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南吉をよむ②

和太郎さんと牛 母と子の一体的世界

南吉が亡くなった年、『牛をつないだ椿の木』(大和書店)とほぼ同時期に『花のき村と盗人たち』(帝国教育出版部)も刊行された。その中に収録された「和太郎さんと牛」を読む。

和太郎さんは「牛をつないだ椿の木」の利助さんと同じ牛曳きである。まだ自動車が普及していない頃の話だ。牛曳きは、牛に荷車をつけ荷物を運ぶ運送業者で、やがて時代遅れとして淘汰される前近代的な職業だ。

和太郎さんの牛は「よぼよぼの年とった牛で、お尻の肉がこけて落ちて、あばら骨も数えられるほどでした。そして空車を曳いてさえ、じきに舌を出して、苦しそうに息をする」。

車の動力となる牛は若くて元気がある方がいいに決まっているが、和太郎さんは、みんなから大変良い牛を持っているといわれていた。というのも、和太郎さんはお酒が大好きで、仕事帰りに街道沿いの茶屋に立ち寄り、そこでいっぱいやることを楽しみとしていた。ついつい飲みすぎて、やがて牛と牛をつないだ松の木の区別がつかないほど酔っぱらってしまう。茶屋のおよし婆さんの世話になりながら、牛を曳いて帰るのだが、酔っぱらった和太郎さんは、途中、空の荷車の上で寝てしまう。しかし、目が覚めると、牛は和太郎さんが寝ている車を曳いてきちんと家まで戻っている。

みんなは、「気がよくきいて親切なおかみさんのような」牛だといっていた。

和太郎さんと牛の関係は、禅の十牛図を連想させる。

十牛図は中国の宋時代に禅僧によって考案されたもので、禅の悟りにいたる段階を牛と童子の絵と、それに添えられた詩で表現している。

牛とは真の自己で、真の自己を求める主体として童子が描かれている。

真の自己を求めて童子が旅をする1枚目の「尋牛」から始まり、牛を発見し、飼い慣らそうと牛(自己)と格闘しながら、やがて牛を手なづけ、ついに真の自己を獲得し悟りに至る過程が十枚の牛と人の図で示されている。

そのなかの六枚目は「騎牛帰家」と題され、牛に乗った童子が笛を吹いている図である。心の平安が得られれば、牛飼いと牛は一体にとなり、牛を御する必要もないと説明されている。

和太郎さんと牛の関係は、この六枚目を連想させる。使役するもの=和太郎さんと、使役されるもの=牛という二項対立的関係を越えて一体化している。

もはや自己(和太郎)と他者(牛)が区別されていない。

自己と他者が未分化なのは、和太郎さんが、いまだ自己そのものが確立されていない前近代の人だからだろうか。

十牛図の六枚目の「騎牛帰家」では、真の自己を求める旅が、自己との格闘を経て、主体と客体の分裂が止揚される。牛と人が一体化する。これは悟りへ至る境地としてとらえられている。

人と人の間には断絶があり、人は人にとって〈他者〉としてしか存在できないというのは近代の自我のありようである。


「こんな牛の、どこがいいものか。和太は馬鹿だ。こんなにならないまえに、売ってしまって、もっと若い、元気のいいのを買えばよかったんだ」


南吉は、ここでこの物語に次郎左エ門さんという近代人を登場させる。使役するものとされるものの関係では、牛はあくまで動力である。動力が若くて、元気であれば、それだけ仕事の能率がよく、生産性が高い。

次郎左エ門さんは「若い頃、東京にいて、新聞配達夫をしたり、外国人の宣教師の家で下男をしたりして、さまざま苦労したすえ、りくつが好きで仕事がきらいになって村に戻った」人である。東京という近代を知っている人である。

次郎左エ門さんという近代人から見れば、和太郎さんのやり方は前近代的ということになる。

次郎左エ門さんは、南吉のもう一つの自己像ともいえる。南吉もまた故郷の半田を出て、東京で学んだ。そこで「近代」に触れたはずである。


和太郎さんは、「牛をつないだ椿の木」の人力車曳きの海蔵さんと同じように、年老いたお母さんと二人暮らしである。

海蔵さんは、井戸を掘るという事業を実現しようとして、自分とは違う〈他者〉に出会う。〈他者〉でないのは、二人暮らしの母だけである。母にはたやすく意思疎通ができる。ここには自己と他者の区別がない。

