[全文無料小説] 編集長、書けました。
こんなことってあるのかな。
サブロウは思わずそう呟いて、鏡に映る顔をじっくりと見つめた。
自分の顔のあまりの変わりように驚きはしたが、気持ちはどちらかというと冷めている。
その顔は、コンピュータのAIソフトで上手に、人間の顔と猫の顔を混ぜ合わせたものにしか見えない。
しかし、ただの合成画像ではないのだ。
こちらが口を開ければあちらの口も開くし、こちらが片目をつむればあちらもウインクをする。
まさに本物だ……。
変わり果てた自分の顔の細部をあれこれと目で確かめ、手で触って毛の生えた気持ちのよい手触りを味わっているうちに、その猫の耳が丸っこいのにふと気がついた。
丸い耳……、これは……、イリオモテヤマネコ?
雑誌で見たイリオモテヤマネコの写真が頭に浮かんだ。耳の形も模様もそっくりだ。
そう考えながら、この異変の性質を呑気に観察ばかりしてもいられないことを思い出した。とにかく顔を洗って、歯も磨いて。
いつものようにシェーバーで髭を剃るわけにはいかないことに不思議と強い違和感を感じながら、サブロウは家を出る仕度をした。
家を出るとき、原付のシートの中からヘルメットを取り出してかぶろうとして、頭の形の違いに戸惑っていると、通行人の若い女が確かにこちらに視線を向けた。
おかしなものを見た、というような表情が浮かんだが、すぐに目を背け、足取りを変えるわけでもなくそのまま通りすぎた。
平々凡々とした日常の世界に、顔だけヤマネコの獣人が現れたら大騒ぎになりそうなものだが、この世界ではそうはならないらしい。
お面をかぶっているとか、目の錯覚とか、合理的な説明をつけて無視するのが日常を愛する小市民というものなのだろう。
そんなことを考えながら、サブロウは出来上がったイラストを持って、印刷所を目指した。
* * *
「まあ、こんなもんでしょう」
担当の編集者にそう言われて、ハナコはどきりとした。
その編集者っていうのがさ、軒下に吊るされてひからび果てた文学青年の化石とでも形容するしかないような人でね、根性が超絶ねじくれちゃってるし、人生の岐路の一つ一つで間違い続けたに違いないなーって感じの、可哀想な退職間近の男だったわけ。
なんだけどね、いちいちあたしの痛いところを突いてくるんだ。
所詮こっちは駆け出しの作家ですから、はいはいと聞いてるしかないんだけど、えー確かにコンナモンでしかありませんよ、今回の短編はね、確かにね!
自分でもありがちな変身譚だなって思うし、はっきり言って落ちもなけりゃあ、大した情緒もありません。
でもですよ、編集者大先生の助言にしたがって丁寧に直した結果がこれなんですから、もうちょっと言葉のかけようもあるってもんじゃないですか。
返事のしようもなく、化石化した干物のほうをぼんやり見ているだけのハナコの頭の中では、誰に向けているのかも分からない、そんな言葉が嵐となって渦巻いていた。
すると編集者がまた口を開いた。
「ツシマヤマネコというのは聞いた覚えがありますが、ベンガルヤマネコというのは初めて知りましたよ。こういうちょっとした知識がうるさくない程度に散りばめられてるのはいいと思います。しかしヤマネコ三兄弟ねぇ、もう一つその象徴するところがぴんとこない……」
ハナコはなるべく表情が固くならないように気をつけながら、だんまりを決め込んだ。
余計なことを言えばそれが絶好の刺激となって、返って辛辣な言葉が大量発生するに決まってる。
弱々しい微笑みくらい浮かべて大人しくしていれば、この化石男のひん曲がった苛立ちのとげも、それほどの時間はかからずに収まってくれるのではないかと希望的に観測して……。
「今回はこれでよしとしますので、また次作が書けたら連絡ください。新人賞に選んでくれた先輩方の期待を裏切らないような、新鮮なやつをお願いしますよ」
気づかれないようにそっと溜め息をつくと、ハナコは頭を下げて部屋をあとにした。
* * *
「サブロウくんはぼくの甥っ子でね、なかなかいい絵を描くから、ここのところうちの雑誌でも使ってもらってるんですが……」
干からび切った化石が、そう喋る声ははっきりと聞こえていたが、ハナコの視線はサブロウの顔に釘付けだった。
「ハナコさんの今度の小説に出てくる三男と、名前が一緒というのもおもしろいじゃないですか」
名前なんかどうでもいい。それより何なの、この男の顔は……。
当のサブロウは、右手で顎の辺りを頻りに撫で回している。そしてその顎は、そして顔全体が、見間違えようもない、猫のものなのだった。
しかもその猫は、ただの猫じゃない。耳のまーるいヤマネコさんだ。
この奇妙な一致を前にして、ハナコはいつにも増して無口にならざるを得なかった。
「……そうだろ、サブロウくん?」
「まあ、そんなところでしょうかね」
サブロウはそんな相槌を打つ程度で、口数は少ない。
一人、上機嫌で喋っているのは年老いた文学青年だけだ。
「サブロウくんならヤマネコ三兄弟の素敵なイラストを書いてくれるはずだよ」
ハナコは曖昧な笑みを浮かべながら、その言葉に頷いた。
本人がヤマネコなんだから、上手に描けるに違いないよね。
原稿を無事受け取ってもらって、何とか一息ついていたところをまた呼び出されて、何事かと思えば、ヤマネコ男と面会とは、化石のおっちゃんもやってくれるじゃないのよー。
* * *
家に返ってサブロウは、改めて鏡の中の自分を見つめた。
あのハナコとかいう作家はじっと俺の顔を見ていた。
猫の顔を見たに決まってる。
けれども……。
タケシ叔父はどうなのか。あの叔父にはこの顔は見えないのだろうか。
それとも、見えていてもまったく気にならない?
