見出し画像

[0円小説] 幸せの原理

東京の西のはずれ、高尾の山裾にへばりつく秘密基地に一人滞在している。
うちの奥さんが大のアジア好きなので、彼女の尻馬に乗ってこの十五年ばかり、インドを中心に東南アジアなどをほっつき歩く人生なのだが、昨年の暮れあたりから世田谷に住む母の体調がすぐれないので、不肖の息子ではあるがそんなときには近くにいたいと思って、友だちが所有する空き家物件に、やや不便はありながらも有り難く住まわせてもらっているのである。

えっ、で、奥さんはどうしてるのかって?
はい、それはですね、昨年暮れに一緒に帰国したんですけども、わたくしの方の都合で彼女に日本の空気を吸わせ続けるのも忍びないもんですから、先日成田まで見送りに行きまして、今はタイのイサーン地方に行ってるってわけでして。

ところで、わたくしは昨年が還暦の歳男だったのだが、その辺りの世代としてはまずまず普通であると思うが、顔本(facebook)やら伝言器(messenger)やらを結構重宝に使って人間関係を維持している。
最近は、五つ下のネット友だちが音頭を取ってくれて、四人の男どもで伝言器を使い、精神世界系というべきか、瞑想やら変性意識やらを話題にいろいろ語り合ったりしている。
で、今朝起きたら、携帯が何やらぴこぴこ言うので、あ、また、そっちの書き込みがあったかと思って携帯を開いてみると、そのグループではなくて、意外な人物からの伝言が届いていたのだ。
あれは八年前のちょうど今ごろ、西インドの砂漠のとば口の聖地プシュカルにある瞑想センターでのことだった。十日間の瞑想コースにボランティアとして参加したところ、珍しく一人の日本男性が参加していたのだ。まだ三十前だろう、パン職人をやっているというその彼とは、コースが終わったあとにプシュカルの街を一日散策し、遠慮のないやり取りをして、気持ち良い時を過ごしたのだ。
伝言は、その彼からのものだった。

うん、それでね、その瞑想センターはインドのゴエンカさんって人の作ったところでさ、まあ、その人はしばらく前に亡くなってるんだけど、そこでやってるのは仏教のパーリ経典にあるビパッサナっていうやり方の一種なんなんだよ。そこのやり方は単純明快でさ、呼吸と体全体の感覚を見なさいっいう、基本はそれだけなんだ。
そしたら、その彼はまた別のやり方を最近やってて、そしたら、天の声が聞こえちゃったって言うわけ。瞑想みたいなことを長くやってると、いろいろ起きるわけよ、まあ、普通の日常感覚からいったら、ちょっとへんてこな、幻覚とか幻聴みたいなことも含めてね。
いや、ぼくも初めてやったときから、途中中断してたときもかなりあるけど、とにかくもう十五年も瞑想の練習をやってることになるからさ、そりゃ、フシギノキノコや麻の花穂をいただいた時にくらべれば効き目は断然マイルドだけど、やっぱりぶっ飛んだ意識状態になったりはするんだよ。体の境目がなくなって、自分が宇宙全体になった気がしたり、首から下が完全に静止してるのがありありと分かったりとかね。
でも、そういうのは単に意識の状態が変性したってだけのことで、別に神秘体験でもなんでもないわけ。それを現に味わってるときには、おっ、すごいことになったぞ、なんて思っちゃうんだけどさ。
てなことだから、その彼にも「長く瞑想をしていると、そういう色々な経験をすることもあるけど、そうした経験を特別視せず、淡々と観察してみるといいと思いますよ」とか返事を書いたわけ。
うん、でさ、そうやって、誰かに思い出してもらえて、連絡をもらうなんてさ、ありがたいことだなって思ったんだよ。

昨日は母の見舞いに世田谷まで行ったのだが、今日は一日これといった用事はなかった。それで、しばらく前から気になっていた秘密基地の奥の家の屋根の上に登って雑木退治を楽しんだ。
屋根は平屋根なので、端がどこにあるかさえ気にして落っこちたりしないようにしていれば、歩き回っても危険はない。数日前に屋根に登れる場所は見つけておいたので、枝切り用のノコと大きめの鎌を持って問題なく屋根に登った。
秘密基地は山際に建てられているので、斜面の上の方から大きな木々の枝が覆いかぶさっている。移動に邪魔な枝を何本かノコで落とした。
覆いかぶさる木々の枝は落ち葉をたくさん落とすので、屋根の上には、いい土ができあがってしっかり積もっている。そこにアオキやら何やらがよく茂っているのを、鎌で刈ったり、あるいは根ごと引き抜いたりしてあらかたやっつけた。黒ぐろとした土に根を張っているが、大きく波上に作られた屋根の上に乗っている柔らかい土だから、あまり大きくないものは引っ張れば簡単に抜けた。
そうやってしばらくの間、久しぶりに体を十分動かしたあとには、心地よい疲れが残った。

