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[0円小説] 幻詩人の小径

☆あらすじ

今から六十年ほど前のこと、高度経済成長謳歌していた日本の東京世田谷に生まれたジローは、数奇な運命を辿り、妻のムーコとともに南アジアの明るくも騒がしい迷宮を彷徨っていた。
カフカ的不条理の試練を乗り越えインド脱出に成功したムーコとジローをネパールで待っていたものは、世界経済のおこぼれ景気(トリクルダウン)によって煤煙まみれとなってもなお白々と輝く神々の座ヒマーラヤの高峰たちであった。

0. みっつの宝珠

一飛びに千里を飛べる長靴(ブーツ)、着れば姿の隠れる外套(マント)、そして鉄でも真っ二つに切ってしまう剣。

この三つさえ手に入れれば、おれは無敵だ。

ジローの頭にそんな考えが浮かんだ。

といっても、無敵の剣を振り回して、何をどうしよう、といったことまで考えたわけではない。

ただ、子どもじみた魔法の道具への憧れが、不思議と心を揺らし、その三つの宝さえ手に入れることができれば、この退屈な人生とおさらばして、日々を愉快に、けれども落ち着いた心持ちで生きていけるに違いない、とでもいうような、無邪気にも曖昧な空想が、もやとやと頭の中で渦巻いただけのことだ。

「三つの宝」というのは、芥川龍之介の子ども向けの戯曲の題名であり、またその作品の主旋律を奏でる大道具でもあるのだが、間抜けな盗っ人たち、盗っ人たちにまんまと騙される人のよい王子、欲深な王さま、父王から不本意な結婚を強いられる可哀想な王女さま、王女と力づくで結婚しようとする「悪者」の黒ん坊の王さまと、錚々たる役者が勢揃いして、芥川流の皮肉の効いた、そして気持ちよいまでに見事な筆致で笑わせてくれる冗句の数々が畳み掛けるように語られて、しかも結末には、驚きのメタフィクショナルな台詞までが用意され、ジローはこの小品を芥川の最高傑作と評価しているのだった。

長靴と外套と剣という三種の神器。

中世的な剣と魔法の世界そのものの、子どもっぽい夢の空気がジローを捉えたのは、神々が住むと言われるヒマラヤの冷気のせいだったに違いない。

いや、それはむしろ霊気といったほうが相応しいのだ。

暁に朱色に染まり、昼には白じろと輝き、夕には橙色に滲んで光る。高き峰のそうした姿を目にするたびに、ジローは神々の意図せざる意図に想像を巡らすのだった。

ジローは今、妻のムーコとともにネパールのポカラに滞在していた。

ポカラは標高900メートルほどのほどよく広々とした盆地で、北側に最高峰は8000メートルを越えるアンナプルナ山塊が聳え立ち、その中央には7000メートル弱とやや低いものの、富士山しか知らない日本人からすれば、天を突くという形容がまったく誇張とは言えない、正三角形に近い鋭さを持つ山頂が見る者の目を引きつけるマチャプチャレが鎮座しているのだった。

宿の屋上にひとり登り、ひんやりと心地よく冷たい空気の中で、朝焼けに染まる雪蔵(ヒマーラヤ)の神々しい勇姿を眺めていると、三つの宝という物語が単なるお伽噺以上の存在感を持ってジローに迫ってきた。

長靴と外套と剣というのは象徴にすぎない。

例えばそれを仏教の三宝に置き換えて考えてみてもいいのだ。

悟りを開いたものブッダと、この世を統べる法則ダルマと、真理を実践する仲間たちのサンガ。

ジロー自身は、仏教的な三宝に真剣に帰依するような殊勝さこそ持ち合わせなかったが、そこに表される価値観については大きな共感を感じていた。

千里を飛ぶ長靴でマチャプチャレの山頂までへも飛び、姿を消す外套で身を隠してどこへでも隠密に遊行し、いざとなれば鉄をも断ち切る剣によって正義を実現する。

一見仏教とは縁遠い空想だが、ひとひらの雪の結晶に世界が写し出される様子を見ることこそが仏陀の教えの本質だとすれば、すべての三つ組は相互に融通して無碍の認識をここにもたらす。

