#9 『きつねの嫁入り』
きつねの嫁入り
霧雨が降り続く夏の日。咲は山の中腹に続く細い道を一人で歩いていた。両親に連れられてこの村に来たのは退屈しのぎのためだったが、いつしか緑深い山々と静けさに魅了され、毎日のように散策するようになっていた。
その日は、いつもと何かが違っていた。霧雨に光が反射し、薄暗い道が金色に輝くように見える。耳をすますと、かすかな鈴の音が風に乗って届いた。咲は好奇心に突き動かされ、その音を追いかけて歩き続けた。
辿り着いたのは古びた神社だった。苔むした鳥居の向こうに赤い提灯が灯り、静かな神聖さを放っていた。鳥居をくぐると、一人の女性が立っていた。白い着物に赤い帯を巻き、顔には美しい狐面をかぶっている。
「ようこそ、私の結婚式に。」
女性は微笑み、まるで旧友に話しかけるように言った。
咲は驚きながらも、何かに引き寄せられるようにその場に留まった。女性は静かに話し始めた。かつてこの村で、人間の男性と恋に落ちたこと。その愛がどんなに幸せだったか、そしてどんなに苦しい結末を迎えたか。
「私たちの間に、どうしても越えられない壁があったの。でも、今でもあの日々が夢のように愛おしいの。」
狐面の奥から、女性の声が震えたように聞こえた。
咲はその言葉に、心が締めつけられるのを感じた。自分も過去に、大切な人を失った経験がある。伝えきれなかった言葉、後悔の念。それらが女性の語る「未練」と重なり、咲の胸に響いた。
「もう一度、その人に会えたら何を伝えたい?」
咲が尋ねると、女性はしばらく沈黙した後、静かに答えた。
「ありがとう。…それだけでいい。」
咲は思った。この女性は、人ではないかもしれない。けれど、彼女の心は紛れもなく誰かを想う気持ちで溢れている。その気持ちを解き放つ手伝いをしたい。
咲は持っていた小さな鈴を女性に差し出した。それは亡くなった祖母がくれたもので、咲にとって大切なものだった。
「これを持っていって。その人に、心の音を届けてあげて。」
女性は鈴を受け取り、再び微笑んだ。
「ありがとう、咲。」
その瞬間、霧雨が晴れ、柔らかな光が神社を包んだ。女性の姿は霧の中に溶け込むように消え、鳥居の向こうには澄んだ青空が広がっていた。
咲は空を見上げ、静かに息を吐いた。心の中にあった重たい感情が、少しだけ軽くなった気がした。
それ以来、霧雨の日に鈴の音が聞こえると村人たちはこう言う。
「きつねの嫁入りだよ。」
咲は微笑む。きっとその音は、彼女の感謝の言葉なのだろうと。
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