『小倉昌男 祈りと経営』 著者:森 健(小学館文庫)
小倉氏が語る本物の福祉とは?こちら👇
個人的な読書記録です。
1 奥様の死 (この見出しは本書と違います。以下同)
「宅急便の父」こと小倉昌男氏。小倉氏が、ヤマト運輸から退いたあと、私財を投じてヤマト福祉財団を作った。1993年のことだ。そして、障害者の就労支援に力を注いだ。小倉氏の目標は明快だ。【障害者の給料を、月給1万円から10万円にする】まさに、Googleでいう10X。小倉氏が福祉活動を始めた動機は、自らの口からは多く語られなかったようだ。ただ、本書を読むと奥様の影響があったことが推察できる。奥様は還暦を過ぎたらボランティア活動をしてみたいと言っていた。ところが59歳のとき、急死してしまったのだ。小倉氏は、奥様と同じカトリックに改宗し、奥様の影響で始めた俳句は自分の趣味になった。奥様の遺志を継ぐという気持ちもあったのでは、ないだろうか。
2 宅急便事業の成功と改宗
小倉氏が父親が社長を務める大和運輸で専務だったころ、父親が脳梗塞で倒れた。それから、小倉氏が実質経営を任されるようになったが、業績は悪化していった。小倉氏自身、このままでは潰れてしまうと思ったそうだ。
そんなつらい状況で生まれたのが、
「宅急便」だった。
1976年1月、事業がスタート。「翌日配送」て急成長をみせる。同業者が宅配便事業に参入してきたとき、小倉氏は、どう思ったか。
「同業の参入を歓迎する」
小倉氏は紳士的な人だっという。法律を守り、「サービスが先、収益が後」を言い続けたそうだ。
そんな小倉氏、後年会長になって、還暦をすぎてから奥様と一緒のカトリックに改宗する。背景には、二人とも熱心に祈りたい理由があったそうなのだ。娘さんのことらしい。
3 父親 小倉昌男
本書第3章のタイトルは「事業の成功、家庭の敗北」。
敗北はちょっとキツイ言い方だと思うが、この章の小倉氏は、確かにベストを尽くして試合に負け、グランドを去るサッカー選手のようだった。この章に出てくる娘さんは25歳~33歳の頃かな。娘さんは、両親の思いとは違う自由な人生を歩もうとしていたようだ。小倉夫妻は、娘のためにブティックを出したり、教会で毎日お祈りしたりして、娘さんとの距離を縮めようとするのだが、うまくいかなかった。奥様は、そういったストレスも要因となって狭心症を患っていた。
小倉氏は、娘さんには、決して「叱らない」父親だった。
4 娘さんの出産、奥様の死、そして福祉財団
第4章は、小倉氏と奥様が北海道旅行を楽しんでいる様子から始まっている。北海道に来て支店や営業所を視察後、奥様と私的な旅行を楽しんでいたようだ。この頃奥様は狭心症を患い、密かにアルコールにも手を出すなど、心身ともに不安定な時期だった。4年間毎月北海道を視察に訪れたというのは、仕事ではなく奥様のためだったのだろう。現実を忘れさせてくれたのだろうか。
1990年9月、娘さんが長女を出産。お孫さんの顔を見て、二人の気持ちも変わりつつあるとき、奥様が急死してしまう。
葬儀での小倉氏の懺悔。そんなことを言ったのか、と驚いた。
その後間もなく自身にも癌が見つかるが、手術が成功し回復する。
娘さんに第二子が誕生。
「自分は生かされている」と小倉氏は言っていたそうだ。
自分はまだ活動できる、何をやるべきか?