そうした幼い幻想意識が、朝のわずかな時間にのみ現れる紅いヒマラヤを前景として支えられて、ジローの心のなか去来した。

あらゆるものが、虚空の大海から、波粒のごとく現れては、消えてゆく。

現世を統べるこの絶対的な真実が、ジローの意識の中心で、体を満たす実感とともにしばし彷徨い、結晶化し、形を変えながら漂った。

そのとき世界は、神々のことほぎで満たされていた。

1. 消えろテレビ

神経反射的な目先の欲求や、生理と情動に基づく長続きはしない欲望には事欠かないが、遠い明日を晴れやかに幻視するほどの力強さを持つ夢にも、日々健全に地に足つけて歩いていくことを可能にするような希望にも縁がない。

自分の人生はそんなようなものだと、ジローは思っている。

結局のところ、成り行き任せなのだ。

子ども時代に遡って考えれば、母の曖昧かつ気まぐれな意向に沿うことで人生の道筋が刻まれてきたのだし、やがて一人で歩き出し、友と語り合い、恋人と出会い別れ、結婚し離婚し、就職し離職し、どれもが自分で選んだ道であったことには違いないものの、すべては成り行き任せの風任せ、明日は明日の風が吹き、その気分はと言えば、俺たちに明日はない、というべきものなのであって、間違っても明日に向かって撃て、などというような華やかな絶望とは縁遠いのだ。

ジローの人生は、生きる活力に満ちた、明るい朗らかさとは程遠いものなのだった。

無気力無意欲無関心的低空飛行こそを我が友とし、散発的かつ間欠的な関心の、持続しない猪突猛進によって虹色の淡い彩りを添えて、ジローはその人生を形作ってきたのである。

そうした人生の成り行きの結果として、ヒマラヤに見下(みおろ)される土地の安宿で、未明に寝台のなか布団にくるまり、ひとり電子小石板(タブレット)の白茶けた画面を二本の親指でなでなから、さしたる意味を持つこともない文章をつづる現在として現象していた。

アクの結社ネムレヌの総統カイロ氏から送られてきた今回の指令は、三つの願い。

ジローの頭に初め浮かんだのは、昭和歌謡の一節だった。

……っつのお願い聞いて、聞いてほしいの……

この歌の題名は三つののお願いだったはずと思って、ネットで(もりた)けんさくしてみると、四つのお願いと宣託が下された。

……四つのお願い聞いて、聞いてくれたら、あなたに私は夢中、恋をしちゃうわ……

1970年4月発売の、あまりにも牧歌的な昭和歌謡の歌詞に、ジローの頭はくらくらした。

この歌でお色気アイドルとしてデビューしたちあきなおみが、その2年後に「喝采」でレコード大賞を取ったとの記述を読み、いよいよ目眩を覚えた。

いとも簡単に、お色気歌手を鎮魂的抒情派の歌い手にしてしまう、その節操のなさこそ、昭和という時代の本質だったのかもしれない。何しろ鬼畜米英が、手のひら返しでマッカーサーさまさまになってしまったのがヒロヒトさんの御世なのですから。

ああ、昭和は遠くなりにけり。

ここで唐突に話を変えるが、ジローは昔、自分が地球の大統領になったら、という仮定をもて遊んだことがあった。

自分がもしも地球の大統領になったとしたら、まず真っ先にテレビを禁止する。

次は自動車の廃止だ。

それから原発の全廃だろうか。

しかし、こんな思考の連鎖も、実際のところ反射的な毛嫌いから想起される単なる表面的欲動にすぎないのであって、仮にこの三つが実現したところで、人間社会の進みゆく方向に本質的な違いが生じるとも思えなかった。

テレビや自動車や原発に取って代わりうる、愚かにも魅力的な技術の数々が、おれたちの世界には満ち溢れているではないか。

というわけで、独裁者が思いつきで何かを規制するというような行きあたりばったりの方法では、人類の平和と地球の環境に抜本的な貢献をすることなどできるはずがないというのが本議論の結論なのであります。

それではここで、イギリス民話「三つの願い」の内容を軽くおさらいしてみましょう。

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ごく簡単に要約しますと、「森の木の精の恩寵を得た木こりとその妻の、巨大ソーセージを巡るどたばた喜劇」ということになりますが、木こりの旦那が森に木を切りにいくところから話は始まります。

