[0円小説] ジョンとジョンとジョンとぼく
ジロウは暇を持て余している。正確に言えば、人生自体を持て余しているのだ。
ガンガーのほとりで暇を潰すために、そして人生にそこはかとなく意味を与えた気になるために文章を書く。それがジロウのこの3年ほどの暮らしの中心課題となっていた。
今回はそのきっかけとして顔本[facebbok]に知人が投稿した写真を使わせてもらうことにした。写真には「パンを買いにきたジョン」と題名がついている。
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ジョンがパンを買いに来たって?
どこのジョンの話だい? まさかうちの犬のジョンじゃないよね。
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子どものころ弟が犬を欲しがり、親戚が名古屋でブリーダーをしていたので、ヨークシャテリアをもらってきて飼うことになった。
弟がジョンと名づけた。兄はこいつは「ち」に点々でヂョンという感じだなと言った。ぼくもおもしろがってヂョンと、ヂを発音するとき舌先に力を入れて呼んだ。
うちにその子犬が来たのは、ぼくが小学校2年か3年のときだったろうか。
弟はぼくより2つ下だから、欲しがるは欲しがったがあまり世話はしなかった。ぼくもほぼしなかった。母と3つ上の兄が風呂に入れて洗ってやったりしていた。
超小型犬だから家の中だけで運動量は足りて、散歩は好まなかった。好まないのだが父が時々散歩に連れていき、行くのはいいが途中で歩かなくなるので抱かれて帰ってきた。
ヂョンはうちに来て2年くらいのとき、家の前の道で車に轢かれた。弟とぼくが見ている目の前のことだった。横たわった動かない体に外傷は見られず体は暖かい。急いで近所の動物病院に連れていったが、もう死んでる、即死だったろうと言われた。
そのとき悲しく思った覚えはあまりないのだが、今これを書いていて、言葉にしようもない哀しみが湧いてきて体中に広がる。ぼくらも皆いつかはこの地上を離れるのだ。散歩に行きたがらないヂョンを散歩に連れて行っていた父も2年前にこの世を去った。
弟はまた犬がほしいと言い、名古屋のおじさんからもう一匹ヨークシャをもらった。
これも名前はジョンとした。
1代目のはある程度大きくなったのをもらったが、今度のはまだ目が開かないくらいの生まれ立てだった。大人の手のひらに入るほどの小ささだ。
この仔犬がうちに来てしばらく経ち、自分でうろうろ歩けるようになった頃のことだ。手狭な居間兼食堂で、食卓の椅子の上を歩くのを常としていた兄がその椅子から床にぽんと跳び降りると足の下にヂョンがいた。最悪の事態は避けられたが、危ないところだった。2代目のヂョンは、その事件のために片目がほとんど見えなかったのではないかと思う。
そんな事件はあったものの、2代目は長生きした。
ぼくは一浪して大学に入り4年で卒業して、そのあと2年弱会社づとめをした。会社をやめてひと月ネパールとタイに遊んだ。帰国してしばらく実家でぶらぶらしていたが、実家での暮らしに何かちょっとした違和感を感じていた。
ぼくが日本を離れているうちに、ヂョンがこの世を去っていたのだ。
2代目のヂョンは飼い主である弟のベッドで静かに亡くなっていたそうだ。ヨークシャの寿命は15年ほどだという。2代目は15年は生きたはずだ。天寿を全うしたといっていいだろう。
自分のうちで飼っていた犬が死んでいなくなっているのに気づきもしない。こんなことがあると、ぼくは自分の薄情さに後ろめたさを覚えるのが常だった。
だが、今ではそれを薄情さと考える必要のないことも分かっている。
理想の状態から言えば、人は様々な欠損を抱えて生きざるを得ない。そしてそうした欠損は、この世に生まれ落ちてから無事大人と呼びうる存在に育つまでに必要があって生じた欠損なのだ。
標準からどれだけずれているにしても、その欠損も含めた全体が現実の今のぼくなのであり、それをありのままに受け留めて初めて、その欠損を別の形に置き換え、理想に近い別の振る舞いをすることが可能となる。
こうした理解をはぐくむきっかけを作ってくれた2匹の犬のヂョンの冥福を今は祈ろう。
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いやもちろん、犬のヂョンがパンを買いにきたりはしないよね。
そういえば、ジョン(犬)という人もいたな。うん、犬の格好はしてるけど、本物の犬じゃなくて、人間なんだよ。
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高校の時からの友だちでウルガくんというのがいる。sf系の友だちで、一緒にバンドごっこをやってたこともあるのだが、こいつが上々颱風の追っかけを、まだ売れる前からしてたようなやつだった。そいつのお陰でジョン(犬)という変わったオルガン弾きがいることは随分昔から知っていたが、どんな音楽をやってるのかはずっと知らなかった。
21世紀に入ってしばらくした頃、ネットでジョンさんが詩を書いてるのに出っくわした。岡山かどこかの博物館か何かを題材にした詩で、妙な力強さを感じさせるものだったと記憶している。
そんなことがきっかけになって、あちこちに何度かライブを観に行った。狼犬の着ぐるみを着て、小さな足踏みオルガンを前衛的に弾きながら、祝詞にも聴こえるような不思議な歌を歌うおもしろい人物だ。
そして、ゴールデン街のバーで週一だったかバーテンをしてるのを知った。タロット占いもするジョンさんはそこではお試し簡易占いを五百円のワンコインでやっていた。
当時作家にでもなれたらという妄想をいだいていたぼくは、自分が作家になれるかどうかを占ってもらった。結果は、相手が要求するものを書けるようになるまで苦労はするが最後にはその努力が実を結ぶというものだった。
