島崎藤村「夜明け前」について①
1.読書体験を書く
この文章は書評、などと大げさに構えて、作品の新側面を開いてみせたり、文学史における作品の位置を測ってみたり、そういった、公正に見えて偏見の多い、実りがあるようで虚しいだけの作業ではない。ただただ、自由に読んだ結果としての感想を、自由に書いてみるのである。
自由に書くと言っても、ひとたび読書感想文と銘打てば、書けることはあくまでも、本の内容について感じて想ったことのみに限られてしまう。これでさえ不自由に思う。本との「出会い」も含めて読書体験だと考える私は、文章をそこから始めることにしたい。
また、人は本を読む時、本の内容から感想が湧くだけでなく、湧いた感想が別の関心事と結び付き、想念が広がり、深まり、新しくなる。多くの逸脱した事柄を考えながら、実際の読書体験は進んで行く。簡潔に言って、読書体験の全体にとって、読書感想文という形式(枠)は狭すぎるのである。この文章では、思考の逸脱も読書体験の大事な要素とみなして、なるべく省かずに書き込むことにしたい。
2.伊那の谷にて
去年(2021)の大晦日は伊那にいた。東京から高速バスで3時間。12月30日午後5時ころ伊那バスターミナルに到着し、降りてすぐ、雪を全身に受けた。東西を山に囲まれた、ひっそりとした山国の風情である。
ここで詳しくは述べないが、同年11月に千葉の裁判所から出廷命令が届いたことが、今度の伊那旅行のきっかけとなった。私が曾祖父の法定相続人であるとの理由で、彼が設定した千葉にある実体のない借地権の登記を抹消せよ、との訴状が同封されていた。
訴状の内容自体はつまらないものである。百年以上前に設定され、建物もとうの昔に建て替わっている借地権など、どうとでもしたら良い。むしろ面白いのは、添付資料のひとつだった。それは「相続関係図」と名付けてあって、その実、曾祖父から私へと至る家系図に他ならない。私は興味深くそれを眺めた。
さらに、曾祖父が千葉に借地権を設定した時の登記簿謄本も添えてあって、そこには彼の本籍地を長野県上伊那郡箕輪村と記してあった。俄然、私の興味は先祖のこと、および先祖発祥の土地のことに向かっていった。
そうして私は、年末を伊那で過ごすことにしたのだった。今にして思えば伊那だけでもよかったのだが、伊那・諏訪・松本を3泊4日でまわるスケジュールにした。
伊那到着の翌日(31日)、曾祖父の本籍地として謄本に記載された住所に向かった。そこには私と同じ姓を名のる人間が今も住んでいることを確かめ得た。住んでいるのは曾祖父の兄弟の子孫達だろうか?いずれにせよ、広い敷地だ。門前に人の背丈ほどある大きな石碑が立っていて、私の先祖に関して書いてあるようだった。「安政三年七月病没年五十ニ」とある。西暦1805年から1856年を生きたことを意味する。曾祖父が1888年から1960年を生きたことは例の家系図(相続関係図)で知られたから、石碑が伝えようとする人は曾祖父の祖父か、曾祖父のことだろう。「幼始学」(幼くして学を始め)「好醫剣」(医剣を好む)などの言葉が印象に残った。
3.伊那尊王思想史
伊那は素晴らしい所だった。正月の夜、諏訪の旅館で温泉に浸かりながら、なかば夢心地にふり返った。
諏訪の神域も、伊那の静けさと寂しさの前では霞んで見える。先祖の発祥の地だから、ばかりではない。中央・南のアルプス山脈に挟まれ、真ん中に天竜川が流れる南北に細長い谷地の風景には、諏訪以上に、現実世界からの隔絶を思わせる力があって、それが私の想像力を刺激するからであった。
伊那の民は何を糧に生きたか?満足な穀物も揃わず、中心から遠く離れた山の民は?
インターネットで上伊那郡箕輪町の公式ホームページを調べてみると、幸いにも箕輪町誌という歴史資料が無料で公開されていた。諏訪の旅館で漫然と読んでいると、文化の章に国学の節があり「箕輪における平田学」という項目があった。このごろ賀茂真淵や本居宣長といった国学者のことが気になってしょうがない私は、妙な偶然もあるものだと驚いた。
幕末の伊那の民は国学を糧に生きていた。それどころか、平田篤胤の学問に特有な政治姓により、伊那の国学は幕末から明治にかけての宗教改革(廃仏毀釈に頂点を見る神仏混交の否定)の原動力となった。箕輪町誌が語る伊那の姿は、私が見てきたばかりの隔絶された山国の情景とは余りにも違っている。そして、箕輪町誌が参考文献に挙げる「伊那尊王思想史」のタイトルに抱いた違和感も凄かった。
あの伊那で尊皇?・・・・まさか。
4.伊那から木曽へ
1月2日、松本の市内を歩くのに飽きた私は、イオンモールにあった書店併設の喫茶店で、帰りの電車時刻まで時間を潰すことにした。コーヒーを飲みながら伊那尊王思想史について調べていると、次のことが分かった。
伊那尊王思想史は、かつての下伊那郡米川村(現在の飯田市)出身の郷土史家、市村咸人が1929年に刊行した本である。世界恐慌が始まり、国内外の矛盾と戦争への予感が、日増しに強まる中で書かれたことになる。非売品なので、地元の有志に配ったり、図書館に寄贈したりしたに留まり、広く知られることはなかった。
にも関わらず、いち郷土史書に過ぎない伊那尊王思想史は、島﨑藤村の晩年の歴史小説「夜明け前」によって脚光を浴びることになった。藤村は本作で、幕末から明治にかけて木曽の谷に生きた平田派国学者の、波乱に充ちた生涯を通して、時代と人間の結び付き、その宿命を描いたのだが、執筆の際、この時期の国学運動の実像を得ようとして、伊那尊王思想史を参考にしたのである。夜明け前の刊行は伊那尊王思想史に後れること6年、1935年だった。
夜明け前の舞台・木曽路は伊那谷の西隣に平行して走る谷地である。伊那から見た場合、西に望む木曽山脈を越えた先にある。南北にふたつ、連絡する峠道があり、今のように自動車が普及する前から、両地域の交流は盛んだった。
ここまで調べて、私は自分が書店併設の喫茶店にいることを思い出した。探すとすぐに見つかった。文庫本で4冊もあったので、ひとまず第一部の上巻だけを買った。さっそく読みたかったが、それでは帰りの電車に間に合わない。松本駅から新宿ゆきの特急あずさに乗り、ようやく本を開く。小説は印象的な言葉とともに始まった。
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