すると木の精が現れて、「どうか切らないでください、その代わりにあなたの願いを何でも叶えますから」というんですな。

木こりはそういうことなら、と了解して木を切るのはやめて、うちに帰ります。

帰っても食事が用意されていなかったもので、お腹が空いた木こりは暖炉の前で、今ここに黒ソーセージがあったらな、とつぶやきます。

すると、あら不思議、黒ソーセージが目の前にぽとりと落ちてきました。

びっくりする奥さんに木こりがわけを説明すると、奥さんはかんかんに怒って言います。

「せっかくの三つの願いのうちの一つを黒ソーセージに使ってしまうなんて、あんたは何でばかなの、そんなソーセージ、あんたの鼻にくっついてしまえばいいのよ」

すると、あら不思議、ソーセージは木こりの鼻にくっついてしまい、どうやっても取れません。

仕方がないので木こりは三つ目の願いを言います。

「鼻からソーセージが取れますように」

見事に鼻から取れた上等の黒ソーセージを、二人はおいしく食べることができました。

めでたしめでたし。

えっ、この結末、めでたくないですか?

でもグリム童話になると、同じ願いが叶う話でも、こんな風になるもんでしてね。

鉱山で働いていた男が、トンネルが崩れて閉じ込められてしまうんです。

絶望的になった男は「もう一度日の光を見ることさえできたら、死んでもいい」と言ってしまうんですね。するとそれを聞きつけた妖精が「お前の願いを叶えてやろう」と言って、崩れたトンネルに少しだけ日の差す穴を開け、その光を見た男は死んでしまうんです。

童話において顕(あらわ)になる人間の無意識の残虐性を露骨なまでに見せつけるこの恐ろしいドイツ寓話に比べたら、イギリスの民話の何と滑稽で牧歌的なことか……。

2. 車よ止まれ

ここまで書き進めて、ジローは自分が何を書いているのか分からなくなって立ち止まった。

五里霧中というのは、こういう状態を指す言葉に違いない。

大体、今日はちょっと歩きすぎてくたびれているのだ。

そして空気が悪い。

かつ、おいらは化学物質過敏症だ。

寝台の上に寝そべり、楽な姿勢で文章を綴ってはいるが、気力が充実しているとは言いがたいというのがその結果である。

そんな状態で、行方も知れぬ戯言(たわごと)を書き連ねて何になるというのだ。

……と、またジローの思考はそこに戻ってしまう。

まあしかし、それはそれでいい。

何しろ世界のハルキも言っているではないか。旅は戻るためにするものだと。
(ジローはハルキのこの言葉になるほどと頷いたものだがらのちに西洋の別の作家が同様のことを言っているのを発見し、天の下に新しきものなしの真理を胸に叩き込んだ)

ところが、である。

ジローの旅には戻るところなどないのだ。

先日までは北インドのハリドワルに部屋を借りていたが、ちょいとした事情でその部屋は出ざるを得なくなった。

妻が懇意にしている行者が今部屋を探してくれてはいるのだが、それもどうなるかは分からない。

おまけにインドのビザ規則が変わって一年間のうち通算180日しか滞在できなくなってしまったし……。

さて、どうするかと、考えるわけでもなくジローは、ネパールの沈没最適地ポカラにて、ヒマラヤの霊気を吸っているのだ。

しかし、その冷気が様々な物質で汚染されているのだから世も末だ。

世も末とはいえ、今日は長く歩いて疲れたにも関わらず、蕎麦がきが食べられたので本当によかった。

ポカラはネパールの首都カトマンドゥから西へ200キロほどに位置するが、そこからさらに北西へと建設中の道路をジープを駆って180キロも行ったとしよう。するとそこにはムクティナートという聖地がある。その辺りにはタカリと呼ばれる人々が住んでいて、彼らは蕎麦がきを食すのである。

タカリの人々は古くから塩の交易に携わっていて、ネパールのあちこちに移り住んでいる。

今日は妻とともに、ポカラの市街地にある店でタカリ料理を楽しんだのだ。

何と贅沢なことだろう。

生業もなく、ろくな貯金もなく、遊んで暮らしている我が身を顧みて、ジローは思った。

ジロー夫婦は少食なので、一人前の定食を二人で分け合っていた。

300ネパールルピーは邦貨にして300円強、ネパールの物価を考えると決して安い値段ではないのだが(というのも、今泊まっている宿は一泊がその定食2食分という安さなのである)、日本円で考えたら、これは安い。店のおかみさんも日本語で「ヤスイでしょ?」と言ってきた。おかみさんは日本に留学した経験があり、おまけに語学学校で1年勉強し、さらに専門学校で2年勉強したあとには畑仕事を4年間、茨城でやっていたという日本通なのだ。

