考えすぎてしまう若かりし頃の私へ。36歳のおばちゃんが認めてやるよ。
考えすぎてグルグルして、撃沈。
10代20代の頃はそんなことがしょっちゅうありました。
「考えすぎだよ」
「もっとサラッと進めて」
そんな言葉たちは、深く考えることでしか前進する方法を知らない私にとっては「自分まるごと否定」されたような、鋭いトゲのついた鈍器のようでした。ぐさぐさ、ぐしゃり。
36歳のおばさんになった今、「グルグル撃沈」ということは少なくなったように思います。(コンディションによっては起こるでしょうけどね。)
これにはまず、思考の整理方法の訓練が効きました。仕事や家事でいろんなことを思いついてしまい、混乱しやすいのですが、これは単純に考えをかき出すとか、マインドマップを描いてみるとか。いわゆる思考法を取り入れることでかなり解決しました。コンサルタントに勤めていて、資料整理や説明をする必要があったので、必死で習得しました。
でも、思考よりもっと大事なもの。それは感情との付き合い方だと、ここ1年ほどで気づいてきました。感情との付き合い方がうまくなったことが、「グルグル撃沈」が減った大きな理由だと思います。
感情とのつきあいかたとは。
以前は、「どうしたいか」よりも「どうするべきか」が先に浮かんでしまい、自分が何を感じているのか、本当はどうしたいのかということを、自分で理解できませんでした。目の前にある状況に合わせることのほうが、自分の気持ちよりも優先順位が高かったのです。
自分がどうしたいか、ということを素直に表現することは、今でこそ「責任ある尊敬すべき行為」と思っていますが、どこかで「わがまま」であったり「自分勝手」であるというような思い込みがあり、自分を出すことができなかったのだと思います。というか、自分を出す以前に、自分の感情を置き去りにして、本音と向き合う文化というのが私のなかに無かったのです。
ついさっき、ある講座のなかで、感情との付き合いかたについて話がありました。「感情は無視したら増幅する。いったん受け止める。わかるよ、その気持ち!といった具合に受け止めるのがすっきりする秘訣。感情にしっかり向き合うほど、しっかり癒される」といったことを学びました。
私自身、20代後半になって気づいたのですが、とても感情豊かなタイプだということを周りに言われて気づきました(笑)喜怒哀楽が激しいのです。ということは、それなりに激しい感情が腹の中でぐるぐるしているのに、当の本人は「感情を無視し続けている」状態。感情を無視してるから、「本当はこうしたい」「すごく悔しい」そんなことを認識できないんですね。「どうすべきか」ばかり考える。だから、感情は癒されることなく、腹のなかでは謎の葛藤がある。グルグル。言語化もできないから、こんな私を前に周りもどうしようもできない…。そんなこともよくありました。
どうしてそこまで激しい感情を無視してしまっていたのか。
これにはいくつか思い当たる節があります。
ひとつには、家族で議論する文化がほぼなかったこと。自分はどうしたいか、ということをぶつけ合う文化が、家庭になかった。どこか本音は言わず、空気を読んでね、という感じが強くて、私はその空気が好きではなかったです。自分の子どもが生まれてから、つまり30代になってから、親戚のおばさんに「親と議論したりしないの?」という言葉を聞いたときに、ものすごくびっくりしたのを、鮮明に覚えています。「え?ギロン?そんな文化ってあるの?」と思ったのと同時にそうか、そこにヒントがあったのかと理解しました。
なんのことかというと、その親戚のおばさんと子どもたち(従妹の家族)は、これまた驚くほどの信頼関係があって、何でも話をするという家族だったのです。私は本音は親には話さない主義だった(といいつつ、嘘もつけないので割と言ってたけど…笑)けど、そこの子どもたちは、彼氏彼女ができたらすぐに相談、困ったことも相談、何でも話せる家族だった。最初は、仲良すぎて気持ち悪い気もしていましたが(笑)、大人になってもそんな関係性にあるというのは、本当に素晴らしいことだと、どうしたらそんな関係が築けるのだろうと思うようになりました。おそらく、おばさんがしっかりと子どもの言葉を受け止め、自分の考えを話す、ということを日々ていねいにしていたのだと思います。あの日の「議論しないの?」という言葉に、そのことが凝縮されていたと思うのです。
そんなわけで、私の日常のなかには、本音で話す文化が少なかったというのが一因として考えられます。
