿地のリュックから薬局でもらった説明書きと薬の袋を取り出した。大したことが書いてないおざなりな説明書きに一応目を通してから薬を取り出し、処方された量を口に含む。流しまで行くと蛇口の水を手に受けてそのまま口に注ぎ、薬を流し込んだ。まだ時間は早かったが、疲れを感じていた滅郎は服を脱いでベッドに潜り込んだ。
しばらくすると急に眠気が襲ってきて滅郎は泥のような眠りに落ち込んでいった。
どこか頭の内側の遙か遠くの片隅に、滅郎は何物かの気配を感じていた。それが一体何物なのか、確かめようとして知覚の触手を伸ばしてみるのだが、もう指が届いてもいいはずと思うのに、その何物かは手のひらからさ
らさらとこぼれていく砂粒のように小さな闇の間へと姿を隠してしまい、はっきりと捉えることができない。滅郎が触手を伸ばすと、そのものはするりと身をかわす。そんな知覚の追っかけっこを幾度となく繰り返しているう
ちに――。
突如世界は光の爆発で切り裂かれた。
「メラーーーーーー」
「たーーで」
「メラーー」
「たーーで」「ターーデ」
まだ回転を始めようとしない滅郎の頭に、あの、もはや馴染みのというしかない、不愉快な歌と演奏が凶器となって襲いかかってきた。薬の効きが残っていて不自然に重い頭と体になんとか力を入れ、滅郎はベッドの上で上体を起こした。
例の三人組がいつもの衣装を着て、スポットライトの光のなか輝いて立っている。今日はキッチンに陣取り、てんでんばらばらに、だが不可思議な調和を持って教団のテーマソングを歌い続けた。
「われらは」
「メラ、ターデ」
「赤く赤く」「燃えるーー」
勝手に燃えてろ……。靄がかかったままの意識の中、滅郎は力なく思った。ただし人を巻き込まないでくれ……。
「ようこそ、四方さん」演奏が終わると団長は、あくまで朗らかに滅郎に呼びかけた。「こんな夜分遅く、しかもお休みになっているところに押しかけまして、誠に申し訳ありませんな」
言葉だけは礼儀正しくそんなことを言っているが、悪いことをしている意識のかけらもないことは、その口調を聞けば火を見るよりも明らかだった。
「では、本日も、メラターデ教団、十の教えの第三を。一つ、地球は一家、草、虫、獣すべてが姉妹兄弟」
「地球は一家、草虫獣すべてが姉妹兄弟」ニゴウとサンゴウが唱和した。
次の瞬間ニゴウがぱちんと両手を合わせた。
ニゴウは叩いた手を開き、右の人差し指で左の手のひらをぴっとはじいた。そして再び両の手を胸の前で合わせると言った。
「南ー無ーー」
「なんだ、ニゴウ」団長が言った。「蚊か。敬虔に祈ることはよいが、虫けらだって兄弟姉妹と唱えたばかりなのに、その舌の根も乾かぬうちに、もう殺生か」
「団長」ニゴウは答えた。「姉妹兄弟を殺生しちゃあいけないという法がありましたかね?」
「はっはっはっ。ニゴウ、お前の言うことは相変わらず根源的(ラデイカル)じゃないか。そこがお前の良いところだ」
二人の、それが日常、とでもいうかのような言葉のやりとりに、滅郎は腰の奥辺りが冷たく固まっていくのを感じた。
するとサンゴウが口をはさんだ。
「団長、ニゴウ、お二人がそんな物騒な話をしているから四方さんが怯えてらっしゃるじゃないですか」
不思議なことにそのサンゴウの柔らかい声を聞くと、滅郎の腰のしこりは軽くなり、気分が楽になった。だが、とようやく回転し始めた頭で滅郎は思った。これも彼らの手の内に違いない。
滅郎の様子を見ながら団長は言った。
「サンゴウ、お前は本当によく気がつくな。お前の気遣いのおかげで四方さんも少し気分が落ち着いたようだ。これでまたゆっくり話ができるというものだ」
団長の顔に満足の笑みが浮かんだ。
まったくうんざりする、滅郎は思った。どうして俺がこんな茶番に付き合わなきゃならんのだ。そうだ、こんなバカげた奴らと付き合う必要なんて、こっちにはこれっぽっちもないんだ。ただし、こいつらが自分たちの都合で
勝手に現れる以上、こいつらの相手をしたくないんなら、まったく不愉快だが、こっちから逃げ出すしかない……。
そう考えながら三人の様子を窺っていた滅郎の目が彼らのかぶるつば広の帽子に止まった。すると頭にふっと言葉が浮かび、滅郎は無意識のうちにぼそっと呟いていた。
「ソンブレロ」
「四方さん、この帽子の名をご存じでしたか。その通りです。ソンブレーロ!」団長は声を高めて、巻き舌のRの音ともっともらしいイントネーションで言った。
