【エッセイ】向こうから来たモノの系譜
アニメはたまに見る。気合の入った方は三カ月のシーズンの内の十本、二十本と見ているかもしれないが、私はせいぜい二、三本である。まったく見ない時もある。最近では『進撃の巨人』に嵌っていたから、その他に一、二本見ている、という感じだった。そこで今シーズン、七月からの放送で期待していたのが『小林さんちのメイドラゴンS』である。
このアニメは2017年一月から三ヶ月間、放送された第一期に続いての第二期である。この間、製作していた京都アニメーションが、放火により多数の死傷者を出すという痛ましい悲劇があり、それを乗り越えての第二期の放送ということで、多くの人にも単なる第二シーズンの開始というもの以上の感慨があるだろう。私がクール教信者原作によるこの作品を知ったのはアニメが先だったのか、それとも原作の漫画に触れたのが早いのか、もう思い出せない。どんなお話なのかというと・・・・
会社員として日々忙しく働く独身女性の小林さんもとにある日、若い女の子が訪ねてくる。まったく見覚えがないが、彼女が言うには、小林さんに「行くところがなければうちに来る?」と誘われたので、こうして来たのだという。実は彼女は別の世界からたまたまやって来ていたドラゴンで、今は人間の姿だが、本体はビルほどの大きさの巨大なドラゴンだった。最初は「うちになんかおいとけない」と断る小林さんだが、他に行く当てのなさそうな彼女を不憫に思い、部屋にあげる。こうして、ドラゴンのトールと、人間の小林さんの奇妙な同居生活が始まったのだった・・・・・
と、こんなお話である。この作品をまったく知らない人が今このあらすじを読んで、「うん? こんなお話、聞いたことがあるな」とピンとくれば、話が早い。私が今回のエッセイで語ろうとしているのは、そういう内容だからだ。
無理やり分類するなら「異世界住人居候もの」とでも言えるのではないだろうか? 現在のエンタメ界では「異世界転生もの」が大流行りだが、それの逆である。現実世界のわれわれ人間が、事故や病気などによって命を落とすと、その後、何故かまったく知らない異世界で目を覚ます。そして、ここが一番肝心なのだが、異世界で目を覚ました人間が、なぜか現実世界の記憶をそっくり残している。それに死んだ直後の年齢、外観のままだ。赤ん坊として生まれ変わってはダメなのだ。そうした転生後、覚えていた知識やスキルを活用して転生した新しい世界で活躍するのが「異世界転生もの」である。
異世界に転生した人間(たいてい読者を想定したティーンエイジャー)が、赤ん坊として生まれ変わっては、読者が感情移入できなくなるので、現実世界と同じ年齢、外観なのだとは容易に想像がつく。つまり現実とファンタジーの地続き感が重要な要素なのだろう。ではその逆の「異世界住人居候もの」とは何だろうか?
このジャンルの代表作は何といっても『ドラえもん』だろう。厳密には異世界とは違うかもしれないが、ドラえもんがやってきたのは22世紀の未来である。われわれ現実世界の住人にしてみれば、想像も出来ない世界であるから、それは同じだと言い切ってしまっていいだろう。そんなはるかな未来からタイムマシンに乗ってやってきた猫型ロボットのドラえもんが、平凡な小学生、野比のび太の家で居候として暮らしながら、事件を起こしたり、起こさなかったりする、いやいや、国民的な漫画の内容をここで説明することほどバカらしいことはない。ドラえもんがどんなお話なのか知らない日本人は、八十歳以上の老人層ぐらいだろう。
ドラえもんの作者は藤子不二雄である。そして藤子不二雄には、ドラえもん以前に『オバケのQ太郎』というもう一つの「異世界住人居候もの」がある。もしかしたら、このオバQこそが、このジャンルの始祖かもしれない。
例えば漫画の神様と知られる手塚治虫の膨大な著作の中に異世界住人居候ものがあるかといえば、ない。鉄腕アトムもまったく未来世界のお話として書かれているし、ジャングル大帝もブラックジャックも七色いんこもリボンの騎士も三つ目がとおるも鳥人大系もブッダも火の鳥も当然違うのだ。唯一、『ワンダースリー』がそれに近いようにも思われる。しかし宇宙から地球を監視するためにやってきた三人は、地球では動物の姿で主人公の少年と暮らしているものの、物語はスパイアクションに近く、のんべんだらりと居候しているわけではない。
そうなのだ。異世界からやって来た住人がこの現実世界で「のんべんだらりと居候生活をしている」のが、このジャンルの一番の特徴である。オバQもドラえもんもそうである。そして『小林さんちのメイドラゴン』のトールも、小林家でメイドとして働きながら、居候生活を送っている。まったくオバQやドラえもんの系譜に連なるお話なのである。