そして、幼稚園、小学校、中学校、高校…と、社会の枠組みに取り入れられていくと、本音で話す機会って、少ないように思います。もちろん、友達とのやりとりで、ある程度は出すのだけど。
もう一つの要因として教育の影響も大きいと思います。自分の気持ちを出していい。集団から外れて、今やりたいことをやっていい、という文化のもとでは育っていないのです。
どちらかと言えば、大人の用意した正解に合わせ、集団を乱さぬよう周りに合わせる文化が強くあると思います。私は、大人の思惑や集団生活のなかで「大人の基準」を探っては、当たると評価されていく仕組みに順応し、「どうするべきか」を考え「自分がしたいことは後回し」ということが自動的にできるようになっていったのでしょう。
このように、家庭や学校という環境が、自分の「本音へのアクセスの鈍さ」を作り出していたと、今は思っています。30代前半は、この環境への憎しみたいなものが結構あって、「こんちくちょうめ!私の人生返せ」くらいに思っていたのですが(笑)、最近になって、自分の性質・気質も大きく影響しているということに気づきました。
そのヒントとなったのがこちら。HSP(Highly Sensitive Person)。生まれつき「非常に感受性が強く敏感な気質もった人」という概念。人口の約2割はこれに当たるそうで、人以外の動物にも、一定数のHSP個体がいるそうな。HSPで検索してみると、性質をあらわしたチェックリストが出て来るんですが、まあまあ当てはまる。結構当てはまる。そこそこ当てはまる。。「あ、私はHSPなんだー。え?何、みんなそうじゃないの??」という感じでした。
下記サイトによれば、HSPはこんな特徴があります。http://www.madreclinic.jp/pm-top/pm-symptom/pm-symptom-22/
①深く情報を処理する・・・・深く考えすぎるのは性質だったのか!
②過剰な刺激を受けやすい・・・まぶしいです。乾燥感じます。匂いに敏感です。
③共感しやすい・・・親や自分の周りの人の感情を読み取り、自分を合わせることが多いそうな!
④心の境界線が薄い・もろい・・・相手に同調しすぎたり、本音がわからなくなりやすいそうな!
⑤疲れやすい・・・体力あるのかないのか、いつも不明でした。
⑥自己否定が強い・・・ネガティブ思考で自分に自信がない!
ぎゃー!なんだこれ、自分の「性格」や「考え方」が悪いんだとか、影響されやすい自分は未熟なんだとか思っていた部分が、ここでは「特徴」として語られているではないか!!!
びっくり!!!ひゃっほーい!!すげえな!
つまり、器(私のHSPたる気質)×環境(家庭、教育)によって
本音に向き合わないクセが、徐々に作られていったのだということ。
本音に向き合えないし、深く考えてしまうし、相手に合わせてしまうし…。
そんなんじゃあ、まあ、撃沈しますわね。自分はどこへ~♪運転手不在では車は動かないのよ。
おばちゃんになって、一つ一つの特徴を、ちょっとずつうまく使えるようになってきたから、だいぶ楽ちんです。
そして、最近、自分の子どものことを理解したくて手にとった本がこちら。
「HSCの子育てハッピーアドバイス HSC=ひといちばい敏感な子」明橋大二著
HSPは、ひといちばい敏感な人=大人 なわけですが、その子ども版をHSCというそうです。まあ、子どもが大人になるわけなのでHSCはやがてHSPになるということです。
なので、当然といえば当然なのですが。
子どもを理解しようとして読んだのに、
「あーはいはい、これ、私のことね!」
という、深い自己理解へとつながったのでした。
(子どもの理解にもつながったけど)
何かの枠に当てはめられるというのは、好きではないですが
ここではていねいに、「レッテル貼りではない」「性質として理解して」ということを語られています。
子ども頃の自分にも「よしよし」してもらった気分。
そんなわけで。
過去を振り返りつつ、性質を理解していくことで
考えすぎちゃう自分は、悪くない!
と思えるようになりました。
OK!大丈夫!うまく使っていこ、その性質!
ちなみに、わたしはHSPのなかに3割含まれるという、好奇心旺盛なタイプ(HSS)です。刺激を求める外交的な性質だそうです。
そのとおり。刺激大好き。HSCのなかには、学校になじめない人も多いそうですが、私の場合は学校大好きでした。友達と遊ぶのが楽しかったり、新しいことを学ぶのが楽しかったり。これはHSSの性質が影響した例かもしれません。
ちょっとまとまりないですが、
最近考えていたことを吐き出したかったので
書いちゃいました!
また気づきがあれば、かけたらいいなー。
ではでは。