海蔵さんは母と子の一体的世界にいるが、一歩家の外へ出ると、人は人にとって他者としてしか存在できないという現実に突き当たる。

南吉の初期の代表作「ごん狐」の兵十も病気がちな母と二人暮らしである。

南吉の童話では、母と子の一体的世界が何度も描かれている。

南吉は4歳の時に、実母のりゑと死別し、ものごころがつくか、つかないうちに母と子の濃密な世界から引き離されている。

南吉が母と子の世界を描くのは、失われた濃密な世界への愛着かもしれない。


母と子の一体的世界は破られる。子は成長し、母から巣立つ。母から巣立ち異性と出会い一体化する。これは人が成熟する自然過程であるといっていい。

和太郎さんは、お母さんと寂しい二人暮らしだが、海蔵さんと違うのは、かつて一度結婚していたことがあるということである。

お嫁さんの名はチヨ。「美しくて、まめまめしく働く」お嫁さんなので、和太郎さんもお母さんも気に入っていた。


若いお嫁さんが来ると、和太郎さんの家は、毎日がお祭りのように、明るく楽しくなりました。


ところが和太郎さんは、あることに気づく。ご飯を食べる時、お嫁さんはいつも顔を壁の方に向けて食べることである。

実は和太郎さんのお母さんは、田の草を取るときに稲の穂先が片方の目を突いて、それが原因で失明してしまった。その失明した目に赤い肉が見えている。お嫁さんはそれを見ると気持ちが悪くなり、ごはんがのどを通らないのだという。


そりゃ、もっともじゃ。こんなかたわを見ていちゃ、若いものには気持ちがよくあるまい。わしはまえから、嫁ごが来たら、おまえたちのじゃまにならぬように、どこかへ奉公に出ようと思っていたのだよ。それじゃ、あしたから桝半さんのところへ奉公にいこう。あそこじゃ飯焚き婆さんがほしいそうだから。


和太郎さんのお母さんは、息子夫婦の幸せを願って家を出る決意をする。次の日には、小さな荷物をまとめて家を出ていこうとした。


和太郎さんは泣けてきました。こんな年とったお母さんを、いままた奉公させに、よその家にやってよいものでしょうか。せっせと働いて、苦労をしつづけて、ひとりむすこの和太郎さんを育ててくれたお母さんを。


和太郎さんはこらえきれなくなり、とうとう、お母さんを引き止める。

そして嫁のチヨを実家へ帰した。

母を取るか、嫁を取るか決断を迫られた和太郎さんは、嫁を離縁し、母と暮らすことを選んだ。あえて、母と子の一体的世界を選んだことになる。大人になるということは一体的世界から出ていくことである。この選択は和太郎さんにとっての後退を意味するのだろうか。

その後、いくつも縁談があったが和太郎さんは断った。


お母さんは年とって、だんだん小さくなっていきます。和太郎さんも、今はおとこざかりですが、やがてお爺さんになってしまうのです。牛もそのうちには、もっと尻がやせ、あばら骨がろくぼくのようにあらわれ、ついには死ぬのです。そうすると、和太郎さんの家はほろびてしまいます。

お嫁さんはいらないが、子供が欲しい、とよく和太郎さんは考えるのでした。


そんな和太郎さんは、ある時、隣村の酒屋から酒樽を、町の酢屋へ届けることを頼まれる。

ところが、酒樽を荷車に積んで牛に曳かせて運ぶ途中、坂にさしかかった時、積んでいた樽のかがみ板が外れて、樽の中の酒の滓が流れ出してしまった。

酒のいい匂いにつられて村の衆が集まってくる。和太郎さんは牛のくびきを外し、村の衆が見ている前で、牛に流れ出た酒の滓をなめさせた。


「いくらでもええだけ喰べろ」と和太郎さんは、牛の背中をなでながらいいました。

 「酔うまで喰べろ。酔ってもええぞ、きょうはおれが世話をしてやるぞ。きょうこそ、一生にいっぺんの恩返しだ」


牛に酒の滓をすっかりなめさせると、あたりは薄暗くなっていた。牛は、いつもは酔っ払った和太郎さんを連れて家まで運ぶのだが、この日だけは和太郎さんは酒を控えて、牛を曳いてまっすぐ家まで帰ろうと決心した。

