南吉をよむ④
おじいさんのランプ ―古くせえもなア、いざというとき間にあわねえ
昭和十七年四月十一日の南吉の日記には、東京の巽聖歌のもとに童話集「久助君の話」として、いくつかの作品の原稿約二百枚を送ったと記されている。その中には書き終えたばかりの「ごんごろ鐘」「おじいさんのランプ」の原稿や既発表の「久助君の話」「川」「嘘」「うた時計」「貧乏な少年の話」が含まれていた。
五日後の四月十六日には、巽聖歌からその返信が速達で届く。
巽から速達が来た。童話原稿、すばらしいとほめて来た。はなしがうまく、それでいて文学になっているそうだ。本の名は「久助君の話」ではいけないそうだ。ちゃちだが「おじいさんのランプ」ということにした。(四月十六日)
巽聖歌は、明治三十八年生まれで、南吉より八歳年上の岩手出身の童謡詩人である。
ちなみに同郷の宮沢賢治は明治二十八年生まれ、巽より十歳上になる。
南吉が旧制中学入学の頃から投稿していた「赤い鳥」が、昭和四年三月に休刊なった。昭和五年三月、それまで「赤い鳥」へ投稿していた常連たちが中心となって「赤い鳥」にかわる童謡の同人誌「チチノキ」を創刊する。その編集に携わったのが、北原白秋門下の与田準一と巽聖歌である。
南吉は旧制中学の五年生、十七歳になっていた。以来、巽聖歌は南吉の文学の先輩格として、文学から実生活まで何かと面倒を見ることになる。
南吉は当初「久助君の話」という童話集を考えたが、巽聖歌によって「おじいさんのランプ」とタイトルが変えられたことがわかる。
この本は南吉の生前に刊行された第一童話集である。
タイトルになった「おじいさんのランプ」を読む。
主人公は東一君である。近所の子供たちとかくれんぼうをしていて、倉の隅から古いランプを持ち出してくる。「八十糎ぐらいの太い竹の筒が台になっていて、その上にはちょっぴり火のともる部分がくっついている。そしてほやは、細いガラスの筒であった。はじめて見るものにはランプとは思えない程だった」。みんなは鉄砲と間違えてしまった。
東一君のおじいさんも最初はそれが何だかわからなかった。ランプだとわかると子供たちを叱った。
こらこら、お前たちは何を持出すか。まことに子供というものは、黙って遊ばせておけば何を持出すやらわけのわからん、油断もすきもない、ぬすっと猫のようなものだ。こらこら、それはここへ持って来て、お前たちは外へ行って遊んで来い。外に行けば、電信柱でも何でも遊ぶものはいくらでもあるに。
東一君が、おじいさんに叱られた後、ランプのことはすっかり忘れて外で遊んで帰ってくると、居間の隅にランプが置いてあった。
東一君が夕ご飯の後、おじいさんがいないことを見計らって、ランプのほやを外したり、ネジを回して芯を出したり、引っ込めたりしていると、またおじいさんに見つかってしまう。
東坊、このランプはな、おじいさんにはとてもなつかしいものだ。長いあいだ忘れておったが、きょう東坊が倉の隅から持出して来たので、また昔のことを思い出したよ。こうおじいさんみたいに年をとると、ランプでも何でも昔のものに出合うのがとても嬉しいもんだ。
おじいさんは怒っていると思っていたが、昔のランプに合うことができて喜んでいたのだ。おじいさんは東一君を呼び、昔の話を始める。
以上が冒頭部である。東一君の家には倉があること、農学校の先生が『大根栽培の理論と実際』という本を買いに来ること、店には番頭さんがいて、ねいや(お手伝いさん)もいることがわかる。
農学校とは愛知県半田農学校のことだろう。東一君の家はその近くにある町のかなり大きな本屋であることが想像できる。
南吉の物語の特徴は時間と場所が具体的ではっきりしている。舞台は半田である。
そしておじいさんは昔のことを語り始める。
今から五十年ぐらいまえ、ちょうど日露戦争のじぶんのことである。岩滑新田の村に巳之助という少年がいた。
岩滑新田は、半田の町外れにあって、南吉が生まれたところである。
おじいさんの話では「今から五十年ぐらいまえ、ちょうど日露戦争のじぶんのことである」とあるが、日露戦争は明治三十七(一九〇四)年二月開戦、翌年の八月まで戦われた戦争である。この戦争が五十年前のことなら、語られているのは昭和二十九(一九五四)年のことになり、矛盾してくる。
