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続:池袋・明治期の水路?川?(追記)

前回に続き「明治11年(1878年)実測東京全図」についてです。

今回は池袋東口方面を現代地図と見比べてポイントを比較したいと思います。

比較地図:国土地理院、港区のあゆみより引用

A)帝京平成大学の西側。
A~B 鎌倉街道といわれている道筋です。

B)豊島区役所の北西角
中西屋敷、お鷹方屋敷(根津山)の南境界辺り。

C)雑司ヶ谷霊園(お鷹部屋)の特徴的な角っこ。
これは江戸時代から残っている特徴で北は「お鷹方屋敷」へ続く道筋だったそうです。

D)東通り入口。ジュンク堂の南側です。

E)イケ・サンパークの南側。水窪川の巾着のような形の流路。
現代でも高低差がある場所です。
高台が舌状に張り出していた?何かあったのでしょうか?

国土地理院より引用

気になるのはA~Bの水路です。
※12/26追記。水路と書きましたが村境の可能性もあります。
どうやら鎌倉街道に沿ってのようです。
「中西屋敷」と「御鷹方部屋」の中間辺りを通っていますね。
※根津山は「中西屋敷」と「御鷹方部屋」を含めた範囲だったそうです。

「雑司ヶ谷村絵図」ではざっくり南北に境界が引かれているだけで境界の詳細はわかりません。

豊島区史 地図編(上)より引用

鎌倉街道は江戸期以前から存在していた道筋ですから、ここが境界だった可能性があるのではないでしょうか?
「比較地図」のB~Eが「御鷹方部屋」と「雑司ヶ谷村」との境界だと思われます。

境界について「NPOとしま遺跡調査会」の下記によると豊島岡女子学院あたりから南北に境界が引かれています。
確認できる一次資料があるのであればなにかヒントになるかも。
雑司が谷まちかど遺跡ミュージアム「雑司が谷地域の考古学」
https://wp.toshima-iseki.org/wp/wp-content/uploads/2016/10/zoushigaya201503.pdf

次回以降、推察がまとまったタイミングで根津山と中西屋敷、御鷹方部屋の範囲についても書いてみたいと思います。

※地図・資料引用元
◆港区/デジタル版 港区のあゆみ 実測東京全図
https://adeac.jp/minato-city/viewer/mp100080-100080/56_6175/

◆豊島区史 地図編(上)10 雑司ヶ谷村図 P17
https://adeac.jp/toshima-history/top/topg/06kikankushi/index.html

◆国土地理院
http://maps.gsi.go.jp/

◆NPO法人 としま遺跡調査会
https://wp.toshima-iseki.org/wp/


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