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南吉をよむ③

ごんごろ鐘 死を受け入れるとは?

 南吉は生前二冊の単行本を刊行している。その一冊が、昭和17年10月に有光社から刊行された第一童話集『おぢいさんのランプ』である。「ごんごろ鐘」はその中の一編である。

三月八日
お父さんが、夕方村会からかえって来て、こうおっしゃった。

「ごんごろ鐘を献納することにきまったよ」

お母さんはじめ、うちじゅうのものがびっくりした。が、僕はあまり驚かなかった。僕たちの学校の門や鉄柵も、もうとっくに献納したのだから、尼寺のごんごろ鐘だって、お国のために献納したっていいのだと思っていた。でも小さかった時からあの鐘に朝晩したしんで来たことを思えば、ちょっとさびしい気もする。


「ごんごろ鐘」の書き出しである。最初に語り手が「ぼく」であることが提示される。

冒頭の三月八日とは、実際には何年のことか。

読み進めていくと「僕」は、国民学校の6年生になろうとしていることがわかる。

国民学校は、昭和十六(一九四一)年に国民学校令によって設立された。それまでは小学校は尋常科と高等科であった。

国民学校は、教育勅語の教えを奉戴して「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」(国民学校令第一条)ことを目的として設立された。国家主義的色彩をより濃厚にした学校制度である。

国民学校令が施行された、同じ年の十二月八日、日本軍がハワイを奇襲して太平洋戦争に突入する。

日本はすでに昭和十二(一九三七)年、盧溝橋事件に端を発する中国との全面戦争が始まっていた。しかし、この戦争は、宣戦布告が行われなかったので支那事変とも呼ばれた。

日中開戦の翌年、昭和十三(一九三八)年には、国家総動員法が成立する。

これは、国内におけるすべての人的・物的資源を統制・運用する権限が政府にあるとするもので、家庭にある金属でさえも動員の対象になった。

この物語では、「僕」の通う学校の門も鉄柵も戦争遂行のために国家にすでに献納されていた。そして、お寺の鐘さえも供出されようとしている。

浄土真宗本願寺派の資料によると、全国にある九割の寺が梵鐘を供出したという記録が残っている。

学校の二宮金次郎像、家庭の鍋釜、遊び道具のベーゴマまで国家のために供出された。

世の中はまさに戦争一色に染め上げられようとしていた。

この物語の原稿の末尾には、「一七・三・二六」とある。南吉は翌年十八年三月二十二日に亡くなっているから、ほぼ死の一年前にこの物語を書き終えたことになる。

ということは、冒頭の三月八日は昭和十六年もしくは十七年だが、昭和十六年三月にはまだ国民学校が発足していない。語り手の「僕」はちょうど国民学校の6年生になるとあるから、昭和十七年三月八日から物語は始まると考えてよい。

日本は戦争の序盤で、ハワイ真珠湾の奇襲攻撃によってアメリカに大きなダメージを与えた。その余勢をかって一月には海軍落下傘部隊がセレベス島に、また二月には陸軍の部隊がスマトラ島バレンバンに奇襲降下し大きな戦果を上げた。三月九日にはジャワ島のバンドン占領、蘭印軍(オランダ領東インド)が降伏した。

ちなみにセレベス島は、先の「和太郎さんと牛」の和太郎さんの養子である和助くんが出征し赴いたところである。

しかし戦況は昭和十七年四月には早くも名古屋への第一回目の空襲が行われている。そして五月のミッドウェイ海戦で大敗し、戦局は一挙に日本軍にとって不利になっていく。

そんな戦況の中、通称「ごんごろ鐘」と呼ばれ、村の人たちから慕われてきた鐘が戦争のために供出されることになる。

尼寺の庵主さんは、初めは鐘を供出することにご先祖の信仰のこもったものだからとか、本山の許しがなければといって抵抗したが、やむなく同意したのだろう。

「庵主だって日本人に変わりはないわけさ」というのがお母さんの言。


なぜ「ごんごろ鐘」と呼ばれるようになったか。物語の中で三つほど説をあげている。

一つ目は、樽屋の木之助爺さんによると、この鐘をつくった鐘師が喘息持ちで、それが鐘にうつり、鐘をついたあと、大きな音の後にゴロゴロと喘息持ちが痰で喉を鳴らすような音がするからだという。