しかし、酒呑みの習性で、茶屋の前まで来ると、ついつい寄り道してしまう。

「ちょっといっぷくするくらい、いいだろう」と思って寄ったが、時間はたちまち過ぎ、徳利の数も増え、和太郎さんは、すっかり酔っ払ってしまった。茶屋のおよし婆さんの世話になりながら、牛車の荷台に乗って出発したが、いつもと違うのは牛も酔っていることである。

和太郎さんのお母さんは、夜なべ仕事をしながら和太郎さんの帰りを待っていた。十一時を二〇分過ぎても和太郎さんは帰ってこない。

追剝にでも捕まったのではないかと心配になったお母さんは村の駐在所へ相談に行った。巡査は、昔のことならいざ知らず、この治安のいい今の世の中に追い剥ぎなどいないことを説得するが、お母さんは納得しない。とうとう巡査はお母さんに根負けし、青年団に捜索の応援を依頼することになった。

青年団に、大人や腰の曲がったお爺さんまで加わって、鉦、太鼓、ラッパ、法螺貝を鳴らして夜通し探したが和太郎さんは見つからない。

とうとう朝になり、駐在所の前で草の上に腰を下ろして休んでいたみんなの前に、何食わぬ顔をして和太郎さんが現れる。

村人たちは迷惑をかけた和太郎さんを説教するために家へ詰めかける。


「やい、和太」と村で利口もんの次郎左エ門さんがいいかけました。「おぬしは、村中のもんにえらい迷惑かけたが知っとるかや。おれたち、村のもんは、ゆうべひとねむりもせんで、山から谷から畑から野までかけずりまわって、おぬしを探したのだが、おぬしはそれに対してだまっておってええだかや」

これでは次郎左エ門さんも、捜索隊にはいっていたように聞こえますが、ほんとうはついさっきまで。家で寝ていたのです。


和太郎さんは、「頭をかいたり、背中をかいたり」して「十三べん」も謝って、なんとか許してもらう。村の人たちはいい人ばかりで、ここは一件落着。

ところで、和太郎さんは一体どこをうろついていたのか。

着ているものはずぶ濡れで、およし婆さんの用意した小田原提灯は破れて上半分しか残っていなかった。懐からは鮒やげんごろう、亀の子まで出てくる始末。牛の前足のつめの割れ目には、えにしだの黄色い花が一房はさまっていた。

えにしだは、狐が住んでいるというろっかん山の頂上にだけ咲いている花だという。狐に化かされたのか、酔っ払った牛と和太郎さんは、池の中を通り、ろっかん山の頂上まで夜通しさすらっていたようだった。

不思議なことは、牛車の上に小さな籠がのっていて、その中に花束と丸々と太った男の赤ん坊が入っていたことだ。

とりあえず、和太郎さんは赤ん坊を預かることになる。しかし、いつまで経っても赤ん坊の親は現れなかった。

和太郎さんはその子を引き取り、「和助」とうい名前をつけて育てることになった。


そしていっぱい機嫌のときはいつでも、

「おらが和助は、天からの授かりものだ。おれと牛がよっぱらった晩に、天から授けてくださったのだ」

といいました。すると利口もんの次郎左エ門さんは、

「そんな理屈にあわん話がいまどきあるもんか、子供にゃ両親がなきゃならん。酔って歩いているうちに天から子供を授かるようなことなら、世の中に法律はいらないことになる」

とむずかしい理屈をいいました。


最後に和太郎さんに引き取られた和助くんとこの物語の語り手である私は小学校の同級だったことが明かされる。和助くんは成長し、小学校ではいつも級長だった。小学校を卒業すると和太郎さんの後を継いで立派な牛飼いになったが、大東亜戦争が始まると応召して「ジャワ島、あるいはセレベス島で働いていることと思います」ということで、この物語は終わる。