しかし、書かれたのが昭和十七(一九四三)年だから、五十年前は日清戦争(明治二十七、一九八四年)の一年前ということになる。
日露戦争後の好景気によってランプは地方まで浸透していった。
巳之助という少年が十三歳だったころは、日露戦争の十年前と考えるなら、ちょうど五十年前のことになり、矛盾は解消される。
正確には、「今から五十年ぐらいまえ、ちょうど日露戦争(の十年まえ)じぶん」ということになるだろう。
巳之助は天涯孤独の少年だった。生きていくためには、よその家の使い走りをしたり、子守りをしたり、米を搗いたり、十三歳の少年にできることなら何でもして「村においてもらっていた」。
男として生まれたからには、身を立てなければならないと巳之助は常日頃から思っていた。
岩滑新田には、いつも二、三人の人力曳きがいた。「牛をつないだ椿の木」の中で、日露戦争に出征していった海蔵さんもその一人である。まだ出征前のことだ。
巳之助は人力曳きの先綱を頼まれる。人力車は一人で引くものだが、急ぎの用があったり、急な坂道を登る時は、先綱を頼み、二人で人力車を引くことになる。乗車の賃金は倍になる。巳之助は急ぎの客に頼まれて人力車の先綱を引くことになる。
当時、海水浴の客は三河湾に面した半田まで汽車で来て、そこから人力車に乗り、知多半島の伊勢湾に面した大野や新舞子まで行く。海水浴が塩湯治と呼ばれていた頃だ。知多半島の東に位置する半田から大野、新舞子のある西海岸まで半島の背骨の部分を越えていく。そこは峠道になっていて、急な登りの坂道を越えなくてはならない。
巳之助は人力車のながえ(傍点)につながれた綱を肩にかついで、夏の入陽のじりじり照りつける道を、えいやえいやと走った。馴れないこととてたいそう苦しかった。しかし巳之助は苦しさなど気にしなかった。好奇心でいっぱいだった。なぜなら巳之助は、物ごころがついてから、村を一歩も出たことがなく、峠の向こうにどんな町があり、どんな人々が住んでいるか知らなかったからである。
初めて行った大野の町は、大きな商店が軒を連ねていた。巳之助の住んでいる岩滑新田には店が一軒しかなかった。
一番驚いたのは、その商店が灯している「花のように明るいガラスのランプ」だった。巳之助の住んでいる村では、夜は明かりがなかった。暗闇の中で、手探りでものをさぐり当てた。少し贅沢な家では、行燈を使うのだった。それは巳之助が大野の町で見たランプの明るさにはとても及ばなかった。
十五銭の駄賃をもらうと人力車と別れて大野の町を歩いた。巳之助には大野の町はまぶしいほど明るく、まるで竜宮城のように見えた。
歩いているとさまざまなランプを吊るしている店の前にきた。巳之助は店に入っていき、ランプを買おうとしたが、駄賃の十五銭では買えなかった。
巳之助は、ものの値段には売値と卸値があることを知っていた。草鞋をを作って、村に一軒だけの雑貨屋に一銭5厘の卸値で売り、店はそれを二銭五厘で売っていたからだ。巳之助はランプを卸値で売ってくれと店の主人に頼む。
「卸値で売れって、そりゃ相手がランプを売る店なら卸値で売ってあげてもいいが、一人一人のお客に卸値で売るわけにはいかんな」
「ランプ屋なら卸値で売ってくれるだのイ?」
「ああ」
「それなら、俺、ランプ屋だ。卸値で売ってくれ」
店の人はランプを持ったまま笑い出した。
「おめえがランプ屋? はッはッはッはッ」
「ほんとうだよ、おッつあゃん。俺、ほんとうにこれからランプ屋になるんだ。な、だから頼むに、今日は一つだけンど卸値で売ってくれや。こんど来るときゃ、たくさん、いっぺんに買うで」
ランプの卸値は十五銭でも足りなかったが、巳之助の真剣な様子や身の上話を聞くと店の主人も動かされ、とうとう売ってくれることになった。
巳之助はランプに火を灯し帰り道を急いだ。暗い峠道も怖くはなかった。
巳之助の胸の中にも、もう一つのランプがともっていた。文明開化に遅れた自分の暗い村には、このすばらしい文明の利器を売りこんで、村人たちの生活を明かるくしてやろうという希望のランプがー