異世界の住人がこの世界にやってきて現実世界の住人として暮らす、もしかしたらこのジャンルの始祖は「竹取物語」かもしれない。成立したのは十世紀ごろとされる日本最古級のフィクション作品である。月からやって来たかぐや姫が人間の夫婦のもとで育てられ、一種の居候生活をする。現実世界で巻き起こすドタバタなど似たようなパターンは見受けられるものの、現代のエンタメ作品としてもっとも重要な、読者層との繋がりはあまり感じられない。(それは私が十世紀の人ではないから共感しようがないのかもしれないが)。商業作品としてヒットさせるのに一番重要なのは読者からの共感を得ることである。オバQにもドラえもんにも小林さんちのメイドラゴンにもそれがあったからヒットして、アニメ化され、こうして語り継がれているのである。
では私が考える「異世界住人居候もの」作品をリスト化してみよう。定義として、いずれも異世界に相応しい別の場所から現実社会にやって来たモノが、この世界の住人宅に居候する。受け入れ側の住人はこちら世界のまっとうな市民であり、異世界からのモノたちを家族同然に受け入れる、そんな内容な漫画作品だ。右の数字は連載期間である。
・オバケのQ太郎 1964~1966
・ドラえもん 1969~1996
・うる星やつら 1978~1987
・ケロロ軍曹 1999~連載中
・小林さんちのメイドラゴン 2013~連載中
もしかしたら、何か見落としがあるかもしれないが、それはそれとして、続けよう。まず初めの『オバケのQ太郎』であるが、Q太郎がやって来たのはオバケの国からである。しかしそれがどこにあるのか、どうやったら行けるのかは明示されない。ただ雲の上にあるような描写もあるので、そうなのだろう。つまりオバケと言うのだから彼らはそもそも死者なのだろうか? Q太郎たちオバケが空を飛んだり、姿を消したり、別の姿に化けることができるのも人間ではないモノだからで間違いない。しかしそこに死んだ人間がオバケになる、という湿っぽい話は一切出てこない。人間が死ねばみんなQ太郎のようなオバケに姿を変えるのでは、という仕組みが示されることもない。Q太郎は弟のO次郎とともに人間の正ちゃん宅に居候して、ドタバタ騒動を巻き起こすだけである。
オバケのQ太郎が連載されたのは、少年サンデーの誌上である。現在、サンデーの読者は成人も含めた青年層だろうが、当時は本当に子供向けの漫画雑誌であった。いや、そもそも漫画を読むのは子供である、という常識が当時にはあり、大人の読者に向けた内容などまったく想定されていないのである。小学生くらいの読者に向けて、彼らが親しみやすく、共感を持てるキャラクターが何よりも求められていた。だからQ太郎の存在が何なのか、オバケとは何なのか、そんな小難しい話は脇へうっちゃっておいてもまったく問題はなかったのである。
その数年後に連載が始まったドラえもんであるが、これも読者に小学生程度の子供を想定している。作品が載っていたのも小学館の学童誌なので、はじめから子供向けの漫画なのははっきりしている。しかし特に目的もなく正ちゃん宅で居候をしていたオバQと違って、ドラえもんにははっきりとした目的があった。それとは、のび太の子孫に「先祖であるのび太をしっかりとさせてくれ」と頼まれて、タイムマシンに乗り、過去へやって来ていたのだ。そういうわけで、ドラえもんには使命がある。居候しているのは単なる方便だ。四次元ポケットから取り出した秘密道具も、のび太を助け、成長を促すものだが、ただ甘やかしているようにも見えなくない。ドラえもんには、ただのドタバタ騒動には収まらない大人びたお話もある。映画の原作にもなった大長編シリーズや、のび太が地球を作ったり、海底を徒歩旅行する回などにそんな学習漫画的な面が垣間見える。これは、作者が漫画家として成長したのもあるし、世間にSF的な知識が浸透したことで受け入れられる素地が広がった面もあるだろう。1970年代から80年代にかけて、異世界住人居候ものに限らず、漫画を読む年齢層そのものが上に押し上げられ、漫画は子供のもの、という概念が徐々に崩れていくのである。
