眼鏡物語
眼鏡を使用する事になって40年経ちました。
初めての眼鏡は中学2年の誕生日でした。薄いピンクがかった透明の眼鏡で授業中にかける程度でした。クラスで眼鏡をしているのは僕と黒縁眼鏡の佐藤栄一君くらいでした。眼鏡をすると不思議と眼鏡をしている人が気になりはじめました。テレビを観ている時もそうでした。気になります。でも、眼鏡をしている殆どがおじさんとおばさんで若い人はあまりいません。唯一参考になるのはやはりミュージシャンでした。雑誌で見たエルビス・コステロ、鮎川誠さん、映画ではブルース・ブラザース、そしてアンディ・ウォーホールには憧れました。高校生になってバンドを始めて無性にサングラスをかけたくなりました。でも田舎では無理でした。母が学校の先生だったので余計です。カッコ付けてサングラスなんかしていると近所から罵声が飛んできそうでした。昔の田舎は派手な事を嫌う傾向がありました。車、服装、化粧、そしてエレキギター。目立ったりすると直ぐ噂になりました。目立ってイイのはスポーツなどで活躍する事だけでした。あとは、年1回のお祭りの日だけは無礼講な感じでちょっと派手な格好をしても大丈夫でした。自分の欲望にリミッターをかけられてる様な感じで過ごした田舎を1日でも早く出たい気持ちでいっぱいでした。憧れの東京に大学進学で上京しましたが、親には申し訳なかったのですが1年で登校するのをやめてしまいました。
小学校1年生から始めた剣道で、高校の時にインターハイと国体も出場したお陰で大学を推薦で入れました。剣道をすることに不満はなかったのですが、自分がずっと描いていた夢をあきらめきれませんでした。両親にその事を伝えました。父には「勘当だ!」と言われましたが、母には小さな声で「がんばれ」と言われました。母は知ってました。僕が小学校の卒業文集に書いた将来の夢の文章です。タイトルは「FUNKS」。1階は楽器屋、2階は洋服屋、3階はレコードと本屋、地下は音楽スタジオのビルを建てる話でした。母はそれをちゃんと覚えてくれていたのです。それにしても店名「FUNKS」は今思い出すと笑っちゃいます。当時、高校生の姉が聴いていたディスコやファンキーな音楽、そして僕が大好きだったプロレスラーのドリー・ファンクJr、テリー・ファンクのザ・ファンクスから店名をとったのだと思います。
そんな夢を抱いて、憧れの原宿で働く事になりました。勤務先はラフォーレ原宿「セルロイド」です。今までの自分を捨てて、新しい自分になりたくて眼鏡を変える事にしました。当時、原宿の流行はドメスティックだとOpticien Loyd(オプティシャン・ロイド)とインポートはAlain Mikli(アラン・ミクリ)でした。どちらも高価な製品なので手が届きませんでした。そこで毎月代々木公園でやっているフリー・マーケットで眼鏡探しに行きました。出会ったのはBIGIの眼鏡で1000円でした。早速自分に合った度を入れました。19歳の春でした。その時、渋谷を歩いてた時に雑誌ananに声をかけられた時の写真がコレです。
20歳でその雑貨のお店「セルロイド」を引き継いで大好きな眼鏡や帽子など国内で仕入れして販売しました。1988年、22歳の時にDJを始めたきっかけでヒップホップやハウスミュージック、レゲエミュージック等、クラブ音楽とマッチした商品をお店で展開するようになりました。クラブ・ファッションを中心にロンドン、ニューヨーク、韓国からはスニーカーなど仕入れて、飛び回ってました。その時に流行したアイウェアブランドはドイツ生まれCAZAL(カザール)でした。ブラック・ミュージックは好きでしたが、僕にはイマイチ似合いませんでした。とは言え、お店を構えている以上流行のモノは外せません。CAZALは高価なモノだったので、都内の古い眼鏡屋さんを片っ端から覗いてはCAZALに似たようなジャパンヴィンテージの売れ残りを探し回りました。そこで出会ったのがジャパンヴィンテージのセルフレームのモノたちでした。僕の親父の世代が挙ってかけていた薄いスモークのセルフレームのサングラスでした。倉庫から出してもらってまとめて安く買いました。お店の方も昔の在庫が売れて喜んでいました。僕も楽しい日々でした。