巳之助はランプ屋を始めたが、初めは売れなかった。
そこで一軒しかない村の雑貨店の婆さんのところへ持って行って、ただでランプを使ってもらうことにした。店には多くの人が来る。ランプを見れば気に入ってくれるはずだ。
五日後に行くと、とても明るくて夜でもお客が来る。釣り銭を間違えることもない。ただで貸したランプを買ってくれることになった。おまけに店に来た客から3つも注文があったという。
巳之助は車に、ランプやホヤを吊り下げ、行商に歩いた。商売は軌道に乗り、お金も儲かるようになった。
ランプの下でなら新聞も読めると宣伝した。ランプの下で細かい文字もはっきり見えるが、学校に行ってなかった巳之助には何が書かれているか意味がわからなかった。区長さんのところへ通って字を覚えた。一年もすると尋常科を卒業した村人と同じ程度に字が読めるようになった。そして巳之助は書物を読むことを覚えた。
巳之助はお金も儲かったが、それとは別に、このしょうばいがたのしかった。今まで暗かった家に、だんだん巳之助の売ったランプがともっていくのである。暗い家に、巳之助は文明開化の明るい火を一つ一つともしてゆくような気がした。
巳之助は区長さんのところの軒の傾いた納屋に住まわせてもらっていたが、やがてランプを売ってためたお金で自分の家を作り、人の世話でお嫁さんももらうことができた。
巳之助が十三歳の時にこの物語は始まる。やがて青年になり男盛りを迎える。十三歳の時は日清戦争の頃であった。そして十年の歳月が流れ「日露戦争のじぶん」となる。ランプは日露戦争後の好景気で売れた。子供も二人できた。こうして巳之助は独り立ちした。身を立るところまではいっていないけれども、「心に満足を覚えるのであった」。
しかし、転機は訪れる。
ランプの芯を仕入れに行った大野の町で、巳之助は人夫たちが穴を掘って大きい長い柱を立てているのを見た。五十メートル間隔で立っている大きな高い柱は電信柱だった。巳之助には初めはそれがなんだか分からなかった。電気のことなど分からなかったからだ。
一ヶ月後、大野の町を訪れた。
知り合いの甘酒屋にはいってゆくと、いつも土間のまん中の飯台の上に吊るしてあった大きなランプが、横の壁の辺りに取りかたづけられて、あとにはそのランプをずっと小さくしたような、石油入れのついてない、変なかっこうのランプが、丈夫そうな綱で天井からぶらさげられてあった。
「何だやい、変なもの吊るしたじゃねえか。あのランプはどこか悪くでもなったかやい」
と巳之助はきいた。すると甘酒屋が、
「ありゃ、こんどひけた電気というもんだ。火事の心配がのうて、明るうて、マッチはいらぬし、なかなか便利なもんだ」
夜になると、大野の町のどの家もどの商店も電燈が灯った。「光は家の中にあまって、道の上にまでこぼれ」出るほどだった。
ランプの商売敵が現れた。電燈がランプより明らかに便利であることは一目瞭然であった。自分の職を失うかも知れなかった。巳之助は自分の村にも電気が引かれることをおそれるようになった。
そしてとうとう巳之助の住む岩滑新田にも電気が引かれることが村会で決まった。
あまりのショックで三日間寝込むほどであった。その間に「頭の調子が狂ってしまった」。
巳之助は村会で議長の役をした区長さんを怨むことにした。そして怨む理由をいくつか考えた。「しょうばいを失うかどうかというようなせとぎわでは、正しい判断をうしなうものである」。
巳之助は、恩人である区長さんの家に火をつけようとした。
どこかで祭り太鼓を打つ音が聞こえる、あたたかい月夜の晩、マッチが見つからず、火打の道具を持って家を出た。そして区長さんの家の藁屋根の牛小屋に火をつけようとしたのだった。
巳之助は火打で火を切りはじめた。火花は飛んだが、ほくち(傍点)がしめっているのか、ちっとも燃えあがらないのであった。巳之助は火打というものは、あまり便利なものではないと思った。火が出ないくせにカチカチと大きな音ばかりして、これでは寝ている人が眼をさましてしまうのである。
