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世界"一蹴’旅日記✈︎3話・あなたはジュライ派?カオサン組?どっち?

90年代古き良き時代の
バックパッカー世界"一蹴’旅日記を公開。
日記File No.002

日記File No.003 タイ・バンコク編
1998年7月28日


✈︎ジュライホテル組 vs カオサン組

賑わいをみせる90年代のカオサンロード

アジアを旅するバックパッカーの拠点として知られているのはカオサン・ロードだ。
300mほどの路地にドミトリーと呼ばれる安宿がひしめき合っている。ここに来れば、旅に必要な全てが手に入る。

格安航空券を売る旅行社も激しく競争をしている。

『カルカッタ行き格安xxxバーツ!』とか
『イスタンブール片道xxxオンリー』とか

店先の看板をのぞいては料金を比較して、あっちを見たりこっちをのぞいたりして旅行社をハシゴして交渉する。こうして歩き回ってチケットを買うのが楽しい。バンコクからなら世界中どこへでも旅立てる気がする!

格安チケットを買うために世界中からバックパッカーがカオサンに集まってくる。そうやってここは発展して賑わってきた。

ボクの、バンコクデビュー戦は1992年。
カオサンの歴史の中でも90年代は絶頂期だと思う。

ところが、ボクのバンコクでの常宿は、カオサンではなく、ヤワラー(中華街)にある
『ジュライホテル』
だ。

それには理由があった。


✈︎ドンムアンで出会った旅人に誘われて…

ファランポーン駅

ちょっと時代をさかのぼり1992年。大学生のボクはベトナムでのエキサイティングな旅を終え、サイゴンからのフライトでバンコクへ戻って来たところだった。

降り立ったドンムアン空港で、学生らしき日本人バックパッカーを見かけると、すかさず話しかけた。

ボク『今日の宿は決まってますか?』

旅人『もちろん決まっているよ。君、もし決まってないなら、一緒に行こうか?』

ボクたちパッカーは、同じようにザックを担いで歩いている人を見ると、あたりかまわず話しかけて、情報を交換し合って、意気投合して一緒に旅をしたものだ。

とにかくみんな情報に飢えていた。

そこでボクはこの先輩バックパッカーの後に着いて行く事にした。ちなみに、この先輩パッカーはこの時、大学4年で既に就職はゼネコン大手・大成建設様から内定をもらっていて、卒業旅行で世界中をぶらついているうらやましいご身分だった。

サクサク迷いもなくローカルバスに乗りこなすこの先輩パッカーの後を追いかけてボクはこう切り出した、

『先輩、バンコク慣れてますね!ところでボクたちはどこへ向かっているんですか?』

『このバスはフォアランポーン駅に向かっている。』

ふあらんぽーん?
Hua Lamphong Station、、、?


✈︎フアランポーン駅とは、、、。

ファランポーン駅
1916年に竣工したバンコク最大かつ最古のターミナル駅。タイの首都バンコクの玄関口としてタイの人々や旅行客らに100年以上にわたって親しまれている。
この待合で何もなくぶらつくのが好きだった
駅前で食べるソムタムが好きでした

この駅の周辺はヤワラーと呼ばれる''中華街''が広がっていて、この一角に目指す安宿がある、という訳だった。そうして連れて行かれたのが、、、

『ここが、ジュライホテル!』

ジュライホテル全景

目指した先は、カオサンではなく、ヤワラーにあるジュライホテルだった。

先輩は、
『俺はここを常宿にしてる。フアランポーン駅に近くて移動に便利だし』
と教えてくれた。

『なんかこの辺、怪しそうすね…』
そんな会話を交わしながら、ヤワラーを歩くボクたちは、ジュライのレシェプションにたどり着いた。

まずは、今日の部屋に空きがあるか確認しなければならない。

『こいつが、有名な 伊東四朗だよ

伊東四朗とは👉


右 伊東四朗さん 女性自身より

フロントで待っていたおじさんは、まさに伊東四朗そのもので、怪しい笑みを浮かべボクたちを受け入れてくれた。

『えーと、イープンね、ちょっと待ってね。』

と怪しい日本語を操りながら、伊東四朗は後ろにある宿泊者管理の大きな黒板を眺めた。その黒板は、全ての部屋番号が書かれたボードになっていてそこに宿泊している旅人の国籍が書かれていた。何も書かれてない枠は、空いている、と言う意味だ。


