見出し画像

『あんぽん 孫正義伝』著者:佐野眞一

個人的な読書記録。
本書は全7章。同様の章立てで特に印象に残った感想を書く。

第1章 鳥栖市での生活

 孫正義氏は、1957年佐賀県鳥栖市で生まれた。佐賀県鳥栖市に住んでいたのは小学生まで、小学生からは北九州市に引っ越している。旧姓安本、在日三世である。題名の「あんぽん」とは、安本の音読みで中学時代のころそう呼ばれることがあったらしい。
 本章で印象に残ったのは、正義氏が
「過酷な環境で生まれたこと」
「在日であることを隠して過ごしていたこと」
である。
 正義氏が生まれたのは朝鮮部落で、豚の糞尿と密造酒の匂いが漂う過酷な環境だった。さらに在日朝鮮人に対する差別もあった。幼稚園時代、頭に石をぶつけられたことがあり、それ以来自分の出自を隠すようになったそうである。
 そんな中で、正義氏はどうしていたか。著者が取材した正義氏の親類の話が書かれている。

孫正義は朝鮮部落のウンコ臭い水があふれる掘っ立て小屋の中で、膝まで水に浸かりながら、必死で勉強していたという。
P37

 身内だから少々話を盛っているかもしれない。小学生以前の話だろうから、読書などをしていたのだろうか。

第2章 小学校~高校時代

 小学校5・6年の担任の話。正義氏は、授業中、目をかっと見開き、微動だにせず、すさまじい集中力で話を聞いていたそうだ。澄み切った目で。誰に対しても公平に付き合い、勉強ができない子がいれば、寄り添って教えていた。野球も上手。よく遊びよく学んだ子だった。
 やっぱり、子供の頃からすごかったのね、と思ってしまう。小学校時代の同級生の話では、韓国籍であることは誰も知らなかったので、差別されていたということはなかったという。
 韓国籍であることを同級生に言ったのは、中3の冬。高校は名門の久留米大附設高校に進学。中学で成績が伸びたのは、博多一の進学塾に入ることができたからだが、最初は入塾を満たす成績が取れていなかった。正義氏は、あきらめない。その塾に通っていた友達の母親に頼んで塾長に交渉してもらったそうだ。正義氏の母親と2人でお願いして。
 う~ん、そういうことができる人が、成功するんだろうなあ。
 正義氏の人生を決める大きな出来事が起こる。父の大量吐血による入院。
 「自分が家計を支えなければいけない」
 状況が突然やってきた。
 その結論が、高1での渡米だったのだ。家族を支えられる事業家になると決心したのである。もう一つは韓国籍のこと。孫氏は高校進学当時、日本の大学の教員になりたかった。だが、韓国籍だと無理だったらしい。だから、韓国籍でもアメリカの大学を出れば、日本人も評価してくれるかもしれないという思いもあったそうだ。国籍の問題は、当事者でなければわからない、いろいろな制約が昔も今もあるのだろう。
 孫氏は、カリフォルニア大学バークレー校に編入学する。そして、有名な「自動翻訳機」を発明する。そのアイデアを提案した博士によると、正義氏のユニークさは、商品をどのようにして売るかまで考えていたことだったという。
 小倉昌男氏の本にも、いい商品を作れば売れるというのは間違いだと書いてあった。売れる仕組みを作らなければならないと。正義氏の場合、発明はゴールでなく、事業家になるための小さなステップにすぎなかったのだ。
 大学時代、正義氏はお金に苦労していたのだろうと思っていたが、実は父三憲から、潤沢な仕送りを受けていたそうだ。すでに中高時代から、父の仕事(パチンコ屋や金融業)の成功で潤っていたようだ。
 正義氏が日本国籍を取得するときのエピソードも面白かった。孫という名字が前例としてなかったので、国籍取得が認められなかった。そこで孫氏は、奥様の姓(韓国は夫婦別姓だったので)の大野を孫に変えさせた。これはOKだった。こうして前例を作って、孫氏は、孫の姓で日本国籍を取得することができた。
 本章の最後は、シャープの佐々木氏との出会いが書かれている。このあたりは有名は話だろう。佐々木氏は、正義氏の自動翻訳機の技術を2000万円で買った。さらに、自らの退職金や自宅等の資産が一億円になるから、正義氏が借りようとしていた一億円の保証人になってもだいじょうぶだろうと覚悟を決める。おかげで、第一勧業銀行から、日本ソフトバンクの起業資金一億円を融資してもらうことができた。
 まあ、佐々木氏も正義氏もその決断力と行動力がすごいよな。