「ちえッ」と巳之助は舌打ちしていった。マッチを持って来りゃよかった。こげな火打みてえな古くせえもなア、いざというとき間にあわねだなア」
そういってしまって巳之助は、ふと自分の言葉をききとがめた。
「古くせえもなア、いざというとき間にあわねえ、・・・古くせえもなア間にあわねえ・・・」
ちょうど月が出て空が明るくなるように、巳之助の頭がこの言葉をきっかけにして明かるく晴れて来た。
石油ランプのおかげで、自分の家を建て、お嫁さんももらい、独り立ちすることができた。その石油ランプが電燈に取って代わられようとしている。
それまでは行灯の微かな弱い光しかなかった。暗い夜は手探りするしかなかった村に、巳之助は石油ランプによって光をもたらした。
今、それが全否定されようとしている。己之助にとっては石油ランプの否定は巳之助の人生、全存在の否定でもあった。
巳之助は破壊の衝動に突き動かされ、恩人の区長さんの家に火をかけようとしたのだった。マッチの代わりに持ってきた火打は、カチカチと音がするだけで火口が湿って火がつかない。
「古くせえもなア、いざというとき間にあわねえ」と思った瞬間、怨みは反転する。
古い自分のしょうばいが失われるからとて、世の中の進むのにじゃましようとしたり、なんの恨みもない人を怨んで火をつけようとしたのは、男として何という見苦しいざまであったことか、世の中が進んで、古いしょうばいがいらなくなれば、男らしく、すっぱりそのしょうばいは棄てて、世の中のためになる新しいしょうばいにかわろうじゃないか。
巳之助は、家に帰り、店の全てのランプに石油をつぎ、車に吊るした。人気のない夜の半田池まで引いて来ると、持ってきたランプの一つ一つに火をつけ木に吊るした。三本の木に吊り下げられた五十のランプの光で、あたりは昼のように明るくなった。
巳之助はしばらく見つめていたが、石ころを拾いランプ目掛けて投げた。「バリーン」と割れた。そしてまた一つ。「3番目のランプを割ったとき、巳之助はなぜか涙がうかんで来て、もうランプに狙いを定めることができなかった」。
こうして巳之助はキッパリとランプ屋をやめ、町に出て、新しい商売である本屋を始めたのだった。
石油ランプは一九〇四(明治三十七)年の日露戦争後の好景気によって一般家庭へ普及していった。巳之助がまさに二十歳を超えた頃であった。ランプ屋は繁盛し、家も建て、結婚し二人の子供にも恵まれた。
一九一〇(明治四十三)年に知多瓦斯株式会社が設立され、半田の中心部に電気が引かれ電燈がつく。それから遅れて岩滑新田には一九一八(大正七)年ごろとされる。
巳之助がランプ屋に見切りをつけ、町へ出て本屋を始めるのが三十七歳ごろである。
ちなみに電気が引かれるのは、地域によって格差があり、日本の隅々まで電化されるには五十年の時間差があったという。
「ごんごろ鐘」では、乳母車に乗せられてやってきたおじいさんの村である深谷では昭和十七年でもまだランプが使われていたとある。
巳之助は今でも本屋をやっている。
「だいぶ年をとったので、息子が店をやっているがね」と、東一君のおじいさんのランプにまつわる話は終わった。話の主人公の巳之助は東一君のおじいさんだった。
わしのやり方少し馬鹿だったが、わしのしょうばいのやめ方は、自分でいうのもなんだが、なかなかりっぱだったと思うよ。わしの言いたいのはこうさ、日本がすすんで、自分の古いしょうばいがお役に立たなくなったら、すっぱりそいつをすてるのだ。いつまでもきたなく古いしょうばいにかじりついていたり、自分のしょうばいがはやっていた昔の方がよかったといったり、世の中がすすんだことをうらんだり、そんな意気地のねえことは決してしないと言うことだ。
「おじいさんのランプ」を書いた頃、南吉の肉体も滅びようとしていた。
ランプに石ころを投げ、割った時、南吉もすっぱりと生への執着を捨てたかのように思える。肉体は滅びる。しかし、南吉の中に何かが生まれようとしていた。それは肉体とともにある生ではない。南吉は作品を書くことによってそれを昇華させようとしているように見える。