あの叔父なら気になどしないかもしれない。
それとも……。
この顔が猫に見えるのはやはり俺だけなのだろうか。つまり幻覚ってわけだ。
家を出たときに通りがかった女やハナコという作家が、俺の顔を意味ありげに見たのは間違いないとしても、だからといって猫の顔を見たとは限らないからな。
狂気というのは案外こんなものなのかもしれない。
つまりだ。自分の顔が猫になったら、たまったもんじゃない。
それはもちろんそうなのだが、別に顔が猫になったくらいで、そんなに騒がなくてもいいじゃないか。
どんなに奇妙な妄想に取り憑かれていても、日常生活に差し障りがないのなら気にすることはないのだと、どこかの医者が書いているのを見たことがある。
ヤマネコの顔をした男がヤマネコのイラストを描いてそれが仕事になるなら、それはそれでいいじゃないか。そんなことは気にするまでもない、奇妙だがありふれた偶然っめやつにすぎないんだ。
そう結論づけると、サブロウはとにかく仕事に取りかかった。
* * *
『作者の空想力が登場人物たちの空想力ともつれ合う。日常に配置された非日常が、まったく普通の現実に見えてくる。そこで巻き起こるささやかな事件を巡る登場人物たちの心理を描く丁寧な筆致は、写実的であありながらも十分な幻想性を帯びて味わいがある。残念な点を挙げれば、三兄弟がヤマネコになるという物語の中心となる事態の象徴性が、ともすれば通俗的な方向の挿話に流されてしまい、読者を十分納得させる描写の水準には至っていない。次回作での更なる展開を期待するところである』
業界紙の書評欄に載った好意的な文章を見て、ハナコはほっとしていた。
同時にサブロウの顔が目の裏にくっきりと浮かんだ。
ふた月ほど前に会ったきりで、その後どうしているかは知らないし、サブロウのあの顔が自分の作品と何らかの関係があったのかどうかは分からない。
いや、もちろん関係はあったのだ。
人間の知覚というものは、案外デタラメなものらしい。
作品をどう評価されるかが気になって、そのことで頭がいっぱいだったこともあり、名前が同じというだけの連想から、妙にリアルな幻影を見たのではないか。
そんな安易な説明に、心から納得するわけではなかったが、時間のムダだと思ってハナコはそれ以上考えるのはやめにした。
掲載誌をめくって自分の作品の扉絵を見た。
サブロウの描いたヤマネコ男が三匹、とぼけた顔でこちらを見ている。
そのうちの一匹が口をかっと開いて敵を威嚇する姿が見えたが、ハナコは取り合わなかった。
編集者の注文に応えて一編の作品が仕上がったという事実だけがハナコには大切だった。
空想のたぐいは作品の中だけでたくさん。
そう思ってハナコは雑誌を閉じた。
* * *
「こんなもの頼んでないんだけど」
アナタはそう編集長が言う声を聞いた気がした。
頼むも頼まないもない。お題をもとに勝手気ままに書いただけの作品だ。
それに編集長は心優しい人だから、そんなふうに無下に却下するような言い方をする人でもない。
自分に自信がないからそんな空耳が聞こえてくるのだ。
アナタはこのところつくづくと思う。
人生というものは結局、ヒトの脳髄が産み出す幻にすぎないのだと。
自信のなさという弱気が失敗を呼び寄せ、逆に強気の過信をしたならば、期待した結果が得られずに意気消沈する。
物事に余計な意味づけをするから、大げさな喜びや悲しみを感じては、返って人生をこじらせてしまうのだ。
ただ今この身に生じている感覚にだけ意識を向けよう。そうすれば、期待や注文通りにできようができまいが、そんなものはみんな、銀河の彼方のブラックホール同様、ただこの宇宙の賑やかしとして存在するだけだということが、はっきりと分かるはずだ。
北インドの巡礼宿でそんなことを考えながら、アナタはその場所の <星の門 star gate>性や <宿の部屋 hotel room>性を感じずにはいられない。
多分ここは華僑の山猫三兄弟がパタゴニアに作った安宿、山猫飯店なのかもしれない。
そして山猫三兄弟は、まだどこにも記述の見当たらない長兄イチロウの空想にすぎないのだろう。
窓の外、遠くから聴こえる街の雑踏の音が、やがて波の音に変わっていく。
アナタ・ジロウは今日も夢を見続ける。
海辺の山猫飯店では、今日もアナタのお気に入りの歌が演奏されている。
頼んだわけでも、頼まれたわけでもないのに、アナタは夢を見続けるのだ。
頼んだわけでも、頼まれたわけでもないのに、この世に生まれてきてしまったからには。
#小説 #NEMURENU #ネムキリスペクト #白山羊派 #こんなもの頼んでないけど
[有料部にはあとがきを置きます]
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