そして、そのつば広の帽子を右手で取ると胸の前にかざし深々とお辞儀をした。それに続いてニゴウとサンゴウも動作を合わせ帽子を取りお辞儀をした。その芝居がかった仕草を見ていると滅郎の中のうんざり感はいや増した。
「四方さん、まったく申し訳ないことです」団長が本当に残念そうな顔をして言った。「われわれとしても、これで精一杯礼儀正しくやっているつもりなのですが、どうやらわれわれの一挙手一投足が四方さんの神経を逆撫でしてしまうようですなあ」
それが分ってるんなら、とっとと帰ってくれと、滅郎は怒鳴り散らしたい気分だったが、薬で頭も体も重く、とても大声を出す気力は湧いてこなかった。
「ふうむ、ここらで四方さんの毒舌の一つも聞きたいところでしたが、今日の四方さんはお疲れのご様子、残念ながらその願いは叶いそうにありませんな」団長は肩をすくめて大げさにため息をついた。
「まあしかし、こうやっていつまでも腹の探り合いのようなことをやっていても仕方がないじゃありませんか、ねえ?四方さんが相手の話だけに、こいつは全くシカタないと。あっはっはっはっはっ」
あまりの下らなさに滅郎の頭の中は白くなった。現実感が遠のき、夢を見ているような気持ちになっていく。
「さて四方さん」おもむろにビジネスライクな口調になって団長は言った。「それで、先日お願いした件ですが、お返事のほうはいかがなものでしょうか?」
団長の言葉に現実に引き戻された滅郎は、体を起こしベッドの上にあぐらをかいて座った。まだ体には十分な力が入らなかったが、力強い声できっぱりと言った。
「この間も言ったはずだ。断る」
「ほう、そうですか。それは残念至極です」
団長が言うと、サンゴウが口をはさんだ。
「団長は、あまりの残念さに、まさに断腸の想い、ですね」
「おっ、今日はサンゴウか、なかなかうまいじゃないか。団長は断腸の想い、か。うわっはっはっはっはっ」
滅郎はまた意識が遠のくのを感じた。
「いやいや、しかし」笑いが収まると滅郎の様子には構わず団長は続けた。「四方さんのその意志の固さには大変敬服いたしますよ」
団長は感心感心というように頷いて見せると更に言葉を続けた。
「それでは二つめのお願いといきましょう」
団長がニゴウとサンゴウに目で合図を送る。そして再び奇天烈な演奏が始まった。
「あーー、あなたにーお願いがー、あるのよっ」
「あるのよっ」
「あーー、どうかお願いかなえてー、くださいっ」
「くださいっ」
ラテンのような、演歌のような、しかも音程もリズムもめちゃくちゃなイカレポンチの音楽だ。それを聴くと滅郎の思考は、またどこか別の世界に彷徨い始めた。つまり一体このどこに真面目に考えるべきことがあるっていうんだ? このおかしな三人組はとにかく俺の精神状態を脅かしている。だが実際問題のところは、夜のうちに俺の部屋に勝手にやってきては少しばかり騒いで帰っていくという、ただそれだけのことじゃないか。確かにニゴウとかいうやつはかなり危ない感じがするが、三人全体として見てみれば、それほどの危険があるとも思えない。こっちが気にしすぎるからいけないんであって、こんなことは大したことないんだと開き直ってしまえば、実際にどうということのない話になるはずだ。もちろん、どうということがないと受け止めきれないところが問題だが、とりあえず眠剤はもらったわけだし、今を乗り切れば、なんとか毎日を回していくこともできそうじゃないか……。
そう考えていた滅郎の意識がようやく部屋の中に戻ってくると、イカレた演奏はいつの間にか止み、その場は静寂に包まれていた。滅郎が団長に視線を向けると、団長は口を開いた。
「四方さん、大変結構です。われわれの演奏をものともせず、あるいはひょっとすると、われわれの演奏を乗り物として、そうやって自分の世界に入っていくことができるとは、これはまったく希有な才能です」
自分の行動が始終観察されていて、しかもそれが一々団長の評価の目にさらされているという状況に滅郎は虫酸が走った。
「そこでです、四方さん。二つめのお願いですが、あなたのその才能をわれわれに貸していただきたいのです」
団長は思わせぶりに間を取った。滅郎はなんのことを言っているのかといぶかしく思いながら続きを待った。団長は芝居がかった動作で手のひらを使って滅郎を指すと言った。
