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#18 『Available Now』

Available Now

カフェ「アンカーコーヒー」の扉が、揺れる鈴の音とともに開いた。店内に漂うコーヒーの香りが、秋の冷たい風とともにユウタを迎え入れる。窓際の席には、いつものようにナギサが座っていた。彼女の目の前には大きなスケッチブックが広げられ、その白いページの上を鉛筆が忙しなく動いている。

ユウタは彼女の対面に腰を下ろし、テーブルに置かれた一杯のブラックコーヒーを見つめた。熱気がゆっくりと立ち昇り、ガラス越しに差し込む午後の陽射しに溶け込んでいく。

「師匠、遅いよ。」

ナギサが顔を上げ、彼を睨む。だが、その口調にはどこか安堵が混じっていた。

「悪い、ちょっと街を歩いてた。」

ユウタの答えに、ナギサは何か言いたそうな顔をしたが、結局口を閉じた。そして、再び鉛筆を動かしながら言った。

「新しい絵、進んでる?」

「まあ、ぼちぼちな。」

「嘘だね。師匠が『ぼちぼち』って言うときは、全然進んでない証拠。」

彼女の指摘にユウタは苦笑する。確かにその通りだった。スケッチブックを開けても、線を引くたびに手が止まる。完成形が頭に浮かんでいるはずなのに、それを紙の上に表現することができない。

「なあ、ナギサ。」

ユウタはカップを手に取り、静かに尋ねた。

「なんでそんなに描けるんだ?」

ナギサは手を止め、彼を見つめた。

「…なんでって、描きたいからだよ。」

その答えはあまりに単純だった。だが、ユウタにはそれが羨ましく思えた。

「でも、描きたいだけじゃ足りないときもあるだろ?」

ナギサは少し考える素振りを見せた後、小さく笑った。

「あるよ。何度もある。でもね、そんなときは無理に描こうとしない。描きたくなる瞬間を、ただ待つだけ。」

「待つだけ、か。」

ユウタはその言葉を反芻する。まるで、ナギサの言葉が彼の中で絡まった何かを解きほぐそうとしているかのようだった。


その夜、ユウタは自宅の机に向かっていた。薄暗い部屋の中、スケッチブックの白いページが孤独に輝いている。ナギサの言葉を思い出しながら、彼は鉛筆を手に取った。

「描きたくなる瞬間…か。」

窓の外を見ると、遠くの街灯がぼんやりと揺れている。頭の中には、かつて彼が見た風景や、感じた感情が渦巻いていた。それをどう形にするのか分からなかったが、とりあえず鉛筆を動かしてみた。

一本の線。

それはまるで荒れた海原に一本の航路を切り開くような感覚だった。続けてもう一本、そしてもう一本。線が重なり合い、やがて形が生まれ始めた。

気がつけば、時間が経つのも忘れていた。完成には程遠かったが、それでも何かが変わり始めているのを感じた。

翌朝、ユウタはナギサにメッセージを送った。

『昨日はありがとう。少しだけ前に進めた気がする。』

返信はすぐに返ってきた。

『それはよかった。じゃあ、次はその絵を見せてね。楽しみにしてる!』

ユウタはスマートフォンを置き、スケッチブックを開いた。まだ完成には程遠いが、描き続けることでいつかそれが『今』になる—そんな確信が、今は胸にあった。

「Available Now…ってところか。」

彼は笑みを浮かべ、再び鉛筆を走らせた。


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