僕が小学2年生の時、家族で福島・会津を旅行した時の写真で磐梯山を後ろに猪苗代湖で撮影しました。3人の姉と親父。親父のサングラスに注目です。
眼鏡と帽子などのファッション小物、そして海外の商品を取り揃えていたお店をやってましたが僕自身の転機が来ました。お店を経営しつつ活動もしていたTokyo No.1 Soul setのメジャーでの話でした。今までのようにお店に立ったり、毎日飛び回ったりする事が出来なくなるので1994年にブランドを立ち上げる事にしました。ブランド名は「EMANUEL(エマニエル)」でした。最初のアイテムは春夏だったので半袖シャツ、ショートパンツ、Tシャツ、キャップ、そして、サングラスでした。2シーズンを終えたころブランド名を「DOARAT(ドゥアラット)」に変更しました。原宿と代官山と博多に直営店、初台の事務所にはスタジオとギャラリー、千駄ヶ谷にはレコード屋、小さい時からの夢がほぼほぼ叶ったので音楽活動を本格化するために20年目の2006年にDOARATの代表を退きました。
髪型もそうですが僕は何かを変えたい時に先ず、眼鏡を変えます。今まで何本眼鏡を購入し、無くしただろうか、、数知れず。DOARATで当時製作した2本の眼鏡と今現在メインで使用している眼鏡です(RAY-BAN、Mr.CASANOVA、ジャパン・ヴィンテージ本鼈甲、WHATEVER WORKS 1st)
時は経って2014年、もう一度音楽以外に何かを作りたくなってWHATEVER WORKSと言うブランドを立ち上げました。そこで一番最初に作ったのが眼鏡でした。その時に作った眼鏡が倉庫から出てきました。知り合いのパーティーでL.Aの有名なアイウエア・ブランド「オリバーピープルズ(OLIVER PEOPLES)」の商品などを扱う会社のスタッフ・Kさんと出会い、眼鏡の話で盛り上がりました。その後、メールでやりとりをしているうちにオリジナルの眼鏡を作ることになりました。オリバーピープルズの販売元・オプテックジャパン(現在アイヴァン)の工場が福井県・鯖江市にあり、その福井工場でまずはオリジナル第一弾としてフレンチ・ヴィンテージ風の眼鏡を製作しました(既に完売)。
そして、第二弾としてこの跳ね上げ式の眼鏡を製作する事になりました。この跳ね上げ式眼鏡作りはまずパーツを作る腕の良い職人さんを探すところから始まりました。昔、そのパーツを作る職人は沢山いたそうですが、今は殆どいない状況で、中々見つからず苦労しました。工場に何度も足を運び、細かい指示を出して、デザインから仕上がりまで丁寧な対応をしてくださったKさんのおかげで思った以上の完璧な作品が出来上がりました
そもそも、この眼鏡を作るきっかけになったのは、10年程前熊本でのライブでいつもお世話になっているお店「ONE DROP Dining Studio」の店主・花香さんからジャパン・ヴィンテージのブロウタイプの跳ね上げ式の眼鏡を頂いた事から始まりました。ブロウタイプも気に入っていたのですが、やっぱりセルフレームのが欲しくなり探しました。しかし気に入ったモノが全然見つからなかったので作る事にしました。花香さんから頂いた眼鏡をサンプルとしてKさんに見ていただいて相談したところ心地よく引き受けていただきました。
僕は小さいときからずっと近視で眼鏡をかけたり、コンタクトレンズを使用していましたが50歳を迎える頃に軽い老眼になりました。
老眼鏡をかけほどでもなかったので、この跳ね上げ式の眼鏡は凄く重宝してます。レンズには近視の度数を入れているので大半の行動は普通の状態のままですが本を読んだり、スマホを使用したりする時はレンズを上げています。僕はこの様に使用していますが、逆に老眼の度数をレンズに入れて普段は上げて使用してもお洒落だと思います。更に今はマスクを常にしているので時々レンズが曇ります。その時に上げると、曇りがすっと消えるのでいちいち外さなくても大丈夫です。度付きのレンズにしなくても、普通にファッションのアイテムのひとつとしてサングラスにしても良いと思います。古き良きものから生まれ変わった新しい跳ね上げ眼鏡、是非いかがでしょうか?フレームはあえてクオリティの高いアセテートを使用して、デミ柄にはイタリアの松ケリー社製モデルを採用しています。
Z16WW FLIP UP GLASSES