「あなたの、セキュリティギークとしての才能です」
その言葉を聞くと滅郎の頭の中は静まりかえり、耳にはキーンという生理音が響き渡った。体中の全ての細胞が活性化するような不思議なエネルギーの流れを感じたが、それが一体どういうエネルギーでどこからくるものなのか、滅郎は自分でも分らなかった。
滅郎の目は団長の胸の辺りを見ていたが、その右にいるニゴウと左側のサンゴウが視界の中に妙にくっきりと写っている。それだけではなく、視界に入る限りの自分の部屋全体が異様なまでの明瞭さで頭の中に像を結び、それでいて自分が何かを見ているという意識が滅郎にはないのだった。
「ギークと聞いて、ギィクッとしましたかね? ふっふっふっふっふっ」
団長のその耳障りな含み笑いを聞いて、滅郎の意識はぐっと現実に引き戻された。
「四方さん」団長は言葉を続けた。「あなたの表の顔は会社勤めの平凡なソフトウェアエンジニアです。むろん平凡とはいえ有能なわけですがね。ところがその裏に隠している、闇のセキュリティギークとしての顔も、われわれはよく存じ上げておるわけです」
滅郎はぼんやり視線を部屋の中に漂わせたまま団長の言葉を聞いていた。子守歌でも聴いているかのように滅郎の心は静まりかえっていた。
「インターネットの裏の世界で知らぬものはいないtAnnEd-blUE(ターンド・ブルー) 、その世界ではむしろミスターtbとして知られておるわけですが、その人物が現実(リアル)の世界では一体何物なのか。これを突き止めるにはわれわれの力をもってしても誠に苦労しました」
そこで団長は言葉を切ってサンゴウの方に顔を向けると言った。
「そうだな、サンゴウ?」
サンゴウは恭しく頷くと言葉を引き継いだ。
「まったく今回の調査は難航を極めました。けれど我が教団の辞書に不可能の文字はありません。現にこうしてわれわれは四方さんの目の前に存在するわけですから」
サンゴウは嬉しそうな表情を浮かべ柔らかく滅郎に微笑みかけた。滅郎はゆっくりと頭を左右に振るった。
「さあ、四方さん。いや、これからは、ミスターtbと呼ばせてもらった方がよいでしょうな」団長が言った。「われわれは是非ともあなたの能力を我が教団のために役立ててほしいのです。あなたの才能とわれわれの力を合わせれば、世界征服は無理としましても、この悪徳うずまく現代社会の中に正義の一大勢力を築きあげること、これは容易いことです。ミスターtb、さあ、われわれと一緒に夢に向かって進みましょう!」
滅郎は唇を舌で舐め湿らせてからゆっくりと言った。
「どうもよく分らんな……。何か勘違いをしてるんじゃないのか? 俺は確かにソフトウェアエンジニアだし、自分で言うのもなんだがそれなりの才能もあるつもりだ。そして俺が軍事関連のプロジェクトを扱っているのも事実
だ。そこまではお宅らの調べたとおりだし、何度も言っているとおり、その件でお宅らに協力するつもりはない。だが、そのギークがどうしたとかミスターなんとかとか、そいつはいったい何の冗談なんだ? 俺には見当もつかんな」
「はっはっはっ、そうきましたか」団長は予想していた通りの冗談を聞いた、とでもいうように高らかに笑った。「ではまあ、四方さん、とりあえず今しばらくはそう呼ぶことにいたします。しかし、四方さん、どちらが冗談を言っているかといえば、これはあなたのほうということになりますが、まあ、いいでしょう。なかなか面白い冗談ですし、しばらくはそれに付き合うことにして、四方さんは有能だがごく普通のソフトウェアエンジニア、そういうことにしておきましょう」
「団長」ニゴウが口を開いた。「まだるっこしいことはこのくらいにしときませんか。この野郎、平気で知らばっくれやがって、一発シメなきゃ話が進みませんぜ」
ニゴウはそこまで言うと、両手の指を組み合わせてから反り返らせた。関節が派手な音を立ててぼきぼきと鳴った。
「ニゴウ、お前の気の早さは相変わらずだな。いいか、われわれの交渉はあくまでも紳士的なものでなければならない。そのことはお前にもとうに分っているだろう」
「お言葉ですが、団長、その紳士的な交渉とやらも結局は決裂しちまって、最後には力がものをいうことになる――。大抵がそうじゃありませんか」