そう考えたときに、小倉氏は、奥様の遺志を果たそうとしたようだ。
本書では、次のように書かれている。
そして1993年に、私財の3分の2を出して、障害者福祉のためのヤマト福祉財団を設立する。
5 給与10万円の実現と孤独
ヤマト福祉財団ができたころは、具体的な方向性が決まっていなかったらしい。1995年の阪神淡路大震災後、きょうされんの理事の方と障害者施設や共同作業所を回るうちに、小倉氏は、それらの施設に経営の概念が欠けていることに気づいた。福祉にビジネスの発想を持ち込んだのだ。
儲かればより事業を充実させることができる、持続可能になるという考えを、全国に啓蒙するところからスタートした。そして、1996年にタカキベーカリー社長と出会い、「ベーカリー」というビジネスモデルの実現を目指す。
心に残ったエピソードがあった。
小倉氏が高木氏の工場を見学した際、自ら希望してパン作りの工程を体験したそうである。白衣を身に着けて。
1998年6月、銀座のヤマト本社の隣、ヤマト福祉財団の1階に「スワンベーカリー1号店」がオープンした。
(※令和3年6月にビル建替のため銀座店は閉店したようだ)
そして、売上も順調に伸ばし、
【障害者の給料を、月給1万円から10万円にする】
を達成する。それから、スワンベーカリーの店舗は、全国に誕生している。
福祉事業がスワンのように羽ばたくことができたころ、小倉氏にとってまた大きな出来事があった。娘さん夫妻が子供4人を連れて、アメリカで暮らすことを決断したのだ。
娘さん夫妻や孫のために、大きな邸宅を南青山の一等地に建て、同居するようになって4年後ぐらいのようだ。
ずっと一緒に暮らせるように、という思いは実現できなかった。ビジネスのようにはいかなかった。
大きな家に一人でいるようになった小倉氏、これから5年後くらいに他界してしまうのであるが、この頃支えてくれた女性がいたそうである。
6 良寛と貞心尼
良寛は出雲崎出身で、40歳はなれた愛弟子の貞心尼と恋に落ちたそうだ。
第6章は、最晩年を支えてくれた女性が登場する。遠野久子さんである。彼女の口から語られる小倉昌男氏は、カリスマや「宅急便の父」だけではない。
二人の出会いは昔からだったが、長女家族が渡米して一人暮らしになってから頻繁に彼女のお店に通い出したという。小倉氏が大腿骨手術の影響で足に不自由があったこともあり、週1で小倉氏の自宅に行きお世話するようになった。
二人の年齢差は28歳。小倉氏は家族として彼女を迎えたかったが、彼女は一定の距離をおいて接し続けた。平日は小倉氏が彼女のお店に行き、土曜日は自宅に彼女が来る。週6日顔を合わせていた。
2004年のGWに、彼女の故郷である新潟県の出雲崎市を小倉氏と彼女、常連客やお店の女の子と訪れたそうだ。これが、二人にとって最後の旅行となった。
小倉氏は彼女に、自分の心にしまっていたことも打ち明けていた。
それは、真理さんのことだった。
2005年3月、80歳になった小倉氏は、アメリカいる長女のところへ会いに行く。そして、6月現地で他界する。
7 子供から見た小倉昌男
第7章では、長男の康嗣さん、長女の真理さんの話が書かれている。
二人が語った小倉家の様子は、ヤマト運輸の成長と真逆だった。
家庭での父は「寡黙」「存在感がなかった」と言う。
母玲子さんは、真理さんが言うには、うつ病を発症していたらしい。そういう精神状態が長く続いていたため、真理さんに対する接し方も厳しくなってしまったようである。
長男康嗣さんは、姉と中学のときから30年間会話をしなかった。小倉氏が亡くなる直前に、今後のことで相談するまでである。
真理さんは、成人してから境界性パーソナリティ障害という診断を受けた。よい薬に出会い、父の死後の翌年頃に精神状態が安定したという。
宅急便がヒットし急拡大していた頃が、小倉家が最も大変だったというのは、ショックすら覚えた。真理さんは、こう言っている。
小倉氏が最後にアメリカの真理さんのところに行った理由は、孫に会いたかっただけでなく、姉のことを最後まで自分が面倒みなければという思いだったのでは、と康嗣氏は語っている。
小倉氏は、人のため、弱者のために力を注いだクリスチャンとしての人生であった。
8 心の奥
本書の最終章である。
福祉財団の設立にあたり、小倉氏は、私財46億円を投じた。
東日本大震災のとき、小倉氏はすでに亡くなっていたが、ヤマト運輸と福祉財団で総額約142億円もの寄付を行った。当時の社長は、小倉氏だったらどうするだろうと考えたようだ。
大抵の人は、社会貢献に熱心な人物、会社というイメージを持つだけではないだろうか。私もそうであった。しかし、本書では小倉氏の心の奥を見せてくれている。筆者は、こう書いている。
冬草や黙々たりし父の愛 (富安風生 作)
かつて部下が、小倉氏の人生を思い出す時、この句が浮かぶと言っている。小倉氏は、黙々と心の奥で祈り続けていたのである。自分では変えられないと悟っていた奥様のこと、真理さんのことを。
本書の題名「祈りと経営」
「祈り」は家庭での小倉氏を象徴する言葉だったのだ。
本書は、「長いあとがき」という文章で締めくくられている。
アメリカに渡った小倉氏は、かわいいお孫さんと穏やかに暮らし、安らかな最期を迎えられたそうである。
そして、小倉氏が一番愛し、一番祈っていたであろう真理さんは、精神障害へのサポート活動をしていきたいと言う。
妻と娘のことを、黙々と祈っていた小倉氏を知ることができてよかった。
(完)