日本
日本
日本
日本
日本

日本
日本

日本
日本
日本

日本としか書かれてないじゃないか!
ジュライは99.9%日本人の沈没系バックパッカーで埋められていた…

『マイペンライ!空いてるよ』
伊東四朗がニヤけて答えた。

『分かった、じゃあ2部屋頼む』 

聖地ジュライホテル


ジュライホテルには、ドミトリーなんぞはなかった。皆んな基本1人で部屋にこもるためだ。
カオサンよりジュライを好むパッカーは、ドミでなくシングルでこもれる、そこに大きな理由があった。

先輩パッカーはそう言うとさっさと古ぼけたエレベーターに乗り込んで上がっていった。

ボク(ああ、ここに泊まるんかあ…)

こうしてボクは聖地ジュライホテルの住人になったのだった。結果。そして95年まで、バンコクへ飛ぶ度にここを寝ぐらとして貧乏旅行を繰り返していた。

ぼくたちの時代には
ジュライホテル
がそこにあった


バンコクの中国人街・ヤワラ―には当時たくさんの安宿があった。有名な宿では、谷恒生の描いた小説『バンコク楽宮ホテル』の楽宮大旅社などがあった。このジュライホテルもある意味バックパッカーの聖地となっていた。コストを少しでも安くし長くバンコクに沈没したいパッカーたちの巣窟ともなっていた。他に台北大旅社もあり、ジュライが満室の時はよく利用したものだった。ここのエアコン部屋は沈没するのには最高だった。

伝説の安宿・台北大旅社
個人的にはこちらのエアコンシングルが
心地よく大好きだった
ヤワラー

✈︎バックパッカー名言集

ジュライホテルのうす汚れた壁には、こんな名言が書かれていた。

食のアジア
金の北米
女の南米
歴史のヨーロッパ
耐えてアフリカ
なにも無いオセアニア

読み人知らず

これを聞いてうなずける旅行者はかなりのパッカー歴を積んでいる人だろう。当時のボクは、分かった様で分かっていなかった。

その後、世界一周の旅をし、南米までたどり着いたとき、ようやくこの意味が理解できた気がした。

ジュライホテル
ジュライロータリーの噴水

しかし、このジュライは1995年に閉鎖してしまっていた、、、。そこで、ぼくはジュライに行けないパッカー難民となり、宿をカオサンに移したのだった。

ボクは実は、カオサンのあの騒がしくて、皆んなで一体になってはしゃぐハッピーな雰囲気には、うまく馴染めなかった。
そもそも、ボクは人とつるんだり群がる事がうまくできないたちて、小学校からずっとそうだった。
だから、ひとり旅にでた。
バックパッカーは孤独な旅人であるし、友だちがそんなにいないから、カオサンに来ていきなり他人と仲良くなってわーわーキャーキャーはできなかった。
そんなボクにはジュライは落ち着ける空間だったのに。

だから、この旅が始めてカオサンで宿を取る旅になった。
ここで人に馴染めるだろうか?と不安だ。

【宿】
「Friendly Guest House」
狭いソイ(小道)を入ったところにあった。けだるそうにオバちゃん達が軒先でタイ式マッサージを奏でている。そこを通って上へあがると、ドミトリーがあった。典型的なパイプ式2段ベットが6つ。もちろんクーラーはない。まずは合格としよう。


カオサンのドミトリー



【本日の出費】
マッサージ:1400B/H 200B/2H/
シンハービール:80B/本

FRIENDLY GUEST HOUSE
90/15,Soi,Rambutree,Banglumpoo,Bangkok
ドミトリー 2段ベッドx 6
50B クーラーなし

次回予告
バンコク飯を食らう
愛すべき
カオパッド

ワットアルンで遊ぶ子どもたち
to be continued..

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