ひびきあう哲学対話|フェアな関係と場から生まれる新しい何か
最近、高校生や大学生と哲学対話的なことをしている。
僕はこの活動がとってもしっくりきている。なんか、これまでの自分の活動の集大成のような、すべてを一つにまとめてシンプルに抽出したらこうなった、みたいな。
そして、楽しい。しっくりきてるからやり甲斐もすごくある。好循環が生まれる場をつくるのが好きなんだと思う。そこから自分がいなくなっても続いていくような。
ライフワークをまた一つ見つけた気がする!
きっかけは高校の授業
きっかけは、尾道商業高校で授業に関わらせてもらうことになったこと。最初は、映像のワークショップをしてほしいと頼まれた。いざ教室に行って学生たちを観察すると、どうも映像づくりに興味があるように思えない。大人が教えたいことを教えるのでは、大人も子どもも疲れるだけ、というのは、10年続ける福山大学の講師で身に染みて感じていたこと。
なので、まずは学生たち一人ひとりのニーズを探ることに。
まず自分のやりたいことや困りごとを書き出す。少人数のグループに分かれて対話して、そのきっかけは何か?ということろから、自分だけの物語を見つける。それをナレーションにして、簡単な自分語り映像を作る。これを「マイ・ストーリーテリング」と名付けた。
教室に40人いる学生のうち、この映像を完成させてくれたのは10人程度。ここで僕は、作れなかった人が落第したと捉えない。興味があったのか、なかったのか、今のタイミングじゃなかったのかもしれないし、僕のワークショップのやり方が合わなかったのかもしれない。
映像を完成させることよりも、自分の興味や困り事の本質に気付いてもらえただけでも嬉しい。他人と共有することで、自分の特性に気が付けるきっかけになったのではないだろうか。
1学期はこれで終わり、このワークショップに対するフィードバックをもらった。「2学期以降も、もっと深めていきたい?」という質問に対して反応してくれたのは5人だった。40人中5人しか反応してもらえなかった、と悲観的にはならない。むしろ、しめしめと思った。
これも大学の講師をして思っていたことだけど、学生一人ひとりみんなニーズが違う。だから、可能な限り少人数制にすべきだと思っていた。一人ひとりのニーズ、個性、困りごとなどをちゃんと知った上で、本人が求めているもの、背中を押せるものを提示して、本人が選んで、学びたいタイミングで学べる、それが最も効果的だと思う。それもあって、5人〜10人くらいがいいよなぁとぼんやり思っていた。
2学期は5人の学生と、僕を含めた大人が数名(うち引率の先生一人)でやることに。そんな時、尾道で『こども哲学』を実践する藤田リナちゃんが参加してくれることになった。(紹介してくれたアスカちゃんに感謝!)
これこれ!これだよ
昨年『ぼくたちの哲学教室』というドキュメンタリー映画を観て、めちゃくちゃ気になっていたけど、参加する機会がなかったので、実際にどんなものか知らなかった。2学期は、リナちゃんにファシリテーターとして哲学対話を導入してもらって、僕も学びたい!と始まった。
「学生たちが、安心安全と感じられる場が大事」ということだったので、まずは教室は無いな、と。学校も無いな。ということで、学校を飛び出して、海が見えるカフェのウッドデッキでやることにした。
先生がいると、結局視られてる感があるが、この先生がとにかく良い感じの人で、やわらかくて、やさしくて、お茶目。何より、前々から哲学対話が気になって、学校で挑戦したこともあったとか。だから、彼の存在が学生たちが喋りにくい雰囲気を与えることはあまりなさそうだった。
哲学対話を実践1日目。実際に体験してみて、目から鱗だった。これこれ!これだよ、僕が求めていたものは!という興奮だった。
参加した高校生も大人も全員初めての体験だったので、うまくいったわけではないし、みんなが満足したわけでもなかった。でも、この哲学対話がやろうとしていることに感動した。
哲学対話のルールと目指すところ
哲学対話のルールを見るだけでも、目指していることを物語っている気もするが、こればっかりは体験してみないと分からない。
僕が感じた感動は、参加者全員がフラットになるってこと。年齢、性別、肩書き、思想、文化など関係なく、みんながフェアな状態で対話ができること。そして、目的やゴールに向かうのではなく、お互いの考えや気持ちを交換する行為自体に悦びを感じること。さらに、他者との対話によって気が付く自分の個性(自分にとっての当たり前が当たり前じゃなかった、みたいな)、そこからの自己の探求・・・。あぁ、すげぇと勝手に感動した。
あ、音楽みたいだ
音楽家・青柳拓次さんのワークショップ『サークルボイス』と一緒だわぁと思った。
