デジタル化がもたらすもの
新型コロナウィルス感染予防対策の中で、大学においても強制的にデジタル移行が進んできました。緊急対応が常態化していく中で教育のデジタル化によって大学という場の意義が改めて問われてきています。
大学の教育について簡単にデジタル化できるかのような論調はありますが、それはデジタル化以前から「本を読めば足りる」という議論が大学の講義をめぐる議論の中にあります。今回のオンラインコンテンツにして大多数に提供できるとの議論はその延長にあると感じます。それは極論すれば「教科書があれば講義は要らない」に通じる議論です。
確かに、専門知識の中にはまず知って欲しい知識体系があり、それは研究の中でももはや常識とするもので、論文では引用もされないような共通概念になっているものもあります。ただ、知識というのは道具と同義であり、使う場面、使う技術、応用する幅が揃わなければ実用には堪えません。
私が継承している炭焼きの技術においても、焼くための方法論だけを学ぶことに意味はなく、材料や窯の状態などの内部環境を読み解く力や、外気温や湿度、日当たりや風向きなど外環境の影響、自分の体感感度、経験との対比などが組み合わさって、安定した成果品を出せるようになるものです。
では大学の授業の意義は何でしょうか?
同じ知識であっても、学生が興味を持つ範囲(学部や学科、時代背景)、知識への読解力(基礎知識の多寡、好奇心の強さ)など内部要因や、教員との関係性(敬意や好感度、言語の共通化)や教室の雰囲気(学生同士の関係性、学習空間の確保)などの環境、社会的な要請(触れる情報源、流行など)などの外環境によって教員は調整をしていきます。
その意味では動画による配信に向く授業、オンラインだとしてもLIVEに向く授業、対面でなければ達成できない授業が混在してきます。教養科目だとしても、その主題に対して関心を持たせるための工夫がそれぞれの方法によって変化し、また限界もあると思います。
デジタル化するという意味では、私も相談を受けるもので地方の魅力や商品をオンラインで発信するというものがあります。これも考え物です。どこでも商品や情報に触れられるのであれば行く意味を失うことを忘れてはいけません。
オンラインは現場の体験を補完するものという限界を理解しておかないと、「発信すれば来てくれる」、「オンラインショップで売ればもうかる」という誤認が発生します。
そもそも「その地域に関心が無ければ情報に触れない」という事実を理解しなければならないですし、「オンラインは全世界の商品との競合」であることも分からねばなりません。重要なのは選択肢の多様性と決断できる程度の情報の幅への設計です。その意味では来訪する方々は物理的な空間の制約があるために選択肢が狭まっているために情報に接する機会を選び取ることができ、また購入機会を増やすことができます。
オンラインを活用するのであれば、そうした実際に体験する機会からの連続性を理解して取り組む必要があると感じます。
大学においてオンラインコンテンツでどこからでも授業を受けられることが、大学のブランディングにどのようにつながるのか、また短期的な収益にどうつながるのか、さらに大学教員それぞれのブランディングと研究機会にどうやってつながるのかを今後は考えなくてはいけなくなったなと思うところです。