二つ目は、紋次郎君のお婆さんによると、この鐘を鋳た人が三河のごんごろうという鐘師だったから、その名前から「ごんごろ鐘」と呼ばれるようになった。鐘にその人の名が彫られているはずだという。

そして三つ目は、語り手の「僕」の大学生の兄さんの説。鐘をつくとゴンゴンと鳴る。誰が言うともなくゴンゴン鐘と呼ばれていたものが、転訛してごんごろ鐘になった。その方がごろがいいからというのがお兄さんの説だ。

まず、木之助爺さんの説は、そもそも人間の病気が生命のない鐘にうつるはずがない。もしうつるなら「鐘の病院も建たなければならないことになる」として退ける。      

紋次郎君のお婆さんの説は第一の説よりももっともらしい。

しかし「僕」は、大学に行っている兄さんの説をとる。近代人である兄さんの説は科学的だ。近代人予備軍の「僕」はお兄さんの説を「一番信じられる」とした。兄さんは近代人である。

 ごんごろ鐘の名の由来は諸説ある。もちろん諸説あっていい。

人間の病気が鐘に乗りうつることは科学的にありえないことだが、人間の心的現象の中では事実としてありうることだ。

木之助爺さんにとっては、生命のない鐘は、心の中で擬人化され、あたかも命のあるものと同様にとらえられている。

例えば、人間の信仰もその範疇に入るだろう。その現象は科学的かどうかという基準では判断できない。


村会で寺の梵鐘の供出が決まってから二週間後の三月二十二日にごんごろ鐘がいよいよ「出征」していく日が来た。

尼寺は、お祭りの日のように多くの人でにぎわっていた。お祭りには若い人や子供はたくさん来るが、この日は大勢の老人たちも集まってきていた。


杖にすがった爺さん、あごが地につくくらい背がまがって、ちょうど七面鳥のようなかっこうの婆さん、自分では歩かれないので、息子の背に負われて来た老人もあった。こういう人たちも、みなごんごろ鐘と、目に見えない糸で結ばれているのだ。


老人たちは、ごんごろ鐘に別れを惜しんでいた。「とうとう、ごんごろ鐘さま(さまに傍点)も行ってしまうだかや」といっている爺さんもあった。なんまみだぶ、なんまみだぶといいながらごんごろ鐘を拝んでいる婆さんもあった。


老人たちにとっては、出征していく鐘が単なる金属の物質ではなく、あたかも親しんできた友人や愛する息子たちとの別れを惜しんでいるように見える。ごんごろ鐘が人間と同等かもしくはそれ以上の存在であることがわかる。


この物語の主役はもちろんごんごろ鐘だが、それをめぐる老人たちと子供たちでもある。

鐘を下ろす前に、青年団長の吉彦さんの提案で、集まってきた子供たちに思う存分、鐘をつかせることになった。

子供たちは鐘楼の下に一列に並び、一人に三つずつ鳴らすことになった。


お菓子の配給のときのことをおもいだして、僕はおかしかった。だが、ごんごろ鐘を最後に三つずつ鳴らさせてもらうこの「配給」は、お菓子の配給以上にみんなに満足をあたえた。

 

昭和十二年から始まった日中戦争によって、日常の物資不足が目立ち始めていた。すでにガソリン、鉄鋼、石炭、綿糸、ゴム製品などの戦略物資に加え、昭和十五年には米穀管理規則によって米が配給制度となっていた。十一歳から六十歳までの男女には一日二合三勺の米が配給された。

 昭和十六年の暮れに太平洋戦争が始まると物資不足はますます激しくなり、米麦の他に、さつまいも、じゃがいも、めん類など主要食料品の大部分が国家管理に置かれた。

 この物語が書かれた昭和十七年には、豆腐、油揚げ、砂糖、マッチ、小児用菓子まで配給品となっている。小児用菓子は1人1ヶ月30銭と決められた。この年、菓子パン一個が5銭。1ヶ月に菓子パン6個買えるほどの配給だ。

