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[0円小説] 今ここにある気持ち

(問)
今の気持ちを四千字以上の文章として表せ。

(答)
ジロウは今ハリドワルの巡礼宿の一室で、二人用の寝台の足元の角に対角線方向を向いて、足をゆるく組み座っている。
東に面して窓があり、その外はベランダになっていて、ベランダに通じる扉は半開きになっているので、そちらから朝の陽射しと、ざわめく人の声が入ってくる。
朝九時ニ十分、妻のムーコはもうヒンズー寺の手伝いに出掛けて、一人だけの静かな時間だ。ここ数日ばたばたとして、まとまった時間が取れないでいたが、今日こそは昼飯前に文章が書けそうだ。
リュックサックを小石板(タブレット)のスタンドにして、青歯(ブルートゥース)の鍵盤(キーボード)の手前だけ組んだ右足の上に乗せて打ちやすいように角度をつけ、ジロウはまずそのように情景描写を試みた。

ネムキリスペクトの今回の参加作品でさ、若い人の書いたのをこないだ読んだんだけど、これがなかなか素晴らしいできでね[註1]。
現実にはありえない設定を、現実の世界にぽーんと投げ込んでくるような設定の話なんだ。
で、物語は二人の人物の会話の掛け合いで進んでいくんだけど、その会話をする一方の人物の語りが、元の二人の会話の場面と見事な二重奏を奏でるんだよ。
つまり、二人の会話が地の文となって、そこに片方の語る別の二人の人物の物語が図として表現されるんだけど、地の物語と図の物語が切れ目なくスムーズに繋げて書いてあるのに、ちゃんと区別がつくし、しかもこの二つの物語が、相似形のものとして巧みに重ね合わせて書いてあってね。
この世界に生まれ落ちたものが、時として感じざるをえない理解の不能世と孤独というものが、その孤独をとことん味わってしまえば解消されうるのだし、そのとき孤独の暗闇こそが新しい理解を生むことになる。……とまあ、説明すればそんなことになるんだけど、こんな解説を聴いてるよりは、とにかく実際に読んでみてくださいよ。註にアドレスを載せときますから。

つまりジロウの中には、そのように滑らかに重ね合わされた物語をこそ紡いでみたいものだという欲求があったのだ。
頭上で静かに天井扇が回っている。以前長らく過ごした隣の古い巡礼宿のうるさい天井扇とは違い、ここのは音もなく滑らかに回る。
自分の思考のつらなりが、途切れ途切れでぎくしゃくといていることは百も承知だったが、そのあちらへ跳びこちらへ跳ねる心の身勝手な振る舞いにも、この体から生まれる込み入った論理性があるはずだと信じて、ジロウは魂の奥底でわだかまる何ものかに耳を澄ませた。

ずいぶん前の話なんだけど、あれはそうか、二千十一年の正月とかの話だな。ラオスのビエンチャンで年越しをしたことがあってね。
正月だから雑煮だろうってんで、大変だから餅をつくまではしなかったけど、餅米は手に入るからそいつを蒸かして半殺しにしてさ。野菜の汁に入れてお雑煮気分で食べたりしてたんだ。
そのときはさ、まだ今みたいにスマートフォンが普及してなかったから、PSPを持ってったりしてたんだよ。そう、ソニーのプレイステーションポータブルっていうゲーム機ね。PSPってやつは、そこそこ画面がでかかったし、海外の有志がハックしてて、自作のプログラムを動かすことができたんだよね。初代のやつは赤外線のキーボードが接続できたし、ワープロ代わりに使ったりしてたんだよ。
それでだ、昔ゲームセンターで流行ったゲームのパックがPSP用に手直しされて売ってて、そのゲームパックのソフトの海賊版がネットで横流しされてたわけ。ハックしたPSPだとそういうので遊べたんだよね。
で何をそんときやってたかっていうと、ニューラリーXっていう自動車を操作して遊ぶアクションパズル的ゲームなんだ。
迷路のような競技場に旗が何本か立ってて、それを全部集めるとステージがクリアされるんだけど、敵の車がいて妨害してくるのね。敵の車にぶつかると、こちらの車が壊れちゃうから、そうならないように別の道を行く。そんで、煙を巻くとしばらく敵を足止めできるから、その間に旗を集める。そんなようなゲームなんだ。
これをね、高校生のころ学校帰りに、渋谷のゲームセンターでやってたんだよ。他にもミサイルコマンドとかディフェンダーとか、まあマイナーなゲームをずいぶんとやってたもんだよ。何しろ、春に咲くのは花海棠(はなかいどう)、おいらの人生裏街道なもんで。
同級生のムツモトくんてのが好敵手だったんだよ。たいてい何でもそいつのほうがうまいんだけど、たまにおれのほうがいい点が出たりとかね。
それでゲームセンターでやるから、やり放題ってわけにはいかないでしょ。
それがPSP一台あれば、いくらでも好きなだけやってられるんだからさ、これはいい修行になるわけですよ。何回目にして、ついに第何ステージ突入、何十万点突破なんて記録をつけながら、平和な時を過ごしてたわけですよ。まだ、三・一一を知らない時代にね。
とまあそんなわけで、二千十一年の正月、ラオスの首都ビエンチャンで、人生の総決算とか言いながら、ニューラリーX三眛の日々を送ってたっていう話ですわ。