「はっはっはっ、お前は本当に正直にものを言うなあ。お前の言うことも確かにもっともだが、なにしろ今回の交渉相手はこの四方さんだ。この方には是非ともご自分の自由意志で、みずから率先して、われわれの一員になってもらわなければならん。そうでなければ、彼の能力を十全に発揮してもらうことができんからな。そういうわけでだ、ニゴウ、お前の出番はあるにしてもまだまだ当分先だ。今はまず、サンゴウ、ミスターtbについての調査結果を四方さんに説明して差し上げることだ」
「かしこまりました」そう言うとサンゴウは、足下に置いてあったスーツケースの中から折りたたみ式のアルミのテーブルを取り出して拡げ、更に小型のコンピュータとプロジェクタを取り出すとその上に置いて配線した。そ
の間ニゴウはスクリーンを設置していた。滅郎は感情の麻痺した冷たい視線でその光景をぼんやり見ていた。準備が終わり、プロジェクタに投影されたのはこんな文字だった。
tAnnEdblUE (mr. tb)
報告書
画面の左下にはカードにあったのと同じ、蓼の花に見えなくもない赤いマークが映っている。
サンゴウはコンピュータを操作して画面を切り替えながら説明を始めた。画面には英語の新聞や日本の新聞が世界規模のネットワークダウンを報じる映像が映っている。
「四方さんもご存知とは思いますが、ミスターtbは世界的にその名を知られたセキュリティギークです。二年前の九月十一日、ペンタゴンを始め、アメリカの様々な軍事関連のネットワークシステムが同時に攻撃を受け、数
時間程度ではありましたが世界中のインターネットが混乱に陥るという事件が発生しました」
滅郎もtAnnEdblUE という名前には覚えがあったし、仕事柄その事件についてもおおまかに知ってはいた。
「この事件は、発生した日付からアラブ系のネットワークテロではないかと取り沙汰されましたが」サンゴウは画面を切り替えながら話を続けた。「FBIの捜査により、事件を起こした実行犯はアメリカ国籍の少年たちが構成するハッカーギャング団であることが判明し、事件の後しばらくして全員が逮捕され現在裁判が進行中です。そして、彼らがこの事件に使ったソフトウェアの作成者がtAnnEdblUE ことミスターtbだったわけです」
そこで団長が口をはさんだ。
「それだ、tbnacとか言ったな。素晴らしいソフトだ。そうだろう、サンゴウ?」
「団長、世界最高のソフトと言ってもいいでしょう」サンゴウが答えて言った。「tbnacすなわち、ツイスティング&ブラスティング・ネットワーク・アドミッション・コントロール。まったく長ったらしい、舌を噛みそうな名前です。言ってみればネットワークのセキュリティシステムをねじ切って入り込み、内部から噴き飛ばすソフト、そういうことになりましょうか」
「よし、いいぞ、どんどんぶっ飛ばしてやれ」団長が浮かれて言った。
「団長、落ち着いてください。そうそうぶっ飛ばすわけにはいかないのです」
「ん、まあ、それはそうだな」団長は居住まいを正して言った。
「さて」サンゴウは続けた。「ミスターtbは、ネットワーク・セキュリティの脆弱性を世間に明らかにするためにこのようなソフトを作ったわけでして、彼自身は悪質なハッカーではない、正確な言い方をすれば、彼は決してクラッカーというわけではないのです。しかし、彼は自分が世に問うたソフトウェアの危険性をよく分っておりますから、ご自分はセキュリティギークのtAnnEdblUEという仮面をかぶって、その正体が社会の目には決して触れないように大変慎重に行動しておられる、そのような次第です」
そこまで聞いて滅郎は口を開いた。
「tbの話は分ったし、お宅らが何を企んでいるかも大体見当がついた。しかし、もう一度言うが俺はtbなんてやつは知らん。それにだ、仮に俺がtbだったとして、どうしてクラッカーでもないtbがお宅らに協力するわけがあるんだ? 全然話の筋が通らないじゃないか」
「それはどうでしょうなあ、四方さん」団長が不敵な笑みを浮かべて言った。「われわれはこう見えても、人間心理のプロフェッショナルを自認しております。そのことは、今までお付き合いいただいて、四方さんにもある程
度ご理解いただけていると思いますが」
団長は重く腹に響く声色でそう言うとそこで言葉を止め、滅郎ののど仏の辺りをじっと見つめた。滅郎はのどに何かがつっかえるのを感じ、軽い目眩を覚えた。一体こいつらは……。滅郎の両腕に鳥肌が立った。