夕方、顔本をぱらぱら見ていたら、懐かしい友から誕生日祝いの伝言が入っているのに気がついた。四日前がぼくのニセ誕生日だったのだ。ニセというのは、ぼくの本当の誕生日は九月なのだが、ネット上のサービスで個人確認が重要でないところは、ニセの誕生日で登録しているのだ。
それで久しぶりにその友の書き込みを見ていたら、その人が連れ合いとの日常について書いており、それを幸せの味、幸せの原風景、と表現している。あ、幸せの原理か、と言葉が降ってきた。

母は昨年十月に自宅で転び、背骨を骨折、三ヶ月の入院になった。新型インフルもあり、一時は敗血症にまでなり死線を彷徨った。本人も早く退院したいと望んでいたので、今年になってようやく退院できると、家に帰ってしばらくの間は十分元気にやっているように思えたのだが、しばらくすると体調が低下してきた様子が見られ、昨日のお見舞いではかなり元気がなくなっているように感じた。
二月が暮れば、母は九十になる。悲観的な見方というわけではなく、現実の寿命の問題として、看取りの時期に入ったのだと思っている。
母は弟家族と二世代住宅で同居している。父は四年前に亡くなったので、弟家族と挨拶くらいは交わすが、実質の一人暮らしを続けていた。
入院中に弟が食卓兼居間を片付け、介護用ベッドを入れ、車椅子も用意してくれたし、行政の支援も最大限利用しているので、いま母の介護の体制は万全だ。
三ヶ月の入院で体力が落ちているので、母はかなりの時間をベッドに横たわり、うとうとと寝て過ごしている。寝ていると左腿の辺りが痛くなるようだ。かといって車椅子に座っているのも必ずしも楽ではない。痛みがあるので夜も熟睡はできていないようだ。
そんな状態で、生きていること自体が苦痛を産み出し続けるのだとしたら、そこにはどんな意味があるのだろう。
弟に聞くと、父も晩年は体の痛みが続き、死ねないから生きてるだけだ、とまで言っていたという。

それでね、今朝起き抜けに一時間瞑想をしたときにさ、昨日の母のことがどうしても頭に浮かんでさ、それでだよ、ろくに働きもせずのらくら生きてる自分のような人間を今まで面倒見てくれて本当にありがとうって思ったんだ。そうして今痛みがあってしんどいだろうけど、少しでも楽になってらいいよねって、心に痛みを感じながら、祈るような気分になったんだ。
ゴエンカさんとこのビパッサナ瞑想は、呼吸と身体の感覚を淡々と観察するのが基本なんだけど、もう一つの柱として慈悲の瞑想があってね。仏教ってのは、苦しみをなくしていくための方法論だからさ、修行して自分の苦しみをなくすのが主軸ではあるんだけど、同時に周りの人や、この世界のすべての存在についても、苦しみがなくなるように、幸せになるように祈るってことが大切なんだ。
実際問題として、ぼくは全く自分勝手で、普段は人のことなんかろくに気にすることのできないだめ人間なんだ。だけど、今の母の苦しみを間近に見て、できることなら変わってあげたいっていう、月並みだけど、人間としては当たり前の感情が初めて湧いてきたんだよな。
それでね、母の苦しみについては、祈ることと、あとは少しばかりでもそばにいてあげるくらいのことしかできないけれど、それだけじゃなくてね、いろいろ自分のあり方を考えなくちゃなって思ったのさ。
自分が本当にしたいと感じることを、まずは正直にしたほうがいいと思うし、他の人にあんまり迷惑をかけずにそういうが少しずつできるようになれば、周りの、身近な人から始めて、きちんと人の気持にも配慮して、いろいろなことを一つ一つ丁寧にできるようになるはずだって思うんだよね。
それがさ、今日ぼくが感じた、幸せの原理ってことなんだ。
自分が少しでも幸せに生きられるように努力する。その幸せが周りにも伝わっていくことを信じてさ。
ぼくみたいないい加減男がそんなこと言ったって、まったく当てにならないのも分かってるんだけど、それでもそういう幸せの原理を信じて生きたいと思ってね。
うん、もう、だいぶ遅くなったから、そろそろ寝ることにするよ。昨日実家で夕方別れ際に、じゃあそろそろ帰るねって言ったら、母はお休みって言ってくれたんだ。うん、それじゃ、お休みなさい。
[2025-01-24 東京高尾]

☆有料部にはあとがきを置きます。投げ銭がてらお読みいただければ幸いです。

ここから先は

296字

¥ 200

期間限定!Amazon Payで支払うと抽選で
Amazonギフトカード5,000円分が当たる

いつもサポートありがとうございます。みなさんの100円のサポートによって、こちらインドでは約2kgのバナナを買うことができます。これは絶滅危惧種としべえザウルス1匹を2-3日養うことができる量になります。缶コーヒーひと缶を飲んだつもりになって、ぜひともサポートをご検討ください♬