単細胞なぼくはその占いを快く受け入れ、何が要求されているのかは相変わらずよく分からないままだけれど、とにかく書き続けている限りは何らかの花が咲き、いくらかの実もなるに違いないと独り合点をして、このように言葉の切れ端を並べ続けているのである。
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うん、そうだ、パンを買いにきたジョンってんだからね、最初から写真をよく見てればよかったんだ。とにかくぼくはおっちょこちょいでせっかちな人間なんでね。つい、ジョンって誰だよ、とか思っちゃうのさ。
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ジョンが死んだのは1980年の12月8日だろ。真珠湾の40年あとってわけだ。つまりジョンは真珠湾の年に生まれてたんだな。
ぼくは前の東京オリンピックの年に生まれたもんだから、戦争なんて遠い昔の話にしか思えなかったけど、1964年っていうと敗戦の1945年から19年しか経ってないんだよね。
それがいつの間にやら、こちとらも、はや来年には還暦を迎えるわけで、昭和が終わってからもすでに30年、戦争は遠くになりにけりってえもんで、逆に言えば明日戦争に巻き込まれてもおかしくないような、戦争がやけに近い時代になっちまったな。
ジョンのイマジンの歌詞が身にしみるぜ。
いやしかしね、80年にジョンが死んだときには、まったくの他人事だったんだな。これはぼくには、薄情とか何とかなんて話じゃ全然なくて、ただ名前だけは知ってる有名人が妙な殺され方をしたってことにすぎなかったからさ。
ビートルズは兄貴が持ってた赤盤と青盤は聴いてて割と好きだったけど、解散した過去のバンドとしか思ってなかったし、ジョンのソロ活動はまったく知らなかったからね。
同級生でジョンの大ファンのやつがすごいショックを受けてるのを横目に見て、なんでこんなに激しく反応してんだろうと不思議に思ったのをよく覚えてるよ。
まあそんなで、ジョンのことはよく知らなかったんだ。
オノ・ヨーコという日本人と結婚してるのは知ってたけど、その関係でビートルズは解散したと思ってたから、ビートルズの特に後期の作風が好きだったぼくは、そんな女と関係を持たなきゃ、もう少しその音楽の発展型を聴けたんじゃないかと、そんなことを考えるくらいのもんでね。ヨーコと一緒にジョンが日本でゆっくりしてた時期があったなんてことを知ったのはずっとあとの話なんだ。
そうそう、21世紀に入ってね、ちょうどさっきの話のオルガン弾きのジョンさんを知った頃、ぼくはタウキョウの下町エデガワにある精神障がいを持つ人のための作業所で非常勤で働いてたんだ。
その作業所に通う男性で尾崎豊とジョンが好きな人がいて、両方のビデオを作業所でかけててそれを見てね。ジョンが日本にいて浴衣を着てる姿を初めて見たんだな。
軽井沢銀座をママチャリの後ろには息子のショーンを乗せて、パンを買いに行ってたんだな、ジョンは。
あとからジョンの生い立ちを知ったり、マザーを聴いたりすることで、ジョンはヨーコという人物を知ることを通して、自分の母に対する感情のもつれを解いていった、あるいは解いていこうとしたんだなってことが分かってくると、あとはそれも含めてジョンの人生だったんだと素直に受け入れるだけのことなんだけど、ぼく自身が母との関係性のもつれを抱えて生きてる人間だし、ジョンとは女性に求めるものが違うもんだから、うーん、ジョン・レノンよ、ヨーコじゃなくて他にいい女はいなかったのかねと、言わなくてもいいようなお節介を言いたくなるのが、ぼくの悪いくせというわけですな。
いや、くだらない年寄りの戯れ言がだいぶ長くなりましたけども。
とまあ、ひと月ほど前にビートルズ最後の新曲という触れ込みの音源
が発表されたのが引き金になって、ジョンの命日に合わせてこんな文章を書いてみたということで。
そして真珠湾の日でもある12月8日を前に、ジョンの冥福を祈り、今まで戦争や様々な災難で死んでいったすべての人々の、そして今この瞬間にも地球上の各地で起きている紛争の犠牲となって死にゆく人々の冥福を祈り、この地上にもう少しでよいから平和が広がることを願って、この散文の幕を下ろすことにいたします。
それでは皆さん、ナマステジーっ♬
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そこまで書いてジロウはひと息ついた。
今日はまだ11月26日、ジョンの命日までにはもう少し余裕がある。
この文章の構想はガンガーのほとりハリドワルで浮かんだのだが、インド・ビザの期限が近づいたためにネパールを目指して5日前にハリドワルを出たのだった。
ところが、インド政府の無法かつ告知もなしのビザ・ルール変更によって、国境の出入国管理官に無情にもオーバーステイを宣告されたジロウと妻のムーコは、ネパールとの国境までバスで3時間かかる田舎街ゴラクプルで、外国人登録局からの出国許可を取るまでの時間、足留めをくらっているのだった。
長旅にはつきもののこうしたトラブルを、楽しむことさえできればこの世は天国、暇を持て余し、人生をもて遊ぶ自分には打ってつけの執筆時間が与えられたのだと思うことにして、ジロウは安宿の寝台に身を沈める。
ジロウの頭の中では、遊戲神通、把空遊行の二つの熟語が漂うていた。
[2023-11-28 インド・ウッタルプラデシュ州ゴラクプルにて]
※トップのコラージュは、下記投稿の写真をお借りして作成しました。
使用を快くご承諾くださったイリエケイイチ氏に感謝いたします。
[有料部には「無駄に長いあとがき」を置きます。投げ銭がてらお読みいただければ幸いです]
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