団長はそんな滅郎の様子には構わず、平然と言葉を続けた。
「この先はわたしのほうからご説明いたしましょう。われわれが今回ミスターtbにお願いしたいのは、我が教団でマインドスナッチャーと呼んでいるソフトウェアの開発なのです。まずミスターtbには、すでに対策がなさ
れてしまったtbnacを超える新たなネットワーク侵入ソフトを作っていただきます。絶対見つからないように侵入し、誰にも気づかれることなくネットワークの中で活動するマインドスナッチャーにとって、肝心要の部
分です。そしてこのソフトは獅子身中の虫のごとく、活動を続け、いずれそのネットワークを使っている組織自体を壊滅へと導くのです」
なにをバカなことを……。滅郎は心の中、鼻で笑った。ネットワークをダウンさせるならともかく、組織を滅ぼすだと? どうすればそんなSF染みたことができるっていうんだ? こいつらはどうにも頭がいかれてる……。
「四方さん、われわれがSFのような絵空事を話しているとお考えですね」団長がまたあの重く響く声色を使い、滅郎の考えを読んだかのように言った。
その言葉を聞いて、滅郎は顔から血が引くのを感じた。あぐらを組みその右の腿の上に置いている右手が軽く震えた。
「ですが、四方さん、これは冗談でもなんでもありません。もう少し説明いたしましょう。マインドスナッチ、すなわち精神的な乗っ取りということですが、これの原理は至って簡単です。ネットワークに入り込んだ虫(ワーム)は、そこで誰にも気づかれることなく密かに活動します。誰がどのようにコンピュータをチェックしても、どこにも痕跡が見いだせないような特別な虫というわけです。この虫はあちこちのコンピュータに寄生しますが、まず一台のコンピュータをターゲットにします。そして、時折り重要そうな情報をこっそり送信したり、あれこれのつまらないファイルを消去したりします。コンピュータの設定がちょっとだけ変わっているというような悪戯もいたします」団長が微笑みながら話している間、サンゴウはスクリーンにもっともらしいプレゼンテーションの映像を切り替えながら流している。滅郎はぼんやりと、このプレゼンは誰に向けて作られたものなのだろう、と考えた。
「コンピュータの持ち主は初めは何も気がつかなくても」団長は話を続けた。「そのうち誰かがこっそり自分のコンピュータに触ったのではないかと感じたり、何物かがネットワークから侵入しているのではないかとの疑いを持ったりするでしょう。しかし痕跡はありません。ですから、それが一体何物の仕業なのかは分りません。そしてこのソフトはそれ以上の派手なことはいたしません。つまり、持ち主が気づくか気づかないかの微妙なさじ加減でそのコンピュータでの仕事は終えるわけです。そして、対象のコンピュータを変えて、また同じ仕事をする。やがてそのネットワークを使っている組織には不安が生じ疑心暗鬼が生まれ、ついには組織としての能力が蝕まれていく……。そしてそのためには、絶対誰にも見つからない完璧な侵入と潜伏のための技術が必要と、そういう次第なのです。どうやらお分りいただけたようですな。ふっふっふっふっふ」
団長の含み笑いを聞いて、滅郎は体から力が抜けていくのを感じた。
滅郎は考えた。絶対誰にも見つからない完璧な侵入や潜伏などということはあり得ないし、こいつらの言うようにことがうまく運ぶとも思えない。だがしかし、これは技術的には可能な話だ。こいつらならやりかねない……。
「四方さん」団長が続けて言った。「情報戦というものは実に地味なものです。映画のジェームズ・ボンドのような派手な場面は滅多にあるもんじゃない。それと同様、ネットワークに潜入するということに関しても、われわ
れのように世界を変えるという大きな夢を持って実行する場合には、そこらの小僧っ子クラッカーたちがやっているような、ただ派手なだけの腕比べでは話にならんわけです。地道に、着実に、相手を機能不全に追い込む。同時に使えそうな情報をいただくことも忘れない。これがわれわれの今回の計画です」
滅郎は緊張に耐えかね、体を揺すって心を落ち着けようとした。
「さて」しばらく沈黙が続いたあと団長が口を開いた。
「今日もずいぶん長い間お邪魔してしまいました。四方さんは明日もお仕事だ。われわれはこの辺で失礼いたします」