子供たちが鐘を鳴らし終わると、最後に青年団長の吉彦さんが力一杯鐘をついた。

 

「西の谷も東の谷も、北の谷も南の谷も鳴るぞや。ほれ、あそこの村も、あそこの村も、鳴るぞや」

と、謎のようなことをいった。

「ほんとだ、ほんとだ」

と、樽屋の木之助爺さんと、ほか二、三人の老人があいづちをうった。

 

「僕」の父の説明によると、昔、父の祖父の時代に初めて鐘を作ったとき、その費用が一つの村だけでは足りなかった。東西南北の谷の人や、遠くの村にも足りない分の合力(協力)を仰いだ。

だから最後の鐘の音は、「四方の谷の人や向こうの村々の人の心もこもっているわけだ。だからごんごろ鐘をつくと、その谷や村の音もまじっているように聞こえるのだよ」ということだった。

 鐘は新しい筵の上に降ろされた。庵主さんと尼寺の世話をしているお竹婆さんが縄を丸めてゴシゴシ洗うと鐘に彫られている銘がはっきりしてきた。そこにはお経や、製造された年月日、鐘師の名前が刻まれていた。残念ながら紋次郎君のお婆さんのいっていた三河ごんごろうという名前はなく、助九郎という名前があった。

 鐘を運ぶために和太郎さんが牛車を引いてやってきた。

「和太郎さんと牛」の主人公の和太郎さんである。養子にした和助くんは、この頃「ジャワ島、あるいはセレベス島」へ出征しているはずである。

いよいよ牛車に鐘を乗せようとした時、庵主さんは、鐘供養をしたいと言いだす。

 大人たちは時間がないし、みな別れを十分惜しんだから鐘供養はしなくていいだろうといったが、尼さんは大人たちの意見を聞かない。

 

しかし若い尼さんは、眼鏡をかけた顔に真剣な表情をうかべて、「いいえ、自分の体を熔かして、爆弾となってしまう鐘ですから、どうしても供養をしてやりとうござんす」といった。

 

庵主さんはごんごろ鐘の前に線香を立ててお経をよんだ。「年寄りたちはしわくちゃな手を合わせた」。

供養が済むと、鐘は和太郎さんの牛車に乗せられて、青年団長の吉彦さん、子供たちに付き添われ町の国民学校の校庭まで運ばれて行くことになった。

町までは遠いので、松男君の提案で新四年生以下の小さい子供たちは「しんたのむね」から帰ることになった。

「しんたのむね」は「牛をつないだ椿の木」にでてくる。村から町に向かう街道沿いにあって、椿の木が一本立っている。日露戦争の前に、人力車夫の海蔵さんが、そこを通るみんなのために、飲料用の井戸を掘ったところだ。そして海蔵さんも、そこで一杯の水を飲み、日露戦争へ出征していった。

「しんたのむね」で一悶着が起こる。四年生の比良夫君が帰ろうとしない。比良夫君は一年生の時に落第しているので、年齢は五年生と同じだ。上級生たちから帰れといわれるが、帰らない。取っ組み合いの喧嘩になるが、とうとう上級生たちが根負けして比良夫君もついてくることになった。

鐘を乗せた牛車が川の堤まで出た時、紋次郎君が猫柳の枝を折ってきて鐘のそばに置いた。子供たちはわれもわれもと猫柳、桃、松、たんぽぽ、れんげそう、ぺんぺん草まで取ってきて鐘に捧げた。鐘はすっかり花や葉で埋まってしまった。

こうして、ごんごろ鐘は、和太郎さんの牛車に乗せられ、子供たちに付き添われ、町の国民学校の校庭まで運ばれていった。


 明くる日の三月二十三日、午前中に尼寺で子供常会があり、いつものように会の前にお寺の境内を掃除していると、息子さんの押すオンボロの乳母車に乗せられて、顔の長い耳の大きなお爺さんが境内に入ってきた。ごんごろ鐘が献納されると聞いて、三キロほど南の山の中の谷から、お別れにやってきたという。献納の日を一日間違えていたのだ。