ここまで書いてジロウは、しかし、と思った。
こんなデジタルお宅な話をわざわざ書くことに、一体どれほどの意味があるだろうか。
無論そんなことには、これっぽっちも意味などない。それどころか、人類の歴史自体、この宇宙の存在自体にも、実のところ意味などないのだ。
あの人がやったあれにはああいう意味があり、今自分がやっているこれにはこういう意味があると説明することで、ヒトはいくばくかの心の慰めを得るのだが、意味などというものは所詮ヒト族が頭の中で造り上げただけの、まったくの幻にすぎないではないか。
そこまで確認すると、ジロウは自分の人生の総決算についての、お喋りの続きに取りかかった。

どうしてビデオゲームなんかのどうでもいいような話をしたかっていうとさ、人生の総決算の話がしたかったからなんだよね。
ゲームセンターで金を使って娯楽にいそしむなんてのは、まったくあほくさい話だけどさ、それが自分の若かりし頃の現実だったんだから、それはそれでしょうがないじゃない。否定なんかしてもなんも始まらんわけで。
そんでね、過去の亡霊みたいな欲求がさ、自分の中に残ってる以上は、そいつを成仏させてやる必要があるんだよ。他の人はどうか知らんけど、とにかくおれにはそれが必要なんだ。
で、だよ。こないだ六月頭から九月の終わりまで四ヶ月近く日本にいたでしょ。これはおれにとってさ、東京と日本に対する亡霊的欲求をね、鎮魂するための巡礼みたいなものだったんだよ。それはまあ、あとから振り返ってみると、っていう話なんだけど。
そこにはね、まずは母との関係ってことがあるし、亡き父とのこともあるし、兄や弟、そしてその家族ってこともある。あるいは高校時代からの友だちのこともあれば、三十過ぎてから江戸川という場所の縁で知り合った福祉系の先輩や友だちのこともあるし、またそこから広がっていった音楽関係の友だちのこともある。
自分の生まれた国に戻ってさ、今までになくたくさんの人と会って、話して、楽しい時間を過ごして、しかもそんなの全部ただの暇潰しにすぎないとも思って、それからいろいろ本も読んで、ほんとに密度の濃い時空を過ごしたんだよ、今回のジパング列島漂流ではさ。

そう、それで読んだ本のことも話したいんだけど、あんまりあれこれ言ってるとくどくなるから、ほんの触りばかりを羅列しておこうと思うんだけど、まずは矢作俊彦の「ららら科學の子」[註2]。
これは六十年代末の学生運動の時代に、日本を逃げるように脱出して中国に渡った男が、三十年振りに日本に戻ってきて変わり果てた東京と再会するって話。矢作の小説だからとても抑えの効いた筆致で、アメリカ風のハードボイルドに近い雰囲気なんだけど、主人公が帰ってきた世紀末の東京ってのがもう四半世紀も前の話だから、今読むと隔世の感があります。けど、そこに溢れ帰ってる望郷の念(ノスタルジア)というものが、かれこれ十五年も日本を離れているところで、一時帰国して日本の方々と濃い接触をしたぼくにはどうにも身に染みてね。
昔のぼくは知らない東京と、九十年代のぼくにとっとまだ馴染みのある東京が重ね合わせて書いてあるのもおもしろいところで。

それからもう一冊は、イヌイジュンの「中央線は今日もまっすぐか?」[註3]。ジュンさんはザ・スターリンが誕生する前からの遠藤ミチロウの盟友で、ザ・スターリンの初代ドラマーとしてミチロウというスターの産婆役をつとめた人でね。そういう人が書いたザ・スターリンの誕生前夜からミチロウの死に至るまでの物語だから、それは壮絶なもんだよ。メジャーデビュー前は、ステージから客席に豚の臓物や頭を投げ込むっていう過激なパフォーマンスで名を売った破壊的パンクバンドなんで、軟弱なぼくはそういう暴力的な世界は敬遠してたから、演奏のひとかけらも聞いたことがなかったんだけど、「仰げば尊し」[註4] なんて改めて聴いてみると、これはなかなかのもんですな。
ザ・スターリンの活動期間は、千九百八十年から八十五年、ぼくが高校から大学へのかけての時期だから、まあこちらは青春真っ盛りって感じですわな。そういう時代の、直接は知らないけれど、同じ時代の空気を吸っていたものとして、すごく共感が湧く一代記でしたよ。

