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寛永江戸全図(1642年)でみる豊島区周辺(鼠山と安藤下屋敷と上り屋敷)

前回から引き続き寛永江戸全図からです。

今回は「安藤下屋敷」について書いてみたいと思います。
この安藤下屋敷をみた第一印象は「なんで凹や凸で描かれてるんだろ?」でした。

文京区立図書 【臼杵市教育委員会所蔵】寛永江戸全図(寛永19~20年)より引用

標高図をなんとなくみていると・・・なるほど!となりました。
安藤下屋敷(後の感応寺含む)は三角地帯であるという先入観があり、平面の地図を見るだけでは思い浮かびませんでした。

図に収める為か、道筋の方角がひん曲がってたり、安藤下屋敷が90度回転していたりしますが、この図は「ちゃんと特徴をとらえて描かれている」ように思えます。中西屋敷も良く見ると特徴とらえてますね。
描くべき「特徴」として製作者が考え記したという前提で推測してみます。

国土地理院 色別標高図より引用

◆A 謎のクランク
これもかして今でも残るあの場所では?と頭に浮かびました。
但し明治期や大正期の地図だとまっすぐに境界が伸びておりクランクの形跡はありません。
道路の整備等で真っ直ぐになったり、カーブがきっちりとした角になったり、土地利用の影響で変化したり。
(上り屋敷公園ができたからだ!というのは置いておきます。)
時と共に変化しますので推測(妄想)の域を出ませんが、1642年当時にクランクを描く理由があったのでしょう。

国土地理院 色別標高図より引用

ここは池袋村と雑司ヶ谷村の境界です。
この村境は令和の現在も警察管轄として残っています。

池袋警察署(池袋村)
西池袋2丁目(7番から13番・34番から36番)管轄
https://www.keishicho.metro.tokyo.lg.jp/about_mpd/shokai/ichiran/kankatsu/ikebukuro/ps_info.html

目白警察署(雑司ヶ谷村)
西池袋2丁目(7番から13番、34番から36番を除く)管轄
https://www.keishicho.metro.tokyo.lg.jp/about_mpd/shokai/ichiran/kankatsu/mejiro/ps_info.html

◆B 入江状の地形
この地形に気付いたのがこの記事のきっかけでした。
標高図の通りこの凹んだ地形は今でも残っています。
ここには弦巻川へ流れる川がありました。
戦前までは洗い場として生活で利用されていたそうです。

◆C 東南斜めに下る境界
この感じ明日館の東側の筋ではないでしょうか。
現在の階段状の道筋はどうやって形成されたのか不思議です。
地形的には弦巻川の流れに関係していると推察します。
もし今の道筋の元になっているとすれば胸が熱いですね。

しかしこの筋まで安藤下屋敷の範囲だとするとちょっと広すぎる感じがします。小石川や巣鴨の飛地もあったはず。いつからかは飛び地になったか不明ですが。

豊島郡巣鴨村図(1801年)では東側境界が真っ直ぐに引かれています。
小石川、巣鴨の飛地も描かれていますね。
https://adeac.jp/toshima-history/viewer/mp110070/tosimac1/18

ヒントがないか探したところ、以下の記事を見つけました。

雑司ヶ谷鼠山感應寺
https://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/ato_nezumiyama.htm

天和3年(1683)安藤但馬守下屋敷の東半分が公収され、以下のような感應寺境内を形成する三角形に近い形となる

s_minaga様サイト雑司ヶ谷鼠山感應寺より引用

やはり1642年時点より範囲が狭くなったようです。
すると「上り屋敷」はどこにあったのか。
・吉宗の時代以前には範囲は狭くなっていた。
・明日館付近で将軍の為の休憩所が設けられていたという伝がある。(上り屋敷の語源)
・上記の理由から明日館付近の字名が「西谷戸大門原」とされた。
・家光の鷹狩は高田氷川神社近くの高田御殿、薬園、法妙寺あたりで昼餉を取っていたとある。(豊島区史 資料編三)
・安藤下屋敷の記録が出てくるのは吉宗から。(豊島区史 資料編三)
この辺りは次回以降のお題としたいと思います。

それにしても西側の三角地帯や鼠山が描かれておらずまっすぐに境界が描かれているのが気になります。
当時は手付かずの武蔵野の原野だった?でしょうし、鷹狩できるくらいの田舎ですもんね。
三角地帯はそもそも自然の地形ではないと思います。
何かが存在し、人が通り、道筋ができ、だんだん形が出来上がると考えます。
最初に書いた「特徴をとらえて描いている。」とすれば、やはり直線的に境界が描かれる理由があったのだと今は考えるしかないですね。

現在の目白通り(清戸道)とほぼ並行に走る北側の道筋が描かれています。この時代からあったのですね。
清戸道との分岐は鼠山の南側あたり、長崎村と下落合村の境界が道筋なのではと推測しています。
現在の豊島区と新宿区の境界が微妙な形なのは何故なのか、清戸道との道筋の使い分け、この頃の椎名町がどうだったか、どう形成されたのかも気になりますね。

前回の記事でも書きましたが鼠山太田家屋敷はどこなんでしょうか。
こっちもとても気になってしまい妄想が止まりません。
豊島区史が全部頭に入っていたら・・・
せめて文字検索出来たら・・・捗るのに。

また何か気付いたら書きたいと思います。

※地図・資料引用元
◆国土地理院
http://maps.gsi.go.jp/

◆港区/デジタル版 港区のあゆみ
https://adeac.jp/minato-city/text-list/d110021/ht000260

◆文京区立図書館
【臼杵市教育委員会所蔵】寛永江戸全図(寛永19~20年)
https://www.lib.city.bunkyo.tokyo.jp/dl/index_828.html

◆s_minaga様
https://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/index.htm
雑司ヶ谷鼠山感應寺
https://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/ato_nezumiyama.htm

◆豊島区史 地図編(上)
https://adeac.jp/toshima-history/top/topg/06kikankushi/tosimac1.html

◆豊島区史 資料編三(御成り 鷹狩 年表)
https://adeac.jp/toshima-history/viewer/mp120030/tosimas3/682


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