団長がそう言うと、いつものようにニゴウとサンゴウは手際よく道具を片付け、三人はまた風のように去っていった。
翌日も滅郎は普段通り会社に行った。
彼らが去ったあと、眠剤を飲んで寝過ぎてもまずいと思い、泡盛をあおって横になったが、ほとんど眠ることができなかった。それでもなんとか会社に行くと、眠気を振り払いながら午前中の業務をこなした。
昼少し前に仕事が一段落つくと、早いが休憩を取る、何かあったら屋上にいるから連絡をくれ、とプロジェクトのメンバーに言い残して、階段で屋上に上がった。オフィスのある四階から屋上まで三階分の階段は、寝不足の体にはきつかったが、頭をすっきりさせるのには役に立った。
屋上の端まで歩き金網に左手をかけると、滅郎は煙草を吸った。頭を空っぽにして下界を見下ろす。コンクリートのビルが建ち並ぶ、なんの変哲もない街並みだ。九月の日射しがまだ暑かったが、滅郎にはその暑さにようやく
少しばかり生きているという実感を感じた。遠く線路の上を銀色の列車が滑るように走り、駅に入っていくのが見える。その模型のように見える列車の小ささに滅郎はなぜか哀しみを覚えた。
背後にばたばたいう足音を感じて振り向くと、スズキが全身から興奮を発しながら近づいてくるのが見えた。だが、滅郎の目はスズキの後ろ、階段室の周りに植えられた何本かの木々に吸い寄せられた。そのうちの一本はサルスベリで、白にも近い淡いピンクの花をつけている。もう盛りを過ぎた夏の終わりの寂しげな花だった。
「滅郎、大ニュースだ!」スズキが大きな声で言った。滅郎は無表情にスズキの顔を見た。
「メビウス・リング、本当に売れたぞっ! !」スズキは喜びに打ち震えながらそう叫んだ。
メビウスか、と滅郎は思った。スズキは興奮しながら話しを続けたが、滅郎の頭にはその言葉は入ってこなかった。メビウス・リングという言葉が、滅郎の頭に今の自分の状況を浮かび上がらせた。気の進まない軍事関連の仕
事をしている自分、生子との関係をこれからどうしていけばいいのか迷っている自分、そしてあいつらの誘いに、乗るわけがないと考えながらも、彼らと一緒にやっている光景をどうかすると想像している自分……。
滅郎は、これから自分が選択を迫られることになる状況を、善と悪という言葉で捉えてみようとしていた。つまるところ、善とか悪とかいうものはメビウスの輪の表裏のようなものなのだ。表だと思って見ているところをずっと辿っていくと、いつの間にかそこが裏になっていることに気づく。そのときそこは確かに裏なのだが、更にそれを辿っていくと、またいつの間にか表に戻っている。
善と悪も結局はそれと同じだ。ある立場から見て正しいと思える行動を取っているとき、そこからつながっている様々なものを辿って行動を続けていくと、どこでも間違ってなどいないはずなのに、ふと気がつくと間違っているとしか言いようのない立場に立っている自分を見いだす。そこでそのことに動揺したりせず、冷静につながりを辿って行動を続けていけば、再び正しいと思える場所に戻っていくことができる。
しかし、と滅郎は思った。俺はどうもそういう曖昧なあり方は苦手だ。なんとかしてその状況を断ち切ることはできないのか。難しいにしてもそれを断ち切る方法がどこかにないものなのか。そして、もし断ち切ることができたとして、そのとき果たしてどちらが表になり、どちらが裏になるのか。いや、自分はどちらを表として、どちらを裏とするのか。
そう考えてはみたものの、滅郎には、自分が本当のところ何かを断ち切りたいと思っているのかどうか、そこのところがどうにもはっきりしなかった。
滅郎は自分のこれからを思い描こうとした。やつらはこの先どんな手で俺を落とそうとしてくるのか。俺はそれにどこまで抵抗できるのか、果たしてきちんと日常の世界に留まることができるのか。
あるいはこの日常を生きていくことができるとして、俺はスズキの言うような世間並みの暮らしをすることができるのか、それとも一体、俺はどんな道を歩むことになるのか。
予測のつかない明日を思い、自分の体の奥底に迷いとも恐れともつかない感情がうごめくのを感じながら、滅郎はスズキの肩越しにサルスベリの花が淡く風に揺れるのをぼんやりと見ていた。
(了)
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