太田氏「鼠山屋敷」は何処にあったのか?
以前触れた「家康」から拝領したと言われる「太田氏の鼠山屋敷」がどこにあったのか?について推察したいと思います。
まずは「豊島区史」から「鼠山屋敷」周辺の記述について抜粋します。
●慶長12年 1607 これ以前旗本太田氏鼠山屋敷成立【通1-431】
●天和3年3月 1683 雑司が谷安藤家下屋敷、切坪上地 【通1-422】
●享保12年 1727 旗本太田氏鼠山屋敷収公され、騎馬勢子調馬の地に定められる【資3-437】
●享保16年3月6日 1731 将軍徳川吉宗、鼠山で猪狩,膳所鼠山芝地【資3-672】
※安藤下屋敷の範囲が狭くなった以降40年も太田氏鼠山屋敷が存在していた
◆鼠山の場所(豊島区史より引用)
◆鼠山屋敷拝領の経緯(豊島区史より引用)
「目白台」は現在の日本女子大がある三角地帯が太田氏の土地だったことが寛永江戸全図(1642年)で確認できますが「鼠山」は確認できません。
※12000坪は東京ドーム約0.85個分の広さのようです。
現在地図の楕円地形に東京ドームを重ねてみると良い収まり具合です。
下記サイトで確認が可能です。
https://100map.net/tokyo-dome/
※北条氏が治める時代(小田原衆所領役帳)に「長崎村」は太田氏が所領していたことから家康の案内役として御供をし、改めて鼠山を賜ったということなのかと推察します。
◆鼠山屋敷収公の経緯(豊島区史より引用)
詳細は「豊島区史」を参照してください。P430~431
https://adeac.jp/toshima-history/viewer/mp110010/tosimat1/451
上記通り「鼠山」は「村(長崎村)の東南にて下落合村に隣れり」という記述もありますし「豊島区史」で書かれている通りの場所だと思います。
但し鼠山を「ランドマーク」として見た場合、「鼠山」と呼称した場合にはもっと広範囲を指していたのではないか?と推察します。
現代ですと「東京ドーム」と呼称すると北はメトロ後楽園駅、南はJR水道橋駅、東は白山通り、西は小石川後楽園の周辺をイメージします。
それと同様に「鷹狩のエリア」として「鼠山」と呼称した場合は「安藤下屋敷」周辺を含み、現在の西池袋(霜田橋・立教通り)くらいまで含んだかも知れません。
清戸道周辺、現在の下落合三・四丁目の一部も「鼠山エリア」に入るかも。
ただし以前の記事で触れましたが鼠山周辺は4つの村境となっています。
村人にはきちんと境界の認識があったのではないでしょうか。
(はっきりしないと村の諍いになる)
次に標高地図を眺めていて「谷端川」を考慮しないとならないことに気付きました。谷端川流域は田や湿地だったでしょうから水鳥の生息地としても良い狩場だったかもしれません。
ですが屋敷を構えることを考えるとやはり高台で乾いた土地が良いでしょう。勢子や騎馬の調練についても高台が良いのではと思われます。
今回のまとめです。
◆「鼠山」と「鷹狩エリアの鼠山」で分けて考える必要がある。
◆「安藤下屋敷」と「太田氏鼠山屋敷」は同時期並行して存在していた。安藤の三角地帯ではなさそう。
◆拝領した土地12000坪は東京ドーム約0.85個分の広さ。想定する楕円地形に重ねるとちょうど収まる。
◆水害がありそうな谷端川流域の低地ではなく高台が屋敷を構えるには良い場所。鼠山エリアではない。
このことから「豊島区史で記述された通りの場所」に太田氏鼠山屋敷があったと考えます。
さらにピンポイントで屋敷の場所を特定するとすれば何処でしょうか?
交通面から清戸道に近く、下落合村と長崎村の境界は避けて平らな場所。
現在の目白通りのラーメン屋から北に100mくらい入った場所かなぁ・・・と妄想しています。
それにしてもとりとめもなく脳内に湧く考え(妄想)を文字に起こすのって難しいですね・・・ここまでに数カ月もかかりました。
一度まとめないと色々な方向に散漫になって視点が定まらず先に進めません(笑)
記事を見直していても大抵の場合は公開してから間違い、勘違い、新たな気付きがあったりで困ります。
まだまだ考察不足ですが今回はここまで・・・
最後に「太田氏」について
wikiからの引用・抜粋です。
●太田康資 信盛 (新六郎)
小田原北条氏の家臣。この人が長崎村を所領していたようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/太田康資
●太田重正 盛次
父は江戸太田氏の太田康資とされる。また、妹に徳川家康の側室の英勝院がいる。子に正重、資宗がいる。
家康は1605年(慶長10年)まで江戸にいたことから、この人が鼠山屋敷を拝領した人だと思われます。
屋敷を拝領したのは初代信盛という記述が豊島区史にありますが時代が合わないです・・・何かわかれば追記します。
https://ja.wikipedia.org/wiki/太田重正
●太田資宗 盛征
慶長11年(1606年)7歳にして大御所・徳川家康に拝謁。
慶長15年(1610年)武蔵国豊島郡蓮沼に500石を領する太田家の家督を継ぐ
また、家康の側近となって偏諱を与えられ、当初は康資(祖父と同名)と名乗った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/太田資宗
※引用元
◆国土地理院
http://maps.gsi.go.jp/
◆豊島区史
https://adeac.jp/toshima-history/top/topg/06kikankushi/index.html