 

「きのう、お別れだといって、あげん子供たちが、ごんごん鳴らしたが、わからなかっただかね」

と庵主さんも気の毒そうにいうと、

「ああ、この頃は耳の聞こえる日と聞こえぬ日があってのオ。きんの(傍点)は朝から耳ん中で蝿が一匹ぶんぶんいってやがって、いっこう聞こえんだった」

と、お爺さんは答えるのだった。

お爺さんは息子さんに、町までつれていって鐘に一目あわせてくれ、と頼んだが、息子さんは、仕事をしなきゃならんからもうごめんだ、といって、お爺さんののった乳母車をおして、門を出ていった。


常会で松男君が、開口一番、お爺さんを町まで連れて行き、ごんごろ鐘にあわせてあげようと提案する。紋次郎君、そして僕が賛成するとみんなも賛成した。

息子さんからお爺さんののった乳母車を預かると、みんなで交代で乳母車を押して町までつれていった。


正午じぶんに、僕たちは町の国民学校に着いた。昨日のところになつかしいごんごろ鐘はあった。

「やあ、あるなア、あるなア」

と、お爺さんは鐘が見えたときいった。そして、触りたいからそばへ乳母車をよせてくれ、といった。僕たちは、お爺さんのいうとおりにした。

お爺さんは乳母車から手をさしのべて、なつかしそうにごんごろ鐘を撫でていた。


夕御飯の時、「僕」はお父さんにその日の出来事を話す。お父さんは、その昔、鐘が鋳られた頃の話をした。

ラジオでは南の島での日本軍の華々しい戦果を伝えるニュースが流れた。


 僕の眼には、爆撃機の腹からぱらぱらと落ちてゆく黒い爆弾のすがたがうつった。

「ごんごろ鐘もあの爆弾になるんだねえ。あの古ぼけた鐘がむくりむくりとした、ぴかぴかひかった、新しい爆弾になるんだね」

と僕がいうと、休暇で帰って来ている兄さんが、

「うん、そうだ。何でもそうだよ。古いものはむくりむくりと新しいものに生まれかわって、はじめて活動するものだ」

といった。


そして南吉は、この物語を書き終わると自筆の原稿用紙の末尾に「一七・三・二六」と記した。

物語は現実を反映するが、現実そのものではない。物語の中の時間と、書かれた時間がここで一緒になる。

戦争、進行する自分の病、あたかも日記を書くように目の前で繰り広げられる村の物語を南吉は書き留めたように思える。

しかし南吉の日記には、この物語が同時進行で書かれたであろう3月8日から3月26日まで、それらしい記述が見当たらない。

3月8日の日記には、「在弘法大師当国へ錫を向けたまいし時…水を請いたまうに主の老婆云、此辺水に乏しく…大師…錫杖をもて地をうがちければやがてそこより清水湧き出て其勢鑓をもてつくごときありさまー参川名所図絵403頁」とあり、弘法大師が錫杖で地をうったら清水が湧き出たとう、三河名所図絵の説明が抜書きされているだけだ。

南吉の日記は、この物語が書かれたであろう3月8日から4月3日までの間は空白となっている。執筆に没頭していたとも考えられる。

四月三日の記事。

月夜に畑に白く見えるもの、雪柳、いすらの花。/一週間ほど前花売りが、こぶしの苗木を売りに来た。こよりのよりをもどした紙のようなしおれた花びら。こぶしという名がなつかしかったので四十銭で買った。父はるすだった。次の日見たら庭のすみのひかげに植えてあった。父はあんな花は葬れん花のようできらいだといった。/「井戸の中には井戸の神様がいる」とお爺さんがいった。そこで子供は井戸をのぞきにいった。井戸の中には大きな五色のふながしずかに遊んでいた。/善光寺みやげにお隣から胡桃をもらった。子供はそれを金槌(金偏)で叩いていて、あやまって拇指を叩きつぶした。/牛をつないだ椿の木。(以下略)