第3章 父への取材

 本章は、筆者のインタビューに父三憲氏が答えたことが書かれている。
 三憲氏が語る父、つまり正義氏の祖父は、
 ・喧嘩っ早い ・胆力はある ・気位は高い
 だったようだ。
 三憲氏の母、正義氏の祖母は、
 ・働き者 ・時として激しい愛情 ・子供のことには何でもやる
 読んでいて、韓国人気質のようなものを感じた。
  このインタビューを受けた時、三憲氏はもうすぐ76歳だった。自身や正義氏について語ったことで印象に残ったのは、
 ・幼い頃から正義氏の可能性を感じ意図的に教育してきた。
 ・ダイエーホークスを買ってはどうかと、三憲氏から話した。
 ・三憲氏は、韓国人より日本人の気質に好意的である。
などである。
 読む前は、日本人を見返してやるという思いがあったのでは、と思っていたが、違うようだ。

第4章 日本ソフトバンク設立のころ

 結婚時の話。奥様の実家は病院を経営していたので、奥様の親は医者に嫁がせたかった。正義氏が韓国籍であることには何も言わなかったが、医学部に行って医者になってほしいとお願いされたそうである。それに対し正義氏は、
「病院を作って経営することはありえますよ。百軒ぐらいつくる自信はあります。」というようなことを答えたというから、おもしろい。
 帰化時の話。孫という姓を名乗ることに親戚は猛反対した。親戚は皆安本という姓で、韓国籍であることを隠して暮らしていた。在日には銀行がお金を貸さないぞ、なんでわざわざ険しい道を行くんだ、というわけである。
それに対し孫氏は、「僕は、プライドの方を、人間としてのプライドの方を優先したい」と答えた。孫氏の覚悟を感じた。
 1981年に日本ソフトバンクを設立。そのわずか2年後、慢性肝炎を患い、結局三年半も入院した。運良く効果的な治療法に出会えて回復したが、命の危機だった。さらに、正義氏が復帰後、孫氏が入院していた間社長をしていた大森氏の解任劇があった。順調な船出ではなかったようだ。
 正義氏は、ソフトバンクはどんな会社なのかと聞かれ、こう答えている。「情報革命の会社です」
正義氏は、今ソフトバンクでどれくらいのことを達成できたと思っているのだろうか。

第5章 3.11

 正義氏は、3.11東日本大震災後、100億円の個人寄付と10億円の私財を投じた。脱原発復興プロジェクト構想を当時の政府に提言し、自然エネルギー財団を設立した。正義氏が、ずっと脱原発派だったわけではない。震災の原発事故後があって、徐々に原発への依存度を下げていけるよう、自然エネルギーを研究開発しなければならないと考えたからである。
 正義氏は、東日本大震災の翌日から行動を起こしている。
・国内向けSMSを無料化
・iPhone用災害伝言版アプリの提供
・大量の充電器を現地に送る手配
・災害地のユーザーの支払い延長、破損・紛失対策、携帯貸出対策
などが本章に書かれていた。もちろん実際には、もっと多くのことをしている。そして、早くも3/22には避難所や福島県災害対策本部を訪れる。その時すでに、西日本を中心とする17の県知事から、合計30万人分の受け入れOKをもらっていたのだった。
 裏では、偽善者とか在日とか、一部のマスコミや国民から激しいバッシングを受けながらである。
 それでも正義氏は、3.11での体験をこう述べている。

 「自分の非力さが悔しかった」

第6章 母方の親族への取材

 正義氏の母玉子さんの兄弟に取材している。
 玉子さんは、美空ひばり似の美人だった。結婚してからは、姑の嫁いびりに悩んだ。両家は家風が大きく違っていた。それでも母玉子は、子供の教育に熱心で正義氏を支えた。小学校のときに北九州に引っ越したのも、教育によい環境を求めてのことだった。アメリカ留学の際には、母の実家からも資金面でサポートがあったそうである。
 母方の兄弟が語る夫三憲に対する評価は、かなり低い。取材を受けた当時、玉子と三憲は別居中である。
 三憲は、自分の兄弟にビジネスのことで裏切らたようなことがあって、兄弟と疎遠になっているらしい。
 母方の親族に、在日であることを隠している暮らしが長いので、取材を受けたくないという方が多いことに少々驚いた。
 最後に、母玉子さんの妹が覚えている孫氏のエピソード。
 母がこの子はお金がかかるのよと何気なく言ったときに、正義氏は、
「どうか勉強の面倒だけは見てください。借金をしてでも続けさせてください。いつか必ず金持ちになって恩返しします。」
と言ったという。正義氏がアメリカ留学から一時帰国していたときである。
自分に投資してほしい
と願う、必死で懸命な姿を想像した。

第7章 最終章
 正義氏の両親、嫁と姑、親類の内情が語られている。本書の目的は、今まで語られてこなかったそれらの追究らしいから当然だが、ちょっと自分的にはその世界に入っていけなかった。

 本書で、正義氏の両親の家系や2014年当時の状況について書かれている。特に、正義氏の父三憲氏の孤独感が印象に残った。正義氏も含めて、皆さん必死に生きてきて、今も生きている。
                       (完)












この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?