ネパールにはこういう親日派が実に多い。しかしだ。

300ルピーがヤスイだと? そういう考え方をしたら、ネパールやインドのような国では、大抵のものが安いことになってしまう。

すなわち、無駄遣いをしないためには日本円で考えてはいけないのだ。

というわけで、バス代一人30ルピー(邦貨30円強)をけちって4キロ近くも歩いたのが今日の敗因ということになる。

敗因? いや、別に何に負けたわけでもないんだけど。

当初の目論見は、2キロ弱、半分ほどの距離にあるヒンズー寺まで散歩することだった。

ところが着いてみると寺がしまっている。インドやネパールのヒンズー寺は、小さいところだと朝晩しか開いていないことがあるのだ。着いたのは10時頃だった。のんびり歩きすぎて時期を逸してしまったのだった。

そこでどうするかと考えて、やや無謀と思いつつも、前にも行ったことのあるタカリの食堂を目指した。

夢も希望もなければ、大した胃袋の容量もないくせに、食い意地だけは張っている。

というのが、ジローの自己分析である。

だが。

全体で片道たかが4キロのことではないか。おまけに帰りはバスに乗って帰ったのだ。

もちろん若い頃とは体力が違う。いよいよ還暦となる年を目前にして、若い頃のようにぱっぱかさっさかは歩けない。

それはそうなんですけどね、奥さんと二人、ヒマラヤの神々しくも白く輝く山並みの、道の先にちらちらと見え隠れするのを楽しみながら、年末とはいえそれほど寒くもなく、かと言って日差しも強くはないから暑くもない朝の心地よい時間に、ゆっくりのんびり散歩を楽しんでるだけなんですから、4キロくらい歩いたからってどうってことないはずじゃないですか。

と、ここのところの事情を考えると、どうしても現代の工業化された社会の科学技術の無節操な使い方にについて批判めいた言葉が湧き上がってくるのがジローの常なのだが、そこのところは今はあまり書かないことにしよう。

2011年の3月11日という日を、何も知らず南タイの田舎街で過ごしていたムーコとジローは、その年4月の中ほどに日本に帰国して東京世田谷のジローの実家にしばらく滞在したのだった。

そのときから尋常ならざる体の重さは始まったのだ。

ジローは1990年の初春に初めてポカラに来たときのことを思った。

ネパールが世界最貧国の名に甘んじ、地元の人々は貧しいながらも穏やかな暮らしをしていた頃のことを。

今やバイクが群れをなして走り、市バスが手入れの行き届かぬディーゼルエンジンを吹かして黒煙をもうもうと上げて走る大通りにも、ほとんど走る車もなく、のんびり水牛が歩いていたあの頃のことを。

車というものさえなければ、こんなことにはならなかったろうに。

内燃機関の放つ有毒物質が自分の体に影響を与えていることは、ジローにとってまったく疑問の余地のないことだった。

地球大統領令第二項・自動車の即時廃止の実現を夢見る気分が、仮想的に大いに盛り上がった。

とはいえ、その盛り上がりは単なる言葉遊びでしかなかったので、第三項・原子力エネルギーからの完全撤退と仲良くお手々をつないで、またたく間に夢の彼方へと消え去っていった。

あらゆるものが現れては消えてゆく。

それがこの世の、唯一真実と呼べる理(ことわり)なのだ。

3. 地に平和満ちよ

水部屋の扉を閉じろと言われ、理屈をああだこうだ言われるので嫌気が差し、この女とは距離を取ろうと思い外に出ると、扉を閉じでかんぬきをかけようとするのでばたばたと戻り、そうしてじたばたしているうちに、すべてを破壊しようとするシヴァ神が身の内で膨れ上がってゆく……。

仕方がないので、ジローは小さな旅に出たのだった。

ポカラでの宿は、旅行者向けの宿・食堂・土産物屋が立ち並ぶレークサイドではなく、ダムサイドに取っていた。そこから街道を少し南下すると、チョレパタンという小さな集落がある。

そこから小さな山の山頂を目指すのだ。

しばらく行くと、三本に道が分かれる。地図からすれば真ん中の道。そこをおばあが降りてくる。念のため道を聞いて確かめようかと思っていると、おばあの方から「ストゥーパ」と声がかかった。満面の笑みをたたえている。