文章と文章の間には脈絡がない。箴言のようなスタイルで一行あけて文章が連なっていく。

そして唐突に、牛をつないだ椿の木という一文。それについては何の説明もされていない。すでに書いていた物語のタイトルがふと浮かんだのだろうか。それとも、この時「牛をつないだ椿の木」として次の物語の着想を得たのだろうか。


昭和16年暮れの開戦前後の日記を読むと、十二月十七日に父から聞いた話として、鐘のことが出てくる。


光蓮寺の鐘は深谷の方の、或る砂地の谷間で鋳られた。その谷は今でも鐘鋳(カネイリとルビ)谷と呼ばれている。

父も年寄りからきいただけだそうだが、その人々は(若かったが)たたら(大きい鞴)を踏ませて貰いに行った。たたらは大きいので足でふんだ。どういうシカケか、両方から交りばんこに踏んだ。するとそれで火がおこり、るつぼの中の金属がゆ(傍線)になった。二日間位かかったらしい。

それを、地の中に砂でつくった型があって、その中に流しこんだ。三日位そのままにしておく。すると冷えてしまう。

そういう砂は内海の海岸でとれるという弟の話であった。


南吉が聞いた話は、「ごんごろ鐘」の物語の最後で、「僕」のお父さんが語った鐘が鋳られた頃の話のなかに生きている。


「ん、そういえば、きょうのことを話したら、あのごんごろ鐘は深谷のあたりでつくられたのだ。いまでもあの辺に鐘鋳谷(かねいりだにというルビ)という名の残っている小さい谷があるが、そこで鋳たということだ。その頃の若いもんたちは、三日三晩、たたら(傍点)という大きなふいごを足で踏んで、銅をとかす火を起こしたもんだそうだ」

それでは、あのお爺さんもまたごんごろ鐘と深いつながりがあったわけだ。


お爺さんは、鐘のつくられた深谷からやってきた。「ごんごろ鐘」の中で深谷については次のように書かれている。


深谷というのは僕たちの村から3粁(キロとルビ)ほど南の山の中にある小さな谷で、僕たちは秋きのこをとりに行って、のどがかわくと、水を貰いに立寄るから、よく知っているが、家が四軒あるきりだ。電燈がないので、今でも夜はランプを灯すのだ。


「僕」たちの住んでいる村から、たった3キロ離れているだけで、電気も通わない狐や狸もすむような草深い里あったことがわかる。ちなみに現在の半田市深谷町は知多半島道路と知多横断道路(セントレアライン)が交差する半田中央ジャンクションのそばに位置している。南吉の生家までは車で十分もかからない。

十二月十七日の日記にある、南吉が父から聞いた深谷で鐘をつくった話は、「ごんごろ鐘」の中で見事に作品化されていることがわかる。


日記は、昭和十七年四月三日から九月十七日まで日記は断続的に続いて終わる。

前年の十二月二十二日に血尿が出て、肺結核はすでに腎臓結核まで進行していた。遠くない将来確実にやってくる死を覚悟する。


昭和一七年一月十一日の日記には次のように書く。

「文学の仕事ももうやめようと思った(というよりもうする気がわくまいと思った)しかし午後寝ていてロスキンの‘チエホフの一生’を読み出したら又書きたくなった」。

一月十三日の日記には、「小さな四角の紙の世界。なつかしい文学の世界。そこに遊んでいるとき僅かに死のことを忘れえた。/死のことを忘れるために小説を読む。しかしすっかり忘れてしまわないようにときどき死すべきものぞ、と自分に云いきかせる。」


「ごんごろ鐘」を書き終わる三月二六日以降、日記の中に死についての記述はない。

「ごんごろ鐘」以降、南吉の中の何かが吹っ切れたように、「おじいさんのランプ」(四月二日)、「牛をつないだ椿の木」(五月十九日)、「和太郎さんと牛」(五月)など南吉は最後の力をふりしぼって次々と作品を書いていく。

古いものはむくりむくりと新しいものに生まれ変わっていく。

肉体は衰えていくが、南吉の中で「むくりむくり」と動き出すものがあった。現生から来世へとつながる生命力といってもいいだろう。

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