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林忠彦の腕時計

分とく山での出会い

2016年1月のことです。当時、僕は「ORDINARY」という写真展を新宿で開催していました。今でも多くの皆さんから感想が届くほど、沢山の方にお越しいただき、自分にとってもターニングポイントになった写真展。そんな写真展会場にお越しになられたファンの方に食事にお誘いいただきました。お店は、著名な料理人・野崎洋光さんが料理長をされている「分とく山」。
野崎さんといえばテレビでもよく見かける有名な方なので、まさかお会いできるとは思っていなかったのですが、途中テーブルに挨拶に来られました。なんとも気さくな方で、僕の仕事やこれまでの経緯にも耳を傾けてくださり、少しの時間でしたが人柄は料理に直結するのだな、と思ったものでした。

全ての料理が終わる頃、再びテーブルに野崎さんが来られ、少し写真の話をしていると「ちょっと待ってて」と言ってどこかへ行ってしまいました。数分後戻ってくると「これ、あなたに差し上げます。」と言いながら本と時計を手渡されました。

「これは、うちの常連だった林忠彦先生の形見です。」

晩年、「もう来れなくなるかもしれないから俺の時計をおいていく。」といって野崎さんに手渡された時計だそうで、野崎さん自身も電池の交換を欠かさず長年保管してきたのだそう。でもなぜ僕に?

「僕は料理人です。林先生は偉大な写真家で、先生の心を受け継ぐような人が現れたらいつか差し上げようと思っていました。あなたこそ、その人に相応しい。いつか先生のように偉大な写真家になってください。」

正直、手が震えました。駆け出しの僕にとっては神のような存在の写真家が実際に愛用していた腕時計なのですから。でも野崎さんの意思は固く、これはあなたの手元にあるべきです、と言われ震える手で受け取りました。

ところがこの時計、相当古いもので電池こそ交換されているものの時間の合わせ方がわかりません。なにより、そんな大切な時計を普段から使うわけにもいきません。僕は大切に仕事部屋の棚に飾ることにしました。

しばらくして時計を見ると電池が切れてしまっていました。旭川の時計屋に持ち込むと、古すぎる時計のため電池交換ができないと言われてしまいました。大切な時計なのに。そんなこともあり、数年は電池が切れた状態で保管を続けていました。

9年ぶりの電池交換

時は経ち2024年暮れ。部屋の掃除をしているとこの時計に目が止まりました。いつも見てきた時計で電池が切れていることもわかっています。なのに何故か電池を新しくしないといけないと思いたち、旭川の時計屋を探してみることにしたのでした。すると、どんな時計でも電池交換しますというお店を発見。店主にこの時計を見せると、やってみます、と言ってくれました。1時間後、「出来ました」と完成の連絡。しかも時計の時間まで合わせてくれていました。聞くと、本当に珍しい時計のだとのことで、長い時計屋人生で2回しか見たことがないとのことでした。

いつもの年末、いつもの片付けだったのに、無性にこの時計のことが気になり、ついに息を吹き返した「林忠彦の時計」。9年近くの時を経て、僕の左腕で活躍してくれることになりました。

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