2023年9月28日(木)としみさんとの会話
「本山読本」を借りにいった
昼に散歩していたら、近所の物知りおじいちゃんのとしみさんがいた。
以前見せてもらった、「本山読本」。80年以上前の小学校で使われていた副読本だ。
当時の自然の様子などを知ることができると思って、その存在がずーーーと気になっていたので、これを機に借りてコピーしようと声をかけた。
ちょっと探したらすぐ出してくれて、いつでもいいよと貸してくれた。
このほかにも、吉川さんという昔本山で学校の先生をしていた方の本も見せてくれた。それは神仏の話や、哲学や倫理などの話のように見えた(漢字ばかりで読めなかった)。昭和53年に88歳というご本人の写真が本に乗っていた。が、これは難しそうだから、とりあえず「本山読本」だけ借りた。
その際にいろいろと立ち話をした。覚えていることを書いてみる。
ミニ八十八か所のこと
大石集落に残っている「ミニ八十八か所」。これも数年前にとしみさんと集落の方が何年もかけて、場所等を整理した資料を作成してくれた。
このミニ八十八か所は江戸末期のもの。江戸末期には、廃仏毀釈が行われたたため、それを免れて現存しているというのはすごいことだそうだ。
そして、としみさんが30代くらいまでは、愛媛にある奥の院?という八十八か所のひとつの番所があるそうで、汗見川の奥にある。
昔は、そのための宿屋が何か所も汗見川の坂瀬という場所にあった。
すくなくとも、としみさんが30代の頃までは、その家はあったと記憶しているそうだ。
この辺りでは、仏教よりも神道の多い。
灯篭(名前忘れた)のこと
大石城付近にある「なんとかかんとか(灯篭)現物見たらわかる)」は、文化12年という年号があり、一体なんなのか。と問うと、
それは、昔は各部落にあった。吉延にもあるはず。とのことだが、だんだん壊されてしまった。
大石城跡の近くにあるので、大石城の関係のものかと思ってました。
というと、
大石城よりもずっと新しい(!!)ものだ。
とのこと。
大阪城の周りと戦
この周辺には、江戸時代から続いている家がある。
わたしの借りているお家は、江戸時代は「刀鍛冶屋」だった。お向かいのうちは屋号を「よら鎧家」(鎧屋?よろ?)※といって(※これはここのお家の出の方にきいた)、鎧を少なくとも保管している場所だったそうだ。
いつの時代のことかわからないが、本山城を落とされる時の話か。(本山氏が長宗我部氏に敗れた頃か?)このあたりで150名ほど戦で亡くなったそうだ。
どんな戦いだったんだろう。
白髪山のヒノキのこと
白髪山にまつわる話。
滋賀県に白髭神社というのがあり、その名の神社は全国に100か所以上あるとか。その白髭神社の神様の台(さんぼうと言っていた)を作るのに、白髪山のヒノキがいいといって、わざわざとりに来たそうだ。
それはいつ頃だろうかねえ。とのこと。
白髪山のヒノキ材は、大阪城や二条城にも使われたという。今度二条城を見に行こうとおっしゃっていた。
風土記を作りたいとしみさん
昔のこのあたりの風土記を作成したい。大石では97歳の方が7人?ほどいらっしゃるので、その方に昔のしきたりなどを命の続く限り聞いてまとめようと思う。
戦前と戦後では、しきたりも食べ物も大きく変わった。
昔は、このあたりでは「あそこの嫁さんは、食べ物を買ってくる」と卑下された。自給自足が基本だったからだ。
昔はお葬式もいろいろと手順があった。今でも覚えているのは、だれかが亡くなると、集落の大工さんと家のものがまず棺桶を作成した。(そこからスタート!)そして、2mほど穴を掘って棺桶を埋めるが、そのときに吊り下げるための縄を、稲で作った。この縄の作り方は、通常の稲作で使うときとは逆方向で「なわない(なわなえ?)」をした。
ということで
以前にも、としみさんの言葉を集めようと試みたことがある。
物知りであることと、この地域の昔の様子もご存じであり、博物館のような方なのである。
としみさんに限らず、こうした地元の方との立ち話のなかには、面白い昔の話が詰まっているので、ぽつぽつと記録していきたい。