次に会ったおじさんは「ナンミョーホーレンゲキョー」と言うので、こちらも「なんみょうほうれんげきょう」と返した。

重い体、進みたがらぬ足、息切れする肺をなだめながら、休みながら、ゆっくりゆっくり山道を登ってゆく。

やがて頂上についた。

日本山妙法寺という日蓮宗の僧侶たちが建てた世界平和を祈る仏舎利塔が、静かに佇んでいる。

陽を浴びて下界を見下ろす哀しみの中の随喜。

白い雪を輝かすアンナプルナ連峰の山々をすぐそこに感じながら、静けさの時空をしばし味わい、じき下りの道に取りかかる。

熱くほてる肌を冷たい風が心地よく撫で、犬が鳴き、人の話す声が遠く下方から聞こえてきた。

足がへたって、下りの道がきつい。早く下に降りて、休みたい。

半分以上降りたところのチョウタラ(ネパールでは大きな木の下が休憩場として整えてある)で一休み。下界に降りたら大瓶とチョウメンでも、という考えが浮かぶ。関係ないがチョウザメまで思い浮かんでしまう。

このあとの道はもう、ほとんどしっかり作られた石段が続き、最後に少し舗装された車道を歩くだけだったが、へたった脚にはその道が遠かった。

段々と言うことを聞かなくなってくる両足をいたわりながら、何度も休みながら道を下ってゆく。

足を止めるごとに文章の切れ端ができあがっていった。

うちの奥方の心の平穏こそが、我が魂の安らぎを産むのだと、論理としては十分すぎるほど理解できたが、情動的な軛(くびき)ゆえにまだ当分の間それが腑に落ちることはなさそうだ。

ジローはそのように自らの気持ちを描写してみた。

  *  *  *

純粋自在時空、この他者に侵されえない環境をしっかりと自分の周りに作ることができれば、やがてその時空は限りなく縮小して、ただ位置のみを持つ針の先でつついたような特異点となる。

その磁気異常(マグネティク・アノマリ)的な次元縮小の極みこそが、悟りと呼ばれる意識状態であるに違いない。

  *  *  *

めんどくさいめんどくさいめんどくさい、と呪文を三度唱えて、潜在意識の大海原へ舟を漕ぎ出そう。

  *  *  *

あなたは突然、自分がどこにいるか分からなくなる。上下の区別もつかなず、右も左も忘れている。時間が何を意味するかも見当がつかない。

  *  *  *

体の重さに気を取られないように気をつけながら、そして世界と人生の無意味を噛み締めながら、ジローは、この地上に平和が満ちていることを、自分も含めて少しでも多くの人が実感できるようになることを祈った。

  *  *  *

(自分の気持ちが手に取るように分かるぞ!)

ジローは歓びに打ち震えた。

[そう書くとしべえの体にはじんわりねっとりと暖かい気が広がった]

  *  *  *

山を降り、人間の世界に戻ったジローは、食堂に入るとチョウミン(ネパール風焼きそば)と大瓶を頼んだ。

腹を満たし、心の乾きを潤しながら、ジローは文章の構想を練った。

そう、自分は、わざわざ文章にするほどの、願いと名づけられるほどの情動とは縁遠い人間なのだ。

そうは言っても、こまごまとしてつまらない、平凡な欲求はいくらでもある。

……といった、どうでもいいことをいくら書き連ねても、つまるところは堂々巡りの藪知らず。

地には平和満ちよ。

俺には三つの願いなどいらない、この呪文一つでたくさんだ。

そう頭の中で呟くと、めんどくさいことはすべて忘れ、チョウメンの味覚とビールの酩酊のささやかな饗宴が生み出す身心感覚の交響に、ジローはぼんやりと意識を投げかけた。[2024-01-03 ネパール・ポカラにて]

#NEMURENU #ネムキリスペクト #小説 #エッセイ #赤山羊派 (読んで思ったままの感想をいただけたら幸いです。「ここはおもしろかった」、「ここはないほうがいい」などのご指摘、歓迎いたします)

[有料部にはあとがき代わりに小文「フランケンシュタインの子どもたち」を置きます。投げ銭がてらにお楽しみください]

[なお、なぜかあとがき代わりの文章では村田沙耶香「コンビニ人間」( https://amzn.to/47gr5EQ ) について少しばかり書いております]

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