巳之助は、日清戦争の頃十三歳だったとすれば、この物語が語られる昭和十七年では、七十三歳になっている。息子が店を引き継ぎ、孫もいる。それが東一君だ。
この「おじいさんのランプ」は自筆原稿が残っている。原稿用紙の末尾には(一七・四・二)と書かれている。この年に発行された第一童話集のために、「ごんごろ鐘」同様に新しく書き下ろされたことがわかる。
南吉の日記を見ると前年の一九四一(昭和十六)年十一月二十五日には、この作品のヒントにもなった父から聞いた話が書き留められている。
父の話―
人力曳きは体に無理をさせるからよく体をこはしてしまった。
岩滑新田の、えいたんぼと熊七というのがその頃人力曳きをしていた。二人共新田から大野まで避暑客をのせて一度ゆけば三十五銭ほどのよい銭になるので意気込んでやった。二時間程で大野へ行って来れた。
二人は若気のいたりで走った。走っては体に無理だというのに。
しかしえいたんぼはおっちょこちょいで、どらだったので、儲けた銭を飲み食いしてしまった。それだけ体にえやうをさせたわけだ。だから体がもった。
熊七はしまつで、三十五銭もうけてくるとそれをそっくり、ちやらアんと甕の中へ入れるといわれていた。で体をせめる一方だったので、二年もすると体を壊してしまい、もう人力商売はできなくなった。
人力車は十円位で買うことが出来た。まだゴム輪でなくガラガラと鳴る輪であった。
名古屋から大野へ海水浴(潮湯治)にゆく金持達が半田まで汽車できて、そこから大野まで人力を雇ったものだ。でその頃半田にも大野にも三十人宛人力曳がいた。
父の父は道ばたで駄菓子をしていて、そこでよく人力曳は休んだ。
人力曳は瓢箪草鞋というのを買って穿いた。底が瓢箪のように中ほどでぐっとくくれていて軽く穿けた。その代わり二銭五厘だった。普通のわらじは一銭五厘だった。人力曳達はこれから峠を一つこすというので、まだ切れていない草鞋を棄てて新しいのを穿いてそこから出かけたものだ。
この父の話から南吉は自分の作品へのいくつかのヒントをつかんだようだ。
「牛をつないだ椿の木」と「和太郎さんと牛」は人力曳きと牛曳きの話である。また「おじいさんのランプ」では巳之助が人力曳きの先綱を頼まれ、生まれて初めて町へ行くところから始まる。「ごんごろ鐘」では、おじいさんが乳母車に乗せられて深谷からこの街道をやってきた。
これらは知多半島の東海岸に位置する半田から西海岸の大野まで半島を横断する街道沿いの物語であるといってよい。
街道沿いにあって、「駄菓子、草鞋、糸繰りの道具、貝殻にはいった目薬、そのほか村で使うたいていの物を売っている小さな店」、村に一軒しかない店は南吉の父の父(祖父)が営んでいたとある。
この店は「牛をつないだ椿の木」では人力曳きたちのたまり場であったし、「和太郎さんと牛」では街道沿いのおよし婆さんのやっている茶屋のモデルであると考えられる。
岩滑新田から大野の町まで二時間もあれば行って来れたとある。実際にこの間の距離は8キロ強である。人力曳きが走れば、行って来れる。運賃は三十五銭である。一銭が約二百円だから現在の金額に換算すれば七千円である。瓢箪草鞋は二銭五厘、約五百円。普通の草鞋は一銭五厘、約三百円ということになる。
人力車は十円。「牛をつないだ椿の木」では、井戸を掘る費用は三十円、現在の金額で六十万円だから、約二十万円である。
ちなみに知多半島を縦断する鉄道は現在のJR武豊線は明治十九(一八八六)年に開業した。知多湾に面する武豊港に陸上げされた東海道線を敷設するための建設資材を建設現場へ運ぶためであった。
知多半島の西海岸を走る名鉄常滑線は大正元年(一九一二)年、そしてJR武豊線と並行する名鉄河和線は昭和六年(一九三一)年に開業した。
「おじいさんのランプ」の「日露戦争のじぶん」では、常滑線も河和線も走っていなかった。金持ち連中は武豊線で半田まできて、人力車に乗って海水浴場のある西海岸へ行っていたことがわかる。
南吉の物語は、単なる空想の産物ではなく、目の前の現実の素材を忠実に反映させていることがわかる。南吉の作品世界には、具体的な場所、具体的な時間が流れている。