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池袋地名の由来「丸池」
池袋の由来は諸説ありますね。
今回はその中の一つ「丸池」についてです。
現在の丸池があったとされる「豊島区立元池袋史跡公園」は元の場所から20m程東にずれています。
元の名称は「元池袋公園」マンション建設の為に明け渡したようです。
1980年頃の「元池袋公園」ですが、今思い出すとこんなとこに公園が?と思うような寂れた場所にぽつんとありました。
遊具もないベンチがあるだけ、「丸池」は石やコンクリに囲まれた無機質な「穴」で金網に閉ざされ、水も確認出来なかった記憶があります。
現在の賑わいとはまったく想像も出来ないですね。
そんな「丸池」も江戸、文化の頃には300坪はあったようです。
豊島区郷土資料館「かたりべ 45」から引用してみます。
https://www.city.toshima.lg.jp/129/bunka/bunka/shiryokan/kankobutu/kataribe/documents/kataribe45.pdf
「遊歴雑記」文化11年/1814年
当村を池袋と号けし事ハ、往古夥しき池ありしによってなり。
中古より段々と埋まりしかど、今もなを三百余坪もあらんや。
大正期、成蹊実務学校時代の写真では25mプール程もなく縮小しているように見えます。泳げる程にはキレイだったようですね。
成蹊実務学校時代(大正7年頃)の丸池は下記資料「11ページ」を参照
https://adeac.jp/toshima-history/viewer/mp105000/toshima50th
300坪≒992平方メートル
25mプール3個分程度の広さのようです。
ここでは30m四方でざっくり確認します。
現在の地図にプロットすると以下のような感じ
![](https://assets.st-note.com/img/1739714629-xmPYsO6GFNbDBW5v2lc7X9kR.png?width=1200)
高田町史(昭和八年)200頁によると昭和初期にはかなり汚れてしまったようです。※弦巻川、鶴巻川と表記にゆれがあります。
鶴巻川と水源の丸池
雑司谷浅井原の池谷戸なる鶴巻川の水源である處を丸池と云ひ、池は清水で絶えず湧き出でて河に流れた。
今は鉄道教習所の構内となり、石囲いの水溜となつて居るが、大正時代の初期までは付近の子供達が水泳して居た。
昔は此の池から湧き出る水が滾々として流れ、相当に広き幅で河をなし、源義家などが、此の川で戦ひ、弓の弦を巻いた事もあるので、弦巻川と稱呼が起こつたほどであつたが、何時しか両岸が狭くなり、耕地と変じ遂に宅地と化し、河が下水となり、将来は下水が鉄筋コンクリート管と換り、埋没せられて河の姿を失ひ、歴史に其の名を留めるばかりとなるであらう。
昔は弦巻川は蛍の名所で(略)と詠まれたが、今は其の池の水は、鉄道教習所埴土の残飯残肴の棄場となつて、濁水漲ぎり、弦巻川は、裏長屋の炊事洗濯の汚水と塵芥とで、悪臭鼻を撲ち、昔は月の名所、蛍の名所であつたが、今は蚊の名所、蠅の名所となり、昔は閑寂としてのんびりした處であつたが、今は荷馬車の音、トラックの音、自動車の音など、喧しき騒音に俗化されて了つた。
なかなかの悲惨な状況です・・・
この後はどんどん埋められてコンクリのかたまりになってしまいます。
現代でも「井戸」を埋めるのに抵抗があるということをよく聞きます。
当時、池が埋められていくというのはどんな心持だったのでしょう。
丸池は「雑司ヶ谷村図」明和九年(1772年)に村内として描かれています。
https://adeac.jp/toshima-history/viewer/mp110070/tosimac1/17
元から「雑司ヶ谷」だったのか?
「池袋村の起こり」と言うならば元は「池袋村」だったのか?
だとすると「丸池」は何時、雑司ヶ谷村に移管されたのか?
疑問が湧いてきます・・・
豊島区郷土資料館「かたりべ 45」に下記の記述があります。
https://www.city.toshima.lg.jp/129/bunka/bunka/shiryokan/kankobutu/kataribe/documents/kataribe45.pdf
池袋村は土地が高くて池水を引くことができず、土地の低い雑司ヶ谷村に池の湧き水が弦巻川となって流れ出ていたため、雑司ヶ谷村の用水として使われるようになり、池の掃除や泥さらいなどを同村がおこなうようになったからだといいます。
丸池は元は池袋村だったというニュアンスに取れますね。
「かたりべ45」この記事の元となった文献をどこかでみたのですが現在みつけられません。
◆2025/2/20追記 豊島区史に記述をみつけました。
https://adeac.jp/toshima-history/viewer/mp120030/tosimas3/569
想像(妄想)するに、丸池周辺は湿地帯で土地の利用も難しいような場所だった。
池袋村の管轄だったが雑司ヶ谷村が水源として必要としてるので、そっちで管理するなら移管するぜ!ってなことなんでしょうね。
その場合「代地」として土地交換があるような気もしますが、どうなんでしょう?探せば文献が見つかったりするでしょうか。
豊島区郷土資料館「かたりべ 3」に池袋の由来についての面白い考察が書かれています。
https://www.city.toshima.lg.jp/129/bunka/bunka/shiryokan/kankobutu/kataribe/documents/kataribe03.pdf
イケブクロという呼称は先に開発が進んでいた雑司ヶ谷地域の人々が自分たちの生活用水の源地方を指して呼んだものが地名化したのかもしれません。
外部からの呼称説は新しいですね。
「俗称」が「通称」になり、「正式名称」になるということでしょうか。
そんな事例があるかちょっと調べてみたいと思います。
豊島区郷土資料館「かたりべ 85/86」ではまた別の由来について紹介されています。
https://www.city.toshima.lg.jp/129/bunka/bunka/shiryokan/kankobutu/kataribe/documents/kataribe85-86.pdf
「袋を背負った亀」説、私は好きです。
村絵図をみていて気になっているのは、丸池のさらに上流に湧水地があったと思われることです。
池袋村絵図では現在の立教通り辺りに橋と流れが描かれています。
これについて語られている資料を見た覚えがありません。
![](https://assets.st-note.com/img/1739714787-6IKfErit8Pcbyu3ZeFW7nHDd.png?width=1200)
池袋の由来について色々な説を見聞きしますが、私個人の「妄想説」は、これだ!と、はっきりと言えるものはありません。
以前「ブラタモリ」で紹介されていた下板橋付近の谷端川についての説はなるほどな~と思うものの、正直ピンとは来ませんでした。
ぼんやりとですが「村の至る所に池や湧水がある」「村のカタチが袋みたいだな・・・」と考えています。
![](https://assets.st-note.com/img/1739714853-yZNYPFcTex4i8L3BprCwH5sW.png)
※地図引用元
◆豊島区史 地図編(上)池袋村図 P19 雑司ヶ谷村図 P17
https://adeac.jp/toshima-history/top/topg/06kikankushi/index.html
◆国土地理院
http://maps.gsi.go.jp/