で、最後の一冊は、あがた森魚の伝記で「愛は愛とて何になる」[註5]。
あがたさんは、千九百七十二年にデビュー曲の「赤色エレジー」が大ヒットして世間に印象を刻んだわけだけど、ちょっと太宰治あたりの昔の文士のような雰囲気のある、野放図なまでに自由闊達な人なんだよね。といっても、太宰のようには破滅的じゃないし、世間の道徳を無視するような人でもないけれど。
「いとしの第六惑星」という歌がとても好きで、これには熊本の地名が織り込まれているもんだから、てっきり熊本の人かと思ったら、北海道生まれで青森育ちなもんだから、そんなことからも太宰を思い起こしたりするのかもしれないな。
伝記本は今村守之っていうライターの人が書いてて、ちょーっと構成が煩雑で読みにくいところもあるんだけど、あがたさんへのインタビューを中心に、時代の背景も丁寧に説明を入れて、また関連人物へのインタビューもいろいろ挟み込まれているもんだから、なかなか立体的で読み応えのあるできなんだ。
ムーンライダーズの前身はちみつぱいとの関わりから、矢野顕子のデビューアルバム「Japanese Girl」に与えた影響とか、一昔前の知らない話がいっぱい出てくるから本当におもしろかったよ。
インターネットのイの字もなかった時代に、お茶の水の街角に貼ってあった一枚のチラシから手繰られる因果でデビューにつながるなんてエピソード、まさにシンデレラボーイの誕生神話そのものでさ、まったくいかしてるじゃないの。

まだ何冊か紹介したい本もあるんだけど、まあ今日はこの辺にしとくよ。とにかく、こんな本やらあんな本やらを読みながら、自分が生まれて育った時代と、それにつながるもう少し前の時代と、そうして大ニッポン帝国には少しばかりうんざりして遠ざかるようになってからの、ジパング列島と帝都トーキアウへ思いを残した亡霊たちへの挽歌を歌いながら、そうして踊りながらね、あっちをふらふら、こっちをゆらゆら旅してたんだなって、そんなことが頭の中に浮かんでは消えたのさ。

かんかんかんかんかんと、威勢よく鐘の音が響いた。お寺の昼飯の合図だ。文章を完成させるまでには、もう少し手を入れる必要があるが、ここまで目鼻がつけば、とりあえず一安心といったところだ。
妻のムーコが寺の手伝いをしてくれているおかげで、何の心配もなしに毎日おいしいインド定食が食べられる。豆カレー(ダル)と野菜カレー(サブジ)にご飯と平焼きパン(ロティ)。それだけ食べられれば他に何もいらないではないか。そのありがたさを噛み締めながら、ジロウは寝床から立ち上がり、飯を食いに外に出る支度をした。
宿の建物を出ると、空はうっすら白く霞んでいたが、南国の太陽が中庭をまぶしく照らしていた。荒くコンクリートで舗装された中庭の道を隣の寺の食堂へと向かって、ジロウはゆっくりと歩いた。
[2024/10/9(水)-10(木) 北インド・ハリドワル]

[註1] 葵「自分さがし喫茶」
https://note.com/aoiaoichan/n/n66772009bcc1

[註2]
矢作俊彦「ららら科學の子」
https://amzn.to/4eQKxwF

[註3]
イヌイジュン「中央線は今日もまっすぐか? オレと遠藤ミチロウのザ・スターリン生活40年」
https://amzn.to/3NlGNad

[註4]
ザ・スターリン「仰げば尊し」
https://www.youtube.com/watch?v=_ttc3lMbG-U
(しつこいほどに繰り返される「いざさらば」の文句のあとに、ミチロウが叫び、バンドが加速し続けての終盤には目を見張るものがあるライブ動画)

[註5]
あがた森魚・今村守之共著「愛は愛とて何になる」
https://amzn.to/3ZW3IjG

#茫洋流浪 #小説 #短編小説 #インド #スターリン #あがた森魚

[あとがき]
今日はとにかく滑らかに書こうと思って、そのことだけを念頭に、あとは少しばかり練っていた題材を中心にして、思いつくままに書き進めました。
すると自分でも意外なほどにするすると筆が進んで、というか、実際には鍵盤を叩く十本の指が自在に踊ってくれて、大した直しもないままに一通り書き終えることができました。
読んでくださる皆さまにどう写るかはまた別の話となりますが、気分よく書くことができた作品だということで。
なお本作は、ひとつ前に書いた「帝都の双塔」
https://note.com/tosibuu/n/n698286c9a3e8
の落ち簿拾い的な性格もある作品ですので、合わせてお読みいただければ幸いです。
[2024.10.9]

☆有料部には「妙に長いあとがきのおまけ」を置きます。投げ銭がてらお読みいただければ幸いです。

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