そんな時代に現れたのが『うる星やつら』だ。この漫画はただの子供向けではない。はっきり言ってしまえば中高生に向けたラブコメ漫画だ。宇宙の彼方から地球を侵略するためにやってきたはずなのに、なぜか主人公の諸星あたるの家に住み着き、居候する宇宙人の美少女・ラム。オバQやドラえもんに比べたら、受け入れ側の諸星あたるは高校生の男子であり、それまでの作品にはなかった恋愛要素も加わる。掲載誌もオバQと同じ少年サンデーなのだが、オバQの連載終了の1966年から『うる星やつら』連載開始の1978年の、この十二年のあいだに少年サンデーにおける年齢層はかなり上昇している。以前にはなかった劇画調の漫画が掲載されるなど、ほとんど別の雑誌といっていいくらいだ。オバQの絵柄と、高橋留美子のそれを見比べると、違いは一目瞭然である。『うる星やつら』の絵柄は以前の漫画に比べたら、ほとんど劇画といってもいい。
と、ここで漫画劇画論争をしても意味がない。二十一世紀の現在、漫画と劇画の境界はほとんどなくなっているが、劇画が隆盛を始めた1960年代や70年代にはそれなりに盛んだった。漫画賞を受賞した作品に対して「あれは劇画だろ」とクレームがついたりしたこともあったようだ。とはいえ、現在、高橋留美子の漫画を「劇画だ」と決めつける人など皆無だし、私もそんなことにこだわるつもりは毛頭ない。以前は漫画は子供のもの、劇画はそれより上の大人のもの、といった棲み分けがあったが、漫画自体が世間に広く認められたことで境界線は曖昧になり、誰もそんなことにこだわらなくなった、というのが真相である。
二十一世紀になるころには「漫画は子供のもの」なんて認識はほとんど廃れた。すべての年齢層に対して安価で手軽な娯楽を提供する手段としての漫画は、日本どころか世界にも広まった。現在、日本のマンガ、アニメを始めとしたオタクカルチャーは世界にも輸出され、楽しまれている。では、海外のエンタメ作品にこのような「異世界住人居候もの」があるだろうか、と考えを巡らしてみるのだが、どうも思いつかない。スーパーマンやバットマンといったヒーローもの、ヨーロッパのバンデシネの代表にあたる「タンタンシリーズ」、漫画に限らず、映画やテレビドラマを見回しても、なかなか見つからないのである。もちろん単に見落としているだけかも知れないが、このジャンルは日本だけで独自に発展したジャンルかも、とも思えてくる。(間違っていたら教えてください。)
そして『ケロロ軍曹』もこのジャンルに連なる二十一世紀の0年代の代表作だ。宇宙の彼方から地球を侵略しにきたのはラムと同じだが、彼らはより組織化された軍隊として、地球に降り立つ。しかし地球人の日向家に捉えられ、居候を始めることになる。受け入れ側の地球人は日向冬樹と日向夏美の姉弟で、二人とも中学生である。諸星あたるの高校生より年齢が下がっているが、だとしても読者の対象年齢が下がっている感はない。むしろ全年齢を対象にしたギャグ漫画の体裁があり、それは全編に散りばめられたパロディやオマージュからも見て取れる。また日本の漫画やアニメが海外に紹介されるのが普通になった時代の最初の世代として海外に広まった作品でもある。(『げんしけん』の作中でそんな台詞があった)。それまで、日本のオタク界隈はスターウォーズにしろスタートレックにしろ、海外、とくにアメリカ産の作品を消化するに過ぎなかった。『宇宙戦艦ヤマト』がアメリカで放映されはしたが、当時の視聴者はそれが日本で作られたなどとは意識していない。連載中のドラえもんやうる星やつらが日本と同時進行で海外に紹介されるなんてことは、決してなかったのである。その点、『ケロロ軍曹』は日本産の漫画、アニメとして海外のオタクたちに同時代に届いている。当時はネット配信が整備される以前なので違法視聴が横行していたが、日本の全年齢どころか、海外にまで視野を広げていく初期の代表作にあげてもおかしくないだろう。
そして2010年代、日本の漫画はほとんど同時に海外でも翻訳出版され、アニメもリアルタイムでネット配信される時代となる。この時代の「異世界住人居候もの」の代表作が『小林さんちのメイドラゴン』である。やって来たのはドラゴンであるトールで、こちらの世界では若くてかわいい女の子の姿だが、魔法で姿を変えているだけであり、実際は巨大で火を吹く恐ろしいドラゴンなのだ。彼女は「向こうの世界」から来た。オバQのオバケの国、ドラえもんの未来、ラムやケロロ軍曹のはるか彼方の宇宙とはまた違った世界からの来訪者だ。向こうの世界とはいわば平行世界、パラレルワールド的な、この現実世界とは鏡の裏側のような似ているようで違う非日常空間である。ひと口で解りやすく言ってしまえばドラクエ的なゲームの世界だ。剣と魔法、勇者とドラゴンが戦う中世ヒロイックファンタジーの世界がこの現実世界と表裏一体で存在し、ある種の魔法を使えばその境界をくぐり抜けて、こっちに来られるようになっている。もちろん、そんな設定が受け入れられているのは、『ドラゴンクエスト』に代表されるロールプレイングゲームが世間に広まって常識となり、いちいち説明しなくても皆が分かってくれるようになったからである。また受け入れ側の人間もついに社会人の大人になった。