ちなみに、戦後この本が再刊された時には、「ジャワ島、あるいはセレベス島…」の部分はGHQによって削除された。


この物語の登場人物は、主人公の和太郎さん、年取ったお母さん、チヨさん(離縁した妻)、芝田さん(巡査)、茶屋のおよし婆さん、行方不明になった和太郎さんの捜索にあたった村の衆である富鉄さん(ろっかん山で狐に化かされたことがあるお爺さん)、法螺貝を吹く亀菊さんと亀徳さん親子、ラッパを吹く林平さん、東京で働いたことがある利口もんの次郎左エ門さん、そして牛車の上のカゴの中に置いて置かれ、やがて和太郎さんの養子になる和助くんである。

それぞれの登場人物の間にある壁は感じられない。一人一人が近代人として孤立しているのではない。みなほのぼのとした共同体の住人である。

ただ、一方的に離縁されたチヨさんの内面は語られていない。このような

共同体からチヨさんは追放された。

和太郎さんは妻のチヨではなく、年老いたお母さんを選んだ。母と子の一体的世界にとどまった。人が個人として生きる近代ではなく、前近代を選んだともいえる。

村の衆は、かつて東京で近代に触れたことがある利口もんの次郎左衛門さんを除いて、みな夢を見ているような前近代の住人たちである。


この作品が発表されたのは、南吉の死後である。

「牛をつないだ椿の木」については、死後発刊された単行本『牛をつないだ椿の木』を編集した巽聖歌によれば、昭和十七年五月十九日。この「和太郎さんと牛」も同年の五月とされる。

両作品はほぼ同時期、昭和十七年五月に書かれたことになる。南吉がなくなる十ヶ月前のことだ。


作品が書かれた前年の昭和十六年十二月八日、日本は太平洋戦争に突入。

南吉の日記には次のような記述がある。


十二月八日の暁方は風のない清純なる月明であった。家の西南の角に咲いている白ばらの根方で小便をして、しばらくこの月のある夜明けの冴え渡った美しさをかみしめていた。

(略)

安城で汽車を下りると今日はよい天気だということがわかった。うす赤い朝光がうらうらと町筋に沿って流れていた。併し今朝はさすがに手を出していると指がつめたいと思った。金魚屋の前で山崎の親父に一緒になった。そして彼の口からいよいよ対英米宣戦が行われることをきいた。僕は今朝新聞を見て来たが知らなかったといった。只今のラジオの臨時ニュースで云っていましたといった。

いよいよはじまったかと思った。何故か体ががくがく慄えた。ばんざあいと大声で叫びながら駆け出したいような衝動を受けた。(十二月十二日)


昭和十六年、年の瀬も押し迫った十二月八日、日本は大きな破滅への道を歩み始める。

その頃、南吉の体も結核という宿痾に蝕まれ始めていた。同じ十二月の日記。


昨夜小便をしたら二粒ほど泡がとび出したことが手応えでわかった。この頃一だんと腎臓の方がいけなくなったらしい兆があるので、もうこれはてっきり悪化したのだと思った。すぐ死を観念した。(十二月二十三日)


職員会がすんで便所へいって小用をすまして、ふと白瀬戸の尿器を見ると赤みがかつた褐色がすぢをひいている。驚いてあれを見るとどうやら血だ。始めての経験だからぎくつとした。それに血は全然考えていなかったので。ありうべきことは腎臓結核だと思った。それならばもう確実に救からない。(十二月二十四日)


朝めがさめるとすぐ病気のことが頭に来た。しかし恐怖感はなかった。‘死’にも馴れることが出来るものだなと思った。ちょうど、貧乏や失恋に馴れることが出来るように。

昨日から新しい生活がはじまったのである。腎臓結核(つまり死)との新婚生活が。今日はその第二日目というわけだ。新生活にともなう興奮が今もつづいている。(昭和十七年一月十二日)


南吉は死を覚悟する。戦争、宿痾、遠くない将来必ずやってくるであろう自分の死。そんな死と向き合いながらこの作品は書かれた。

南吉は、死を従容として受け入れる。

母と子の一体的世界から和太郎さんが出ていかなかったのは、退行ではなく、死を前にした南吉の成熟した境地が表れているとも読める。

前近代の住人の中に、自分と他者の分裂、断絶が克服されているのを見た。

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