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続・寛永江戸全図(1642年)でみる豊島区周辺(鼠山と安藤下屋敷と上り屋敷)

安藤下屋敷の「謎のクランク」について新たな気付きがあったので前回記事の続きです。

寛永江戸全図(1642年)で描かれた安藤下屋敷は「ちゃんと特徴をとらえて描かれている」という仮説をご紹介しました。

文京区立図書 【臼杵市教育委員会所蔵】寛永江戸全図(寛永19~20年)より引用

その「特徴的な」場所「A」についてここではないか?と思い浮かんだものの「現代地図」からの推察なので書いていて非常にモヤモヤしておりました。

出展:国土地理院「標準地図」を加工して作成

ところが・・・
「落合道人」さんの「落合学」ブログ記事から「これがクランクになっている原因では?」というヒントを頂きました。
一気にモヤモヤが晴れました!是非ご一読を!
(いつも楽しく拝読しております)

結論から言うと「塚」を避けた為に安藤下屋敷の境界が「クランク」になり、その特徴を描いたのではないか?と・・・

出展:国土地理院「標準地図」を加工して作成

「ちゃんと特徴をとらえて描かれている」という前提で考えると納得できる理由です。
もしかすると「字狐塚」と呼ばれていた土地にも塚があり回避対象だったかも知れないと考えましたが「天和3年の上地」に含まれているので安藤下屋敷の敷地だったということになりそうです。

天和3年3月 1683 雑司が谷安藤家下屋敷、切坪上地 【通1-422】

豊島区史より

前回記事では「安藤下屋敷の境界=村境」という先入観がありました。
実際その通りな部分もありますが、決めつけは良くないですね・・・

また色々な年代の地図を眺めていると「上り屋敷公園」北側は戦後の区画整理による「境界の変更」があったようです。

次に江戸期の資料に当たってみます。
「御府内場末往還其外沿革図書」を確認すると安藤下屋敷は延宝年間(1673年~1681年)時点では上地前の状態で「百姓地境界不詳」とあります。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2587247/1/14

天和年間(1681年~1684年)では東側が上地になって「百姓地境界不詳」とありつつも三角地形の一辺が確認できます。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2587247/1/15

幕末の頃「感応寺」の廃寺後には村境がはっきりしています。
「不詳」だったものを代地の為に「はっきり」させたと推察されます。
現在の「上り屋敷公園」と思われる場所が「雑司ヶ谷村」ではなく「池袋村」となっていますね。
「塚」の存在は確認できませんが「字狐塚(巣鴨・小石川代地)」の形が現在に引き継いでいるように見えます。
代地の割り振りが何故その形になったの・・・?という疑問が湧きます。
「何か」が存在していたかも?という妄想が止まりません(笑)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2587247/1/16

「不詳」にもかかわらず「1642年当時に塚を避けた境界が特徴的に見えて描いた」が現時点での推察です。
「不詳」ついでに妄想しますと鼠山側の「しっぽ」の辺りの三角地帯が描かれていないのは「手付かずで不詳」描きようがなかったのかも知れませんね。

※地図・資料引用元
◆落合学(落合道人)様

◆国土地理院
http://maps.gsi.go.jp/

◆文京区立図書館
【臼杵市教育委員会所蔵】寛永江戸全図(寛永19~20年)
https://www.lib.city.bunkyo.tokyo.jp/dl/index_828.html

◆豊島区史
https://adeac.jp/toshima-history/top/topg/06kikankushi/index.html


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