居候を受け入れる人間の小林さんは独身の女性である。ソフトウェア製作会社に勤めるサラリーマンであり、プログラマーもしくはシステムエンジニアとして日々忙しく働いている。そして、そんな生活に行き詰まりを感じていた。納期に追われ、プライベートなどほとんど存在しないような社畜生活。そこにいきなりやってきたのがドラゴンのトール、巨乳でかわいい見た目のメイドのドラゴンなのである。現実問題として、我々はオバケでもロボットでも宇宙人でもドラゴンでもない。読者が感情移入する対象なのは来訪者である異世界人ではなく、受け入れ側の人間である。つまり小林さんが我々の代表であり、多くの読者が共感を抱く自分の分身になる。そんな小林さんとはどんな人物なのか、さらに掘り下げると・・・・
まず彼女は一人暮らしの社会人である。おそらく地方出身で東京都内の会社に勤め、忙しく働いている。とはいうものの、充実した日々を過ごしているようには描かれない。会社でも、私生活でも、心の片隅に虚しさを抱えている、まさに現代日本人そのものである。また容姿も、女性であるにもかかわらず、どこか中性的で、いわゆる豊満ボディとは程遠く、初めて会った時のトールには「え? 女性?」と驚かれる始末だ。つまり小林さんとは全世代、全方向に向けて共感が持てる設定となっている、と言うのは深読みのしすぎだろうか? 小学生の正ちゃんのもとにオバQがやって来てから五十年、漫画に描かれる「共感を持たれるキャラクター日本代表」はここまでの造型になった。しかしダメな小学生ののび太が射撃の名手であったり、夏休み映画の中では活躍するように、小林さんもただのお疲れサラリーマンではない。アニメ一期のラスト、ドラゴンはこちらの世界に関わるべきではない、としてトールを連れ戻しにやって来たトールの父親(恐ろしい巨大なドラゴン、名を終焉帝)に対して「自分の娘を信じて見せろ」と啖呵を切る。この場面で小林さん自身もトールが自分にとって大切なパートナー、相棒であることを認識するのである。それがこのジャンルの真髄だ。異世界からやってきたモノと、現実社会の平凡な人間の組み合わせの間に、種族や宇宙人といった障害を越えて生まれる信頼感、それは恋愛でも友情でもいいのである。誰かと絆で結ばれていたい、と皆が思う感情を少し奇妙な視点から見せているのが「異世界住人居候もの」なのだ。つまり、「異世界住人居候もの」とは「相棒(バディ)もの」の変形なのである。
「バディもの」はそれこそ、どこの文化圏のエンタメ作品に存在する、普遍的なテーマだ。バットマンとロビン、シャーロック・ホームズとワトソン、ナイトライダーとナイト2000、タンタンとハドック船長、それこそ枚挙に暇がない。2011年に公開されフランス国内では歴代三位のヒットとなったフランス映画『最強のふたり』はそんなバディものの名作である。頸髄損傷のため車椅子生活の富豪のもとにやってきた介護人、この二人の間に生まれる絆と葛藤を描いている。金持ちであり上流階級の富豪フィリップと、貧困層で犯罪者ギリギリのアフリカ移民の若者の介護人ドリス、境遇が違いすぎるにも関わらず、すぐそばで接っしているうちに生まれる信頼関係がテーマだ。どちらにとっても相手は異世界の住人であるのに、居候生活(介護人のドリスは実際に邸宅内に住み込みになる)を通して生まれる奇妙な友情が描かれた映画だった。
相棒となる二人の境遇が違えば違うほど、物語は面白みを増す。それは鉄則のようなものだ。そこに作者が想像の翼を広げて、SF風味をちょい足しすれば、「異世界住人居候もの」が完成である。それは本当に藤子不二雄がオバQやドラえもんで確立した手法なのかもしれない。そして、これだけ日本の漫画が世界に広まれば、やがて我々日本人も海外産の「異世界住人居候もの」に触れる日も遠くないだろう。私はむしろ、そんな日が待ち遠しいくらいである。
小林さんはトールと同居生活をしているうちに変わっていく。会社の同僚にも「前より明るくなりましたね」とまで言われる。異世界から魅力的な相棒がやって来て、同居生活を始めれば誰でも変わるだろう。それは我々、平凡な現代人のささやかな願いでもある。ドラゴンのメイドでも、未来のロボットでも、宇宙人の侵略者でも、どんなモノでもいい。この退屈な日常を壊してくれるモノを皆、欲している。
私にはドラゴンの巨乳なメイドさんを、お願いします。ええ、心からお願いします。