言葉を必要としない『サークルボイス』。言葉よりも音楽の力の方が圧倒的に豊かだとは思う。
分断を生み続ける言葉。どうすればその壁を乗り越えられるのか。哲学対話は、言葉を必須とする現代人に対して、言葉を使って限界まで挑戦してる感じがする。そこに僕は感銘を受けた。
人と人が、どっかで「同じだよね」って感じられること。全く正反対の思想の人だったとしても、一緒にバスケしたら仲間になったとか、地域の草取りに参加したらご近所さんと繋がれたとか。親近感みたいな。そうなると、人に対して自然とやさしく、寛容になれる。
言葉だけだと、どうしても限界がある。この文章だってそう。読む人の解釈によって全然受け取り方や意味が変わってくる。この言葉、腹たつなーって人もいれば、グッとくるって人もいる。
音楽は、そこを軽く飛び越えていく力がある。豊かさがある。だからって、言葉をあきらめるわけにはいかない。
哲学対話が深まると、言葉だけを交換してるわけではないということに気が付く。むしろ言葉以上に、話している人、話していない人の表情や感情を観察するし、その輪全体を意識する。あ、音楽みたいだって思えた瞬間はとっても心地いい。
僕は、これがとっても好きだったんだ、ということに気がつけて本当に嬉しい。この出会いに感謝しかない。
映画×哲学対話ワークショップ
これを機に、非常勤講師をやらせてもらっている福山大学の『映画論』という授業にも哲学対話的なことを導入した。
みんなで映画を観たあとに、哲学対話的なやり方で感想を伝え合い、映画から抽出したテーマ(問い)を深めていく。10年講師をやってきて、「あぁ、やっと納得いく形が見つかった!!」という気持ち。毎回とっても楽しい。
大きい声では言えないが、学生たちには「この授業は出席しなくても単位をあげますので、興味のある人だけ出席してください(※)」と伝えた。理由は先にも述べたように、興味や学びのタイミングのミスマッチをなくすのと、僕大人1人がちゃんと関われる人数は多くないから。(名前すら覚えられないし・・・)
「そうは言っても、本当に単位くれるの・・・?」と疑う学生がたくさんいたので、毎回同じことを伝えたら、30人が15人くらいまで減った。けど、15人は毎回出てくれるようになった。フィードバックを見る限り、みんな映画と対話を楽しみにしてくれている。
(※出席が足りない人には別の課題で対応)
回を重ねると、学生同士だけじゃなくて、いろんな年代の人とやってみたいという声が出たので、友人に声をかけて大人も参加してもらった。これにも、学生たちはとっても刺激を受けてくれて、楽しかったというフィードバックをもらった。
大学生のフィードバック
反響がすごい!嬉しい!
学生たちが求めていたこと、悦びが、価値観の違う人との対話の中にあったなんて。
ありのままが許される時間と場
彼ら彼女たちが通ってきた学校という場は、声の大きい人がよく喋り、声の小さい人の話は聞いてもらえる機会が少ない。多数決で物事が決まりがちで、少数派や個性派は肩身の狭い思いをするから、多数派になろうと自分を殺してきた人も多いのでは。僕もまさにその一人。
小学校の時に、少し目立った動きをしていたら、友達が離れていってしまった経験をして、そこからは目立たないように、周りに合わせて生きていくというスタイルになった。これが海外留学をする25歳くらいまで続いた気がする。
同じ教室にいるのに、声を聞いたことがないとか、何考えてるか知らない。だけど、この授業に参加して、その壁がなくなった。みんな、その悦びを感じてくれている。なによりそれは、自分が許される感覚。自分が自分のままでいい、ありのままでも受け入れてもらえる時間と場。見た目には服装も考え方も違いそうな相手でも、どっかで「おんなじだ〜」って感じられる。そのことで自分の世界が広がる。
そんな学生たちの様子を見ていると、小学生の頃の自分が癒やされているような感覚を覚える。過去は変えられないが、僕の中の埋められなかった何かが癒やされているように感じる。だから、いくらやっても飽きないし、やり甲斐を感じるんだと思う。僕が何かを教えるというよりも、一緒に学ばせてもらってる。
僕は哲学も対話も哲学対話も勉強したことがないから、専門家さんからしたら「何言っとんじゃ」ってなるのかもしれない。けど、楽しいのでこのままやらせてもらおう。
きっと完成された型のようなものはないんだと思う。その日、その場だけで生まれる音楽を大事にしたい。
最後に、参加してくれた高校生ハルカちゃんの感想をご紹介。
こちらこそ感謝です!!
